第140話 魔物さんもみんないいひとなのじゃ
「魔力の欠乏で、意識を失っていたのだから、無理もないけれど…」
フランシーヌが、イネスをじっと見た。
「イネス…、あなた、いま、自分がどこにいるか、わかっているのかしら…」
「どこって…」
ここは、自分がかつて住んでいた城。
わからないはずがない。
「はっ…!、ま、まさか…」
イネスは、思わず、叫んだ。
背筋に、冷たい汗が流れた。
「やっと、気がついたのか…」
賢帝が、あきれたように言った。
「ここは、帝国」
昨日まで、姉上が住んでいた国とは、あの広大な海をはさんでいる。
「ま、まさか、『転移魔法』なの…」
おもわず、声が震えた。
ただの、おとぎ話にすぎないと思っていたからだ。
「ジュンさまは、どこにでも、いっしゅんで連れて行ってくださるのですよ」
ジュリアンが、得意げに言った。
そのうえ、
「きのうは、ジュンさまのリュックの中のお部屋で…」
「ジュンさまの家臣の、おっきなケルベロスさんが、城を凍らせて…」
わけのわからないことを、言い始めた。
こんなにうれしそうに話す、我が子の顔見たのは、はじめてかもしれない。
…………
『これは、ますます、母親としてきちんと話をつけないと』
イネスは、いちだんと強く、拳を握りしめた。
突き当りの部屋から、『転移ゲート』をくぐると、
『真っ白な部屋』に出た。
『真っ白なテーブルと椅子』があり、
『真っ白なティーセット』が置かれていた。
ティーカップからは、芳醇な茶葉の香りが、ただよってきた。
「こ、ここは…」
イネスは、思わず、声を上げた。
すると、
「ようこそ、マドモアゼーーール…」
はるか上方から、鼻にかかったような声が聞こえてくる。
思わず見上げると、声を失った。
そこには、恐怖の象徴ともいうべき『ドラゴン』がいた。
ところが、
「おおっ!ドラゴン殿」
「ここにはいつ来ても、熱いお茶が用意されていて、すごいのじゃ!」
幼いシャルが、お友達のように、ドラゴンと話し始めた。
「あ、ありがとうございます!」
自分の陰の努力を知ってもらえて、よほどうれしかったらしい。
ドラゴンの目に、一粒の涙が光った。
まあ、オイルだろう…
「せっかくだ、いただいていこう」
さすが賢帝と呼ばれる男。
いつも、民の気持ちにこたえる、心構えがある。
民とは、ほど遠いが、ドラゴンにも寛容だった。
「ど、どうぞ!ご、ごゆっくり…」
あまりの嬉しさに、今度は、声が裏返った。
…………
イネスの心から、『恐怖の象徴』の五文字が消えてゆく。
…………
皇族ご一家の、お茶会が始まった。
「で、では…、わたくしも……」
ずるずるずる……
小指をぴんとたてながらも、上品にカップをつまんでいる。
ミノタウロスさん特製の、巨大ティーカップだ。
いちおう、ジュンの家の『ボーンチャイナ』を参考に作られている。
ダンジョンでは、昔から酪農に精を出してきていたので、原材料の牛の骨もたくさんあるのだ。
もちろん、カップから湯気をあげていたのは、高級オイルだ。
しかし、色が紅茶と同じなので、ちょっと見では、区別がつかなかった。
「またのお越しをお待ちしております。マドモアゼーーーール」
開店直後のデパートの職員のように、深々とお辞儀をするドラゴンを後にして、ふたたび、『転移ゲート』をくぐった。
転移した先には、『超高級ホテル』のロビーがあった。
「こ、ここは…?」
「まったく…」
賢帝が、あきれたように言った。
「これが、城壁の中なのだよ。姉上…」
ここに来ると、常識がおかしくなる…
ぶつぶつ、つぶやいている。
「城壁って…」
何を言っているのだろうか。
天井は大聖堂のように高く、きらびやかなシャンデリアが吊られていた。
天井の高さを考えると、どれだけ巨大なシャンデリアなのかに思い至る。
窓は、ステンドグラスになっており、さまざまな色彩を帯びた光が躍るように、床を飾っていた。
まさしく、王室御用達といった『超高級ホテル』だ。
『レギン工房』のドワーフたちが、好き勝手に造った傑作だった。
「お母さま……、ぼくたちの住むお屋敷も、もう決まってるんですよ」
ジュリアンが、うれしそうに言った。
今まで暮らしていた城は、艦砲射撃で、瓦礫と化した。
子供なりに、どこで暮らせるのか不安だったのだろう。
「いま、姉上の召使たちが、屋敷の中を整えている。それが終わるまでは、ここの施設に泊まってくれ」
賢帝が、説明を加えた。
…………
「せっかくなのじゃ」
「イネスおばさまに、屋上からの景色を見てもらうのじゃ」
シャルの提案で、第三城壁の屋上に上がることになった。
…………
「なんて高さなの…」
イネスは、まず、その高さに驚嘆した。
ただ、
なぜか、焼き肉の香ばしい匂いやら、タレの匂いやら、お酒の匂いやらが、しみついているようで、首をかしげた。
「帝国の城壁の倍は、あるかもしれん」
賢帝が、ぼそりとつぶやいた。
それだけじゃない。
「姉上たちの街を破壊した艦砲射撃と、同程度の砲撃をくらっても、傷一つつけられないらしい…」
賢帝の顔は、冗談をいっているようには見えなかった。
「それに、ここに住んでる魔物さんたちは、とってもいいひとばかりなのじゃ」
シャルが、胸をはって言った。
「…そう」
『魔物が、いいひと』というのは、理解不能だったが、シャルの気持ちは十分伝わってきた。
「…ありがとう」
『転移魔法』といい……
『ドラゴン』といい……
この桁はずれの『第三城壁』といい…
これ以上の堅牢さをもつ街など、ありえないことは、イネスにもわかる。
「ここは、ほんとうに世界一安全な街なのね」
イネスは、ようやく、ジュリアンたちと落ち着いて暮らせる場所を見つけた気がした。