砂時計と狼
ユサメをばけものと呼ぶ町が、嫌いだった。
マヒカを可笑しいと詰る町が、嫌いだった。
マヒカの願いを叶えまいとする町が、嫌いだった。
だから、そのすべてから逃げ出した。
狼少年のユサメだけが、マヒカのすべてだった。
「マヒカ」
月の光に満たされた世界で、柊のもとに蹲る少女。その波打つ金の髪に、まるで海を切り取ったように青い瞳がユサメを射抜く。陶器のように真っ白な肌には、いくつもの傷が存在を主張していた。ぼろぼろの雑巾のようなからだは、いまにも壊れそうだった。マヒカは、手の中の砂時計を握りしめた。
「行って、マヒカ」
「嫌」
「いやでもいいよ。あとでぼくをさんざんに責めて、詰ればいい。でも今は、行って」
わかってるくせに、と澄んだマヒカの声がした。その声は重く、ゆっくりと、夜の狭間へと消えていく。
「そんなこと言っても、わたしは行かない。わかってるくせに。今日だけで、一生ぶんその台詞を聞いたよ」
「そうだよ、きみは行かない。でも、行くんだ」
「わたしはきみに食べられたいもの。行かないわ」
「知ってるよ。わかってるから」
「ユゥはわかってないよ。わたしのことなんて。だから行けなんて言えるんだ」
「わかってるよ。マヒカのこと、全部」
残酷なまでに優しくて鋭いユサメの言葉を、マヒカは唯一傷のない瞳で跳ね返した。幼い頃からずっと一緒で、ユサメのことならなんでも知ってるのは、マヒカだって同じだ。狼少年のユサメをマヒカが愛したのも、狼のユサメがその愛に応えたことも、それが禁忌を犯していることも。ただの少年のユサメが、マヒカを愛していることも。
「ぼくはきみを愛してるよ。マヒカ」
「わたしだって愛してる。ユゥ」
「……きみが愛したのは、ユサメだろ。ユゥぼくじゃない」
「おなじでしょう? ユゥは、ユゥだよ」
「ちがう。きみの愛したユサメは、きみを喰うんだ。わかってるだろ」
「ユゥだって、わたしをたべるでしょう。いつか」
「ぼくはたべたくなんてないんだよ、マヒカのこと。……だから、はやく、行って」
ユサメは、辛そうな面持ちでなお、マヒカを諭し続ける。月が二人の真上に来ようとしていた。マヒカは、ただそれを見ていた。ユサメは、行って、はやく、と譫言のように何度も何度も繰り返す。マヒカが、ゆっくりと立ち上がった。その緩慢な動作が、マヒカの長すぎるくらい長い髪をなびかせた。ユサメには、端正な顔立ちのマヒカが、まるで月下の姫のように見えた。狼のユサメのためだけに其処に存在する、姫。
耐えきれなくなったように、ユサメが叫んだ。マヒカは、その瞬間、ようやく笑顔を咲かせる。月が、雲に隠れたのだ。
「お願いだから! はやくどこかへ行って、マヒカ!」
「ユゥ、お月さま」
「きみをたべたくなんてない、きみをぼくのものになんてしたくない!」
「隠れたよ」
「もう耐えられないだろ、マヒカ! 今日、たべられてしまったら、きみはぼくになってしまうだろ!」
「……じかんだね、ユゥ」
「駄目、駄目だよ、マヒカ! 今すぐ、逃げて……」
疵きずだらけのからだで、マヒカはあとずさるユサメに絡みついた。彼女の纏う簡素なワンピースが首にかけた砂時計が、夜風に揺れる。
……こんなの、酷すぎる。
ユサメがそう呟いて、喚くのをやめた。マヒカはまるで、これからこの生でいちばん仕合わせ、、、、な時間がくるとでもいいたげな表情をしている。ユサメは、一粒涙をこぼした。
「ユゥ、わたしはね」
「…………うん」
「きみに成りたかったの」
「………………うん」
「だからこれでいいんだよ」
「…………………………うん、」
「わたしのお願い、かなえてくれるでしょ?」
それはまるで悪魔の囁き。少女のからだは、狼に魅入られて、染まりきって、たったひとつのからだを、それだけを望む。少年は、狼になって、その願いを叶えるしかないのだ、もう。はじめて少女を味見した、その日から決まっているのだ。
「ユゥ、あいしてる」
白く細い指が、砂時計をひっくり返した。その瞬間、ユサメが目を光らせた。初めて太陽を見たその瞬間の青葉のような緑の瞳が、深紅に染まった。本能の赴くままにマヒカを雑草だらけの地面に押し倒す。
マヒカの唇の両端が、満足そうに、狂ったように、持ち上がった。それから、狼にすがるようにして、夜が始まるのだ。
狼少年は、これと決めた少女の生きる力を吸いとって生きていかなければいけない。狼少年のユサメは、マヒカを選んだ。マヒカは、応えた。限界まで生きる力を与えて、マヒカはユサメとひとつになって、そして死に逝くのだ。マヒカの愛した狼少年との最期の一夜は、少女の悲鳴のような声で終わりを告げた。
そして少年は、狼になった。