第二話。
「いいですか、姫様。 まずは、転移の方から学んでいきましょう。」
精霊王の座す王城の中庭では複数の侍女達の見守る中で、転移の実地訓練が始まろうとしている光景が広がっていた。
教本による抗議も終わり、ドリィの指導の下で原理と手本を見せて貰ったベルセポネが実際に転移を試みようとしているのだ。
「では、姫様のお好きなあの桜の木の下へ移動してみましょう。」
「分かったわ!」
初めての挑戦に緊張を混じらせながらも、わくわくとした様子のベルセポネにドリィは苦笑してしまう。
「では、姫様。」
「ええ!」
ベルセポネはドリィの声に促されるように瞳を閉じて、脳裏に桜の木の下を思い浮かべて力を解放する。
「……え?……ひ、姫様っっ?!」
……しかし、淡い光りに包まれて消えたベルセポネの姿は桜の木の下に現れることはなく、ドリィの狼狽した声とベルセポネを探す侍女達の声が中庭に木霊することとなったのだった。
※※※※※※※※※※
魔族が住む大陸の中心にある王都に聳え立つのは、お伽噺の中に登城するような暗雲背負った真っ黒な城ではなく、城の主を想像させるような白い色を基調とした質実剛健な佇まいの王城であった。
その王城の主であり、魔族の頂点に立つ者、即ち魔王である男は私室で一心不乱に縫いぐるみを作っていた。
「……よし……後は、このワンポイントのリボンを付ければ……」
嬉しそうな雰囲気を纏いながらも、その表情は敵に止めを刺すことに喜びを覚えているような笑みを浮かべた魔王、ハーデス。
渾身の力作と言える完成間際の縫いぐるみのウサちゃんの耳に細心の注意を払ってリボンを付けようとしていた。
「陛下っっ! 追加の急ぎの書類をお持ちしましたっっっ!!」
その時、大きな音を立てて扉が開き一人の男が書類を抱えて、魔王の私室内へと足を踏み入れてしまう。
今日の分の仕事を捌き、次の予定である会議までの時間を私室で有意義に過ごしているハーデスにとって、思わぬ訪問者であった。
「ご苦労っっっ!!!」
部下が入ってきたその瞬間、ハーデスは己の趣味を誤魔化すために思わず両手で握っていたウサちゃんをビリィッッと大きな音を立てて、真っ二つに引き裂いてしまった。
「……あー……えっと、陛下?……その、すいませんでした。」
暫し二人は居たたまれない沈黙に支配され、頬を引き攣らせた男が頭を下げる。
「ふん……何を謝っている?」
「……ぬいぐるみ……が……」
何の話しだ、と鼻で笑ったハーデスは目の前に立つ男へと声が震えないように注意しながら返答する。
「ああ、これか? 私はこのような物が大っ嫌いだと知っているだろう?
廊下に落ちているのを拾ったが、嫌悪のあまり引き裂いてしまったのだ。……ふん、我が王城にこのような物を持ち込む輩が悪いのだがな!」
魔王としての厳格で、漢らしい雰囲気を纏った魔王は、興味ないとばかりに引き裂いたウサちゃんを放り投げる。
「(……陛下、微妙に涙目になってるし……、悪い事しちまったな……。)」
何処か軟派で亜麻色の髪の猫っぽい雰囲気を持った魔王の幼なじみにして、部下であるアイアノスはハーデスの隠しているつもりの秘密に突っ込みを入れることも出来ず、心の底から申し訳なく思った。
……漆黒の衣装に身を包んだ褐色の肌に長い漆黒の髪、真っ赤な瞳を持つ、無表情な凍り付いたような雰囲気を纏う美丈夫、彼こそがこの世界に存在する六つの種族のうちの一つ魔族を統べる王、魔王陛下だった。
その容姿や身に纏う冷たく、鋭い雰囲気から冷酷無慈悲の鉄面皮、泣く子も怯え、笑う子どもは泣き喚く悪逆非道の恐怖の権化と噂される魔王、ハーデス。
……しかし、そんな彼には誰にも相談できない秘密があったのだ。
……ハーデスは、少女が好むような小さくて可愛いもの、キラキラと輝く甘いお菓子、料理や手芸など、乙女チックな物が大好きな乙男だったのである。
……もっとも、魔王がそんな趣味を持っていては周囲に示しが付かないと考え、必死で隠しているつもりの彼の趣味嗜好は努力虚しく、幼なじみであるアイアノスを筆頭に部下達にはバレバレであったのだが……。
本当は可愛らしいぬいぐるみを飾り、甘いお菓子で休憩をしたいハーデス。
美味しいと思えない無糖の珈琲を魔王のイメージを守るために頑張って飲んでいるハーデス。
剣を握るよりも、大好きなお菓子作りや編みぐるみなどをして穏やかに過ごしたいハーデス。
ハーデスは、魔王としてのイメージを決して損なうことがないように悲しい程の努力を続けていたのであった。
「……あー、本当にすいませんでした! 俺はこれで退室しますね!!」
自分がいたらハーデスが縫いぐるみも拾えないだろうと考えたアイアノスは、体質を告げて足早にハーデスの私室を去っていく。
「…………」
十分にアイアノスの気配が遠ざかったことを確認したハーデスは、本人的には悲しげな表情で引き千切ったウサギの縫いぐるみへと手を伸ばす。
「……すまん……私の趣味を隠すためとはいえ……」
拾い上げた縫いぐるみを持ち、深々と椅子に座り込んだハーデスは小さなため息を付く。
魔王としてこの世に生を受けた以上は致し方ない事とは言え、出来るならば己の好きな物を隠す必要のない生活を送ってみたいと思わずにはいられないハーデス。
「所詮……魔王である私が、可愛い物を好きなことの方が可笑しいのか……」
諦めた眼差しを浮かべるハーデスは、疲れたように背もたれに持たれて天井を仰ぐ。
「…………」
暫し眼を閉じて、気持ちを切り替えたハーデスは急ぎの書類を片付けてしまおうと考える。
だが、ハーデスが書類へと手を伸ばすよりも早く、その膝の上へと姿を現した小さな影があった。
「……あれ? お兄さん、誰ですか?」
「…………?!」
突如、淡い光がハーデスの膝の上に出現したかと思えば、ポンッとコルクを抜くような音が響き、十にも満たない金髪碧眼の少女の姿が現れたのだ。
キョトンとした表情で己を見上げる少女の姿に、ハーデスが思ったことはただ一つだった。
「(泣かれるっっ?!)」
……ハーデスは子供が苦手だった。
子供は大人と違って純真無垢ゆえに、ハーデスという力の塊を……何よりも、恐ろしい凍て付いた雰囲気を纏う者に怯えて泣き叫ぶ。
小さくて可愛らしい子供を怯えさせ、泣かせ続けることはハーデスの本意では断じてない。
……だが、ハーデス自身が解決できる問題ではないのだ。
「(……泣く……絶対に泣く……)」
だからこそ、今までの経験と同じように己の膝の上に座る少女も、火が付いたように泣き喚くに決まっているとハーデスは身体を硬くする。
「……お兄さん、お顔が真っ青です。 何処か、具合が悪いんですか?」
しかし、ハーデスの予想とは裏腹に少女は一向に泣き出す気配など無く、緊張により顔色を悪くしたハーデスを心配して見せた。
「……ん。 熱は無いみたいです。」
「…………っっ?!」
少女は自身の前髪を上げ、具合が悪くて熱が有るのかもしれないと自身の額をハーデスの額へと重ねる。
熱は無いみたいだと柔らかな笑みを浮かべた少女の姿に、ハーデスは彫像のように固まってしまうのだった。