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「おはよう」
古びた茶色い本を数冊両手に持ち教室に入ってきた男が笑顔で彼に言う。
「ああ、おはよう」
椅子に座っている彼は、頬杖を突きながら少し気だるげに返した。
彼――ジラン・ルクスギルフはウェルザリア北東部にある最大の貿易都市チェスターの修剣学院の修剣士でウェルザリア東西にある国防軍の西軍の参謀を務めている父親をもつ一等階級の貴族である。
黒く鋭い瞳、黒色の髪、整えているわけでもなく髪の生えてくるままに任せた髪型、白を基調とし赤のラインが入った制服を細身の体で着こなした姿は貴族の風格を漂わせている。
成績は魔法よりも剣の方が良く、本人も剣の方が自分に合っていると自覚している。
男――アラーシュも同じくチェスターの修剣学院の修剣士で修剣学校では珍しい平民出身だ。
茶色く穏やかな瞳、黒色に近い茶色の髪、ジランと似たり寄ったりの髪型、細身の体で同じ白の制服を着ている姿は平民と言わなければ誰もそうは思わないだろう。
アラーシュもジランと似たような成績だが、剣と魔法どちらの方が自信があるかと聞かれれば魔法だ。
手に持っていた本を机に置き、腰に差してある白い鞘に入った約一メル程の剣を、椅子と椅子の隙間に立て掛けると、ジランの右隣の席に腰を下ろしながらアラーシュは言った。
「眠いの?それとも面倒な家の事情でも考えてたのかな?」
「ああ……まあどっちもだな。眠気は寝ればとれるだけいいさ」
ジランはため息を漏らす。
「貴族様も大変だね」
アラーシュは小声で囁いた。
なぜアラーシュが小声で言ったかというと、ジランは学院及びその他の私生活で自分が信頼している人以外には身分を隠しているからである。そして身分を隠している理由は、貴族だからと媚びを売られることや立ち居振る舞いが嫌だ、面倒、ということもその一つだが、一番の理由は親の——厳密には父の——威厳を借りたくないからであった。
「変わってくれたまえよアラーシュ君。私は君の家のような家族が理想なのだよ」
ジランは普段の言葉づかいとは異なるふざけた口調で言う。
「あはは、そんなに僕の家族が羨ましいのか」
「そりゃあ羨ましいよ。なんというかさ、温かいじゃないか」
「まあジランからすればそうなのかな。僕はそれが普通だけど」
「へぁ~」
ジランは机にだらりと伸びた。
父親が西側の国防軍に勤めているのにジランが真逆の都市の修剣学院に入っている理由の一つとして、七年前に起きたある出来事がきっかけで親と険悪な仲になっていたという事実がある。それにより早く親元を離れたいと思っていたジランは、今ようやく念願の親元を離れることができているのだ。しかし修剣学院を卒業したらどうせ軍に入ることになる。別に軍に入ることが嫌なのではない。修剣学院はいずれ国の役人となる人材を育てる育成機関であり軍に入る者も多い。ただ、ジランは配属されるのが父親の勤めている西軍ということ、そして何よりアラーシュとフィーナの二人とまた離れなければならないことが嫌でならないのだ。
だがしかし、それはあと一年後、学院を卒業してからの話。まだ猶予はあると問題の先延ばしをしていたのだが、そううまくはいかなかった。昨日ルクスギルフ家から届いた手紙には、軍とは話がついているので手続きをしてきなさいという趣旨の内容が書かれていた。手続きとはウェルザリア軍への入隊、それはつまりアラーシュとフィーナと再び離れ離れになる強制的宣告。ジランにとっては耐え難いことであり、その内容を目にした時の絶望感は七年前に二人と一緒にいられなくなった時に抱いたものと同じ大きさだった。相手の都合を考えないなんとも身勝手な親。しかしそれは貴族として生まれた者の逃げられない性というもの。
しかし不幸中の幸いか、読み進めると軍に入ってしばらくはこの都市の部隊に所属することだという趣旨の内容も書かれていたため、首の皮一枚繋がったということになる。だが二人と一緒にいられる時間が大幅に削られたということに変わりはない。それに今回のようなトラブルがなく普通に軍に入っていたとしても、ジランは貴族という身分を活かした人脈を使い、あの手この手で二人と離れないように諮ろうと考えていたので、やはり今回のトラブルはジランの今後のプランを乱す大きな痛手だった。
「あら、朝から哀れな顔ね」
気づけば左隣には女が座っていた。
女――フィルリーナ・フィーネフェルトもまた同じ学院の修剣士で、こちらはウェルザリア東西にある国防軍の東側の総司令官――つまり東軍のトップ――の父親を持つ一等貴族である。
深い黒の瞳、腰まで届きそうな長さのまっすぐで艶やかな黒髪、すらりとした体に同じく白の制服を纏った姿は高貴な貴族そのものだ。
成績は剣、魔法共に優秀の美を飾り続けており、どの地方の修剣学院の優秀な生徒でも敵わないほどだが、ウェルザリア北西部に位置する港湾都市リバプールの修剣学院に所属している悪魔と罵られるほどの魔法の天才には、フィーナの魔法も唯一敵わない。
「フィルリーナお嬢様はご機嫌だな」
ジランは首を動かしフィーナの方を向くとすぐさま返す。
「別に」
「おはようフィーナ」
「おはよう。アラーシュ、あなたが持ってきたその一番上の本を貸してくれないかしら」
「いいよ」
いつも通りの澄ました顔でアラーシュに挨拶を返したフィーナは、アラーシュから本を受け取ろうと手を伸ばす。フィーナはジランの頭上で本を受け取ると、そのままわざとらしく手を放した。本はジランの後頭部に当たりゴンっと鈍い音を立てると、そのまま机に倒れる。
「いた」
「ごめんなさい手が滑ってしまって」
「わざとだろ」
起き上がるとフィーナをやや睨みつけながら言った。
「わざとじゃないわ」
真顔でしらを切るフィーナ、それに対してジランは反撃の煽りを入れる。
「そうか。フィルリーナ様は案外どんくさいんだな」
「いいえ。隣で辛気臭い顔を浮かべられるとこっちまで辛気臭さがうつるからよ」
「そうか、とりあえずわざとだったってことはわかったよ」
そのまま再び机にだらりと伸びる。
すると二人のやり取りを微笑ましく見ていたアラーシュが話を切り出した。
「今日さ、いつもの場所に行かないかい?街で食材を買ってさ」
「私は別にいいけど」
「俺は特区に行かないといけないから無理だな」
「あら、付き合い悪いわね」
ほっぺをツンとしてくるフィーナの人差し指をどけながら続ける。
「仕方ないだろ、呼ばれてるんだからさ」
体を起こすと両手を上に上げ伸びをした。
「それじゃあ仕方ないか」
「まあでも買い物は無理だけど夕食には間に合わせるようにするよ。どうせ料理するのは俺なんだろうし」
「わかってるじゃない」
フィーナはニッコリ笑顔を見せる。
「でもたまには二人の手料理も食べてみたいけどな。特にフィルリーナさん」
「貴族は自らの手は汚さないのよ」
「誰殺そうとしてんだよ」
「ふふっ、じゃあこれで決まりだね」
優しい笑みを浮かべながらアラーシュは首を少し傾けた。




