窓の外の泣き声
「じゃーな、村田。退院したら、生還祝いで飲み会開いてやるよ」
「おう。楽しみにしとく」
大学のツーリングサークルの仲間たちが病室を去ると、急にしんと辺りが静かになった。
バイクで転倒。右足を骨折して、一週間の入院。ツイてない。
窓際のベッド、それも二階の病室なので、外の景色がよく見える。ガラス越しに、木々の新緑が風に吹かれて揺れていた。木陰の下を、ネコが歩いている。
空は青く、晴れ渡っている。
絶好のツーリング日和だ。きっと、オレの見舞いに来た仲間たちはバイクだろう。初夏の風の中を走る。うらやましい。
病室に目を戻せば、右足に真っ白いギプス。ため息が出た。ベッドが三つ空いた、人気のない室内は、意外なほど広く感じる。
廊下から、松葉杖をつく音がした。
コツ、コツ、コツ、とゆっくり近づいて来る。
「はい。お疲れさまでした、寺井さん」
女の看護師に付き添われて、小柄なおじいさんが姿を現した。オレの隣のベッドに腰掛ける。
「お帰んなさい」
「ふー、疲れた」
七十九歳と言っていたが、驚くほど元気だ。
看護師は寺井さんをベッドに寝かせ、松葉杖をサイドテーブルに立て掛けると、出て行った。
相部屋の住人は、今のところ、オレと寺井さんだけだった。
「村田くんは、動けんで、つまらんじゃろ」
ベッドのリクライニングを起こした状態で、寺井さんは笑う。
初対面は偏屈じいさんかと思ったが、話して見れば気さくな人だ。
自宅で転んで、左足首にヒビが入ったらしい。高齢だから、リハビリに時間が掛かると医者に言われた、とのこと。
「さすがに昨日担ぎこまれて、今日動き回れませんて」
「なぁに、若いんじゃから、明日にはピンピンしてるさ。それに、昼間に動かんと夜眠れなくなるから、気い付けな」
寺井さんの言う通りだった。
夜の消灯時間を過ぎても、一向に眠気はやってこない。蛍光塗料が塗られた、時計の針を読めば、午前二時。
サイドライトで、昼間に仲間たちが置いていった、マンガでも読もうかと思ったが、寝ている寺井さんに気兼ねして実行できなかった。
カーテンで仕切られていたとしても、明かりは届いてしまうかもしれない。高齢者は、眠りが浅いと聞いたことがある。もし起こしてしまったら、申し訳ない。
古典的な方法で笑ってしまうが、羊を数えることにした。
窓側へ寝返りを打ち、瞼を閉じる。
草原と、柵と、羊を脳裏に思い浮かべる。
メエーと鳴きながら、羊が柵を飛び越える場面を想像する。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。
メエーと、羊が柵を飛び越える。
……羊が十匹……ひつじが十三匹……。
……ひつじが二十六ひき……ひつじがさんじゅう……。
浅い眠りは、唐突に遮られた。
はっと目を開ければ、暗闇に天井が見えた。
泣き声が、聞こえる。
おああぁぁぁああん。
おああぁぁぁああん。
血の気が引いた。
窓の外で、赤ん坊が泣いている。
おああぁぁぁああん。
おああぁぁぁああん。
夜闇に響く泣き声に、体が震える。初夏なのに、得体の知れない寒気を背筋に感じた。ぞくぞくする。
仕切りのカーテンをまくって、窓の外を確認する勇気は、ない。
おああぁぁぁああん。
おああぁぁぁああん。
泣き声は、止まない。
おああぁぁぁああん。
おああぁぁぁああん。
――そうだ、ナースコール!
閃きが頭の中を走った。
手探りで枕元を探す。長いコードが指に触れた。あった。良かった。コードの先をたどれば、丸いボタン。
いざ押そうとして、耳を疑った。
にああぁぁぁああん。
にああぁぁぁああん。
その、鳴き声。
昼間に見た、風景を思い出した。風に吹かれる新緑の木々、その下を歩く――。
ネコ。
脱力し、シーツに沈んだ。ナースコールから手を離す。
初夏はネコたちの発情期だ。赤ん坊のような声で鳴くと、ツーリングサークルの誰かが言っていた。
おああぁぁぁああん。
にああぁぁぁああん。
怯えていた自分が馬鹿らしくなった。安堵したせいか、瞼が重くなる。
そのまま、沈むように意識が途切れた。
人々のざわめきで、目が覚めた。
何やら、病院内が騒がしい。
体を起こして、仕切りのカーテンを開ける。
「ああ、やあっと起きたか」
松葉杖をついて、寺井さんが相部屋に入って来た。オレよりもとっくに起きて、歩き回っていたようだ。
「……なんか、あったんすか」
松葉杖をつきながら、寺井さんがゆっくりとオレのベッドに近づく。傍らのパイプ椅子に座って、声をひそめて言った。
「……死体が見つかったんじゃよ」
耳元で、あの、なき声が蘇る。
「それって、ネコの死体っすか?」
「馬鹿言っちゃいけない!」
顔をしかめて、寺井さんは身を乗り出した。
「赤ん坊の、死体じゃ」
「えっ」
寺井さんが窓へ視線を投げた。朝なのに、何故かカーテンが引かれたままだ。
「窓の外の、木の下に、捨てられていたそうじゃ」
じゃあ、あの、声は。
発情期のネコではなく、本物の、赤ん坊の、声。
体が震えた。カチカチと、歯が鳴る。
「おい、村田くん! どうした!」
血相を変えた寺井さんが、オレの肩に手を置く。その皺くちゃで、細く、シミの浮いた、それでも確かな体温に、言葉を絞り出す。
「てててて、寺井、さん。オレ、昨日の、夜。あああ赤ん坊の、泣き声を、聞きました」
寺井さんの目が、大きく見開かれた。
「てっきり、ネコだと、思って。この時期、発情して、鳴くじゃ、ないですか。オレも最初は、赤ん坊だと思ったんです。でも、やっぱり、ネコで。にゃああんって、鳴いていたんです。絶対、そうです」
「しっかりしなさい、村田くん!」
寺井さんの怒鳴り声が腹に響いた。
「いいか、よく聞け。看護師から聞き出した話じゃ」
強張った表情で、寺井さんは言った。
「見つかった赤ん坊には、臍の緒がついていた。生後すぐ、死んだらしい」