目が覚めたら自分が二人いた。
朝、目が覚めたら自分が二人になっていた。多重人格だとかドッペルゲンガーだとか、そういうものではない。二人とも自分であり、どちらの自我も自分にある。例えるなら1カメと2カメを切り替えるように、あっちの俺からこっちの俺を見たり、こっちの俺からあっちの俺を見たりしているだけだ。つまりとくに困ったこともないわけで。
「……とりあえず掃除すっか」
今日は高校時代からの親友が遊びに来る。アラサー独身男の独り暮らしのわりには片付いてんな、と言わせなければなるまい。俺たちは手分けをして部屋を掃除した。当然ながらあうんの呼吸というもので、効率よくあっという間に片付いていく。
「わりといいもんだな、これ」
しかし俺の片方、俺Aはぐったりと疲れてしまった。当然だ。体力には自信があるとはいえ、さすがに二人分を賄えるほどはないのだから。俺Bはピンピンしていたので、親友を駅まで迎えに行く役は俺Bに任せ、俺Aは寝て待つことにした。
「俺Aはそのまま寝てろよ。それで寝室のドアを閉めときゃ、俺が二人いることもバレないだろ」
まあそうだな。さすがに二人であいつを出迎える訳にはいかないか。役割分担を決めて俺Bを送り出すと、することがなくなったので、天井を見上げながら久しぶりに会う親友のことを考えてみた。15で知り合って俺たちももう30か。うわ、人生の半分? 会うのは何年ぶりって言ったっけ。前に新宿で飲んだのはいつだったか。そんなことを考えているうちに、俺Bが親友を連れて家に戻ってきた。
駅前で適当に買ってきたメシを広げ、ビールで乾杯をする。近況報告、共通の友人の消息、高校時代にやったバカの話。俺Bと親友が二人で笑い転げていると、親友の電話が着信を告げた。
「うっわ、会社からだ」
「日曜なのに?」
「クライアントが動いてれば、うちも誰か待機してないとさ」
ちょっとごめん、と親友が外に出ていったのと入れ替わりに、俺Aは寝室を出た。二人の楽しそうな声を聞いていたら俺Aの体力も回復してきたのだ。そうなったら自分だけ部屋にこもっているのはつまらない。
「おい、俺にもかわれ」
「ばか、出てくんなよ。早く戻れ」
「俺もあいつと飲みたい」
「どっちの俺で会ったって同じだろ?」
「同じじゃねえよ! つーか同じなら俺だっていいだろ」
俺Aは俺Bの肩をつかんだ。その手を逆につかまれ、立ち上がった俺Bが俺Aを寝室に押し込もうとする。やはり力は俺Bのほうが強い。組み合った俺Bを全力で押すが、俺Aはじりじりと後退させられていた。
「俺にも…会わせろ…!」
「お前には絶対に会わせない」
「なんで…だ、よ!」
「絶対に、会わせないからな!」
「いてっ」
結局俺Aは、ほぼ投げ込まれる形で寝室に戻された。バタン!と戸がしまる。すかさず起き上がり、戸を開けようとしたところで、玄関のドアが開く音がして慌てて手を止める。親友が戻ってきてしまったので、俺Aは諦めざるを得なかった。
「いやーごめんごめん。ん?どしたの。恐い顔して」
「恐い顔はそっちだろ。眉間のシワ」
え、と眉間に手をやる親友に、プシュ、と新しいビールの缶を開けて渡してやる。
「トラブル発生の連絡だったんだけどさ、解決したからもう大丈夫。でも顔が戻ってなかったか」
「おつかれさん。もう心置きなく飲んでいいわけ?」
「ああもう心置きなく」
はーっと疲れたように椅子に座った親友は、ぐびりとひと口ビールを飲むと、「で?」とこちらに矛先を向けた。
「ん?」
「そっちの恐い顔は? どこから?」
「え? うーん…いやじつはさ、今朝起きたら俺が二人になってたんだよ」
「……ほう? なに、多重人格的な?」
「いやいや、物理的に2分割。二人分の体力ないから、もう一人はいまそっちで寝てる」
「弱ったもんだな。てか、想像でもそこはリアルか! で?何で分かれたって? 理由じゃなくて、何をもって二つに分類されたのか、その分け方ってことだけど」
「あー、そう言われてみればそうだな、なんかあるはずだよな。とくに意見の対立もないし、困ることもないからほっといたけど」
「なんだそれ。なに、本音と建前とか、天使と悪魔みたいなやつじゃないんだ?」
「うん。今朝も手分けして部屋の掃除してたし」
便利か!と笑う親友を見ながら、たしかに俺たちを分けたものはなんだったのだろうかと考える。
「でもさっき初めて意見が割れてさ、どっちがお前と一緒に飲むかでモメてたってわけ」
「それは光栄ですな」
じゃあ分かれるとしたらなにかなー、と、親友はすっかり大喜利を始める気でいるらしい。
「会社に行きたい自分と、行きたくない自分とか」
「ああ、日曜だから俺ら対立してないんだ」
「そうそう。で、明日になったら会社に行きたいほうが出勤して、行きたくないほうは家で寝てるの」
「それは平和だな!」
「な、それだったらぜひ分かれたいわな」
「お前だったら何で分かれる?」
「えー、なんだろうかな」
「結婚したいお前と、したくないお前とか?」
俺たちの年齢では、結婚を「そろそろ」と考えるやつと、「いやまだ」と言うやつと、大体真っ二つに分かれる。けれど少なくとも30を過ぎてからは、結婚を決めた友人に「ちょっと早くねえか?」とはもう言えなくなってしまった。こいつはどっちだろうな、そう思って言ってみたのだが、反応がなんだか鈍い。
「あー…ああ、いやあ、うん」
コン、と缶を置くと、親友は目を泳がせながらもちょっと姿勢を正した。
「じつは、する。結婚。決まったんだ」
もう一瞬早ければ、驚くあまりにビールを吹き出したところだったのだろうけど。ちょうどごくり、と飲み込んだところだったものだから、ビールが急に液体ではなく固体に変わったかのように、胸がつまって、うまく飲み込めなかった。
「……おー…、おお、そうか。そうかそうか」
いや今日はそれを言うつもりではあったんだけど、やっぱちょっと照れ臭くてさー、先送ってたせいで変なタイミングになっちゃったな。そんな親友の言い訳を聞きながら、俺はなぜだかドッと肩の力が抜けていた。
「はー…お前が結婚かあ……なんだろうな。なんつうか、肩の力が抜けたというか」
「なんだそれ」
「ホッとしたってのかな。そうだ、ホッとしたわ。これでやっと」
「やっと心配しなくて済むって? どこから目線だよ」
「自分の心配しろってか。あ、ごめん、おめでとうって言うの忘れてた」
「いや実際そんなもんよ? オトコ共の反応なんて大体、マジか、やべえ、くそう、のどれかだよ。ひどいのだと、結婚なんてようやるわ、とかさ」
「お前の友だち、リア充いねえんだな」
「ちゃんと自分もそこにカウントしてる?」
そこからは祝い酒に切り替えて、俺たちはまたしばらく笑い合った。これが女子同士だったら、写真見せてよ、とか、どこで出会ったの?とか根掘り葉掘り聞いたのだろうけど、なんだか照れ臭くて、俺にはそれができなかった。
※※※
「駅まで送んなくていいの?」
「来るとき道覚えたから大丈夫。…あ、ヤバ。雨降ってきてる」
「あー、たしか景品でもらった折り畳み傘があったわ。待ってな、それなら返さなくていいから」
悪いね~、という親友の声を後ろに聞きながら、寝室に向かう。部屋に入ると、ベッドの上に横たわり、半分消えかけた俺Aがぼんやりとこちらを見ていた。いたのをすっかり忘れていた。
「まだいたんだ」
「……あいつが帰ったら消えるだろ」
「そうだな。傘どこしまったっけ…あ、あったあった」
ゴソゴソと棚を探り、目当てのものを見つけると、俺Bはもう一度俺Aを見た。
「本当によかったな、あいつの話」
「うん」
「ホッとしたよ」
「ああ、俺も…」
「これでやっと、お前を消せる」
あいつに気持ちを伝えたかった俺Aと、隠したかった俺B。あいつと友だちでいたかった俺Bと、違う関係になりたかった俺A。あいつに惚れていた俺と……ああ、それは俺たち二人、どっちもだ。どっちの気持ちも本音で、強くて、譲れなくて、分かれなければ今日を迎えられなかった。そしてもうすぐ俺は一人に戻る。
「おーい、大丈夫? 小降りだし、見つかんなければ傘なくても」
「おー!あったあった、今行く!」
返事を返して部屋を出ようとして、少し迷って俺Bは俺Aに傘を突き出した。
「ん」
「…なに?」
「お前が渡してこい」
「……は?」
「最後だろ。ほら早く」
俺Aが思わず起き上がると、俺Bが傘を投げて寄越した。
「なに言ってんだよ、無理に決まってんだろ。行けるわけないだろ。俺が会えるわけないだろ」
「最後だろ? お前には」
「やめろって!」
耳を塞ぎ、布団の上にうずくまる。
コンコン、と寝室の戸をノックする音がした。隠れなければ、と思う間もなく、かちゃり、と戸が開き、親友が顔をのぞかせた。
「どしたー?って、え……」
一瞬絶句すると、親友は戸を開けてそのまま部屋に入ってきた。ああ、隠さなければならなかったのに。
「……なにこんなとこで一人で泣いてんの」
「なんでもねえよ。別にお前の結婚を、よかったなあって思ってたら泣けてきたわけじゃない」
「そっか…素直じゃないなあ」
「うっ…譲ってやるって言っとけ。っ、俺の座」
「はいはい。結婚式でスピーチしてくれる?」
「しない。俺は受付をやる。それでそこでナンパしまくる」
「はいはい。泣き止むまでいてあげようか?」
「いい。俺は今夜ひと晩泣き明かすから」
「そうかそうか。じゃあ…今日はほんと、ありがとう」
「うん」
せめて玄関までは見送らねばと、袖でゴシゴシと顔を拭きながら立ち上がる。傘もらっちゃっていいの?と言いながら玄関に向かう親友が、ふと足を止めて部屋を見渡した。
「そういえば、もう一人はどこ行ったん?」
「ああ、消えたよ」
「なんだ。ちょっと会ってみたかったのに」
「もう出てこないよ」
「はは。じゃあ、また」
じゃあな、と軽く手をふり、見送る。
もう出てこないよ。もう一人の俺は今日で消したから。
もう、出てこない。だからまだ、友だちでいられる。