珈琲とカップケーキ
ふと気になって通った路地裏に、ひとつだけ明かりが見えた。近づいてみると、どうやら喫茶店らしい。
扉を開けてみると、からんからんと音が鳴る。思わず見上げれば、小鳥のおもちゃが乗ったベルが見える。なんとなく懐かしい音だな、と思って視線を前に戻した。
「いらっしゃいませ!」
目が合ったのは、優しそうな声をしている、店員さんの男の人。この時間帯は一人なのか、カウンターの中には彼しかいない。………一目見ただけでも、格好いいと思うくらいには、顔が整っている。
カフェにかかっている音楽はピアノを主体としたジャズ。少し薄暗いカフェで、私服の上に茶色いエプロンを着たその人は、なんというか、すごく似合っていた。
「こちらへどうぞ」
優しく私に笑いかけてくれたそのカフェの店員さん。周りを見渡してみればお客さんは私だけ。もう十時過ぎだし、当たり前か。などと思いながら、言われた席へ座る。
カウンターだから、店員さんの彼と目が合う。
「ご注文は?」
「あ、えーっと…じゃあ、エスプレッソでお願いします」
「わかりました、ちょっと待っててくださいね」
そういってカチャカチャとコップを出す音がして、お湯を沸かす用にであろう、コンロをつける音がした。
十分ほどしたころだろうか。私の目の前には、エスプレッソと、どこから出してきたのやらカップケーキがあった。隣の席にもエスプレッソが一杯とオムレツがある。
隣の席の分はともかく、私はカップケーキなんて頼んでいない。
「あの、このカップケーキは………」
注文してません、と続けようとしたときに、奥からエプロンを外したその人が出てきた。
「あ、サービスなのでご遠慮なくどうぞ!」
「え」
「なんだか疲れていらっしゃるようなので…甘いものは元気が出ますよ!」
「あっ…えっと…」
突然の心遣いに戸惑っていると、その人はカウンターの中から焦ったような声を上げた。外から、車が通ったのであろう音がする。
「あっ、もしかして、甘いものお好きじゃありませんでしたか?あっ、えっと」
目を泳がせてきょろきょろし始めたその彼。慌てて私も言葉を返す。
「甘いのは好きです」
「あっ、ならよかったです!」
ほっとした様子の彼。優しく、というよりかはふにゃりと笑ってから、カウンターを出てきた。
頭の上にはてなマークを浮かべていると、私の隣まで来て、それから確認を取った。
「僕、夕飯まだなんですよ~。おとなり、いいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
ああ、これは彼の分だったのか、と妙に納得する。こんなに自由な振る舞いが許されるということは、彼がこの店のオーナーなのだろうか。
いただきまーす、と隣で言った彼に続いて、私もいただきます、という。コーヒーからはとくべついい香りが漂ってきていた。
ひとくちコーヒーを飲みながら私はふとかんがえる。
隣で自分のつくったちいさなオムレツを食べている彼は、きっととてもマイペースで、いい人なのだろうな、と。ほどよい苦みが口の中に広がった。
「あの…このお店は、あなたが経営していらっしゃるんですか?」
「ああ、はい!のんびりゆったりと、ですけど」
彼が目にかかってしまっていた前髪を耳にかけながら笑った。そのしぐさに妙にドキリとする。初めてあった人にときめくなんて、まるでわたしが惚れっぽい人みたいじゃないか。
「僕、祐也って言います。名前、伺ってもいいですか?」
「私は、美晴って言います。……祐也さん」
「はい、ぜひまた来てくださいね、美晴さん」
にこり、と笑った彼の笑顔に、商売や儲けのことなどないように見えた。純粋に、私にまた来てほしい…というような。うぬぼれかもしれないけれど。
気が付けば彼のところにあったオムレツはなくなっており、コーヒーだけが残っている。私はやっと半分くらいになったコーヒーを飲みながら、カップケーキに手を付けた。上に小さくドライフルーツとざらめが乗っているカップケーキは甘すぎず、ちょうどよく私好みの味だった。
確かに、元気がでる。疲れていたのはきっと仕事を頑張ったからなのだろうが、このケーキはそういうことじゃなくて…もっと深いところで、元気にしてくれるような、そんな感じがした。
最後のひとくちを食べ終わったときには、時刻は11時を回っていた。
ずいぶんとゆっくりしてしまった。このお店の営業時間は何時までなのだろうか。隣でゆったりとしている、この店のオーナーであるはずの祐也さんは何も言わない。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました、おいしかったです」
「いえいえ、こちらこそ!来てくださってありがとうございました!」
笑顔がまぶしい。どうしてこうもこの人は、こう綺麗に笑えるのだろうか。
そしてお会計を済ませようと、コーヒーとあのおいしいカップケーキ代を祐也さんに渡すと、カップケーキ代は丁重に返されてしまった。数分押し問答をしていたけれど、とうとう祐也さんが折れて、カップケーキのお代の半分だけ受け取ってから、レジに鍵をかけてしまった。
そのやりとりに思わず、くすりと笑いがこぼれる。祐也さんも私につられて笑ったみたいだ。
そしてその言葉は、私の口をついて零れおちてきた。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです、美晴さん!カップケーキを作って待ってますね」
ふたたびふにゃりと笑った祐也さんに、高鳴った胸の鼓動。気が付かないふりをして、その日は店を出た。
社会人になってからというもの、1に仕事2に仕事だったせいもあって恋愛とはながらく疎遠だった。けれど、もう一度恋愛をする日が来るのかもしれない。…それはたぶん、すぐのこと。