僕がヒトの世界を捨てた日 4
旧校舎。夕暮れが木々から射し込み、古ぼけた木材の壁が斑模様に茜色に染まる。
その校舎の中で、また古く埃を被った厚手の本を散乱させた少年が居た。背の低い黒髪の少年で、レザと呼ばれる彼は独りぼやきながら、放課後こう過ごすのが常だった。
「努力したフリだなんて言うけど、じゃあ結果で出ない努力はみんなそう言うじゃんって。まあ、確かにこの召喚法術まがいの物がさ、僕の力になるんだったら願ったり叶ったりだけど。それだけが狙いじゃないし……」
その者にとって、先天的に得意不得意が出てくるのが法術とその種類だ。これまでに幾つかの適正テストを受けたにも関わらず、それらが何一つ結果としてレザには出てこなかった。
自身の身体強化を図ったり、相手の感覚や身体能力の機能障害を狙う技術も、実体化させたエネルギーを射出して攻撃することも、そのエネルギー自体を構成させ、変形させ、形状を維持させることも。
その全てにも適正が無かったのだ。
だが、彼はそんな自分を──遺伝子の宿命を認めはしなかった。自分にだって何か有るはずだ。そんな意地とでも言えるような情緒で、彼は旧校舎の図書倉庫に忍び込んだのだ。
黴臭い埃を何度も気管支に吸い込みながらも、彼はそれらの法術本を読み解いた。字が始めから理解できた訳ではない。別の国の言葉で書かれたものがほとんどで、辞書を片手になんとなくながらも、添付された図形等でアタリをつけて輪郭を掴む。
そこに書き込まれていたのは、降霊術と似たものだった。召喚術──正確にはこの世には存在しないであろう概念を呼び起こし、それを外部装置の様に自分と接続し、力を得るものだった。
禁術の基礎には、この"他の存在"と自身を繋ぎ止める技法が用いられていると、外部講師が言っていた気がしていた。なぜ、禁止になったのか──と、その時まだ一桁だったレザと同年代の男子が問いた言葉を思い出す。同時に講師の言葉も──
『それは、召喚先が条件を出して、それを呑まされるからなんだよ』
脂汗がつたい、乾いた口を噤む。同時に飲み込む真空の息。
「これで……何がくるのか」
既に術を行うための準備は整っていた。レザの持つ脆弱なマナの量と質を補うための薬液。それを注入するための注射針。詠唱を阻害しないように一体と周囲の音響を切り離す粗末な音響空間操作。
そして、継ぎ接ぎの厚手の本と──それらの結ぶ陣形。
「……な、何も今日しなくてもいいじゃないか。明日だってある。『対抗戦』までには数週間もある。教師が焦りすぎなんだよ。メンツってものがあるから、ああやって脅すような言い方をするわけで」
首を左右に振りながら、独り小さく笑うレザ。だが、日は落ち、周囲には薄暗な闇が降りていた。自身の持つ黒髪が、輪郭を失い始めている時刻と周囲に、背筋を不快に撫でるモノを想起させる。
「いや──そんな後回しで、何からも逃げるようにしてきた僕が嫌だからここまでしてきたんじゃないか。苦笑いで済ませ、ピエロになりすまし、指を咥えて周囲が先を歩いていくのを眺める──アイツラの背中を睨むだけのコレまでを……」
旧校舎の怪談だとか、そんなモノが襲いかかってくるかのような妄想が脳裏によぎり、半ばそれらを払ってもらうために……すがるような心情でレザは準備器具を起動した。
重低音が、鼓膜の奥で籠もり奔流するような感覚が響いた。音響空間操作の法術だ。自分の行いで生じる音が周囲に漏れないように、邪魔が入らないようにするための狙い。それが、維持できるのは精々3分も満たないだろう。だが、それで十分だった。
次に握るのはシリンジと注射針。中には透明の薬液が気泡なく満たされていた。外部から一時的に多量のマナを補うための薬剤だ。レザ自身の基礎的なマナ供給ではこの術は完成しない。
肘正中皮静脈を指で謎る。学校でも、寝床でも、この日のためにずっと二本の指で捉え続けたそこには、規則的な脈動が宿っていた。
「──ッ!」
ワンショット。薬液を流し込んで30秒もすれば激しい嘔気と、頭蓋骨をかち割るかのような頭痛に見舞われる。
「見よう見まねの調剤だったが、それでもキツイな……」
手の甲で口を軽く塞ぎ、目を瞑る。時間ギリギリまで、そう精神を沈み込ませる。
口元から離した手を広げ、刻印された字を怪しげに光らせる書物にかざして、レザは吠える様に言い放った。
「──来い、僕は此処だッッ!」