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ティア  作者: ルト
3/6

3

 翌朝、ティアは寒さで目が覚めた。布団を探り、何もないことを思い出して頼りなさと心細さが胸を占めて、そこで身の上を思い出す。

 暗かった。

 まだ日の出前だ。慌てて軽く掃除したのは社の軒先だけで、朝霧を含んだ風が吹き込んでいる。

 ティアは身を起こした。掃除もしない頃から朝だけは早かったティアは、村一番に川まで水汲みに行くのが日課だ。水甕がいっぱいになるまでの三往復。終わる頃には家族みんなが起き出している。しかし今日ばかりは、いやもう二度とその責務はないのだ、と思うと、胸が詰まってどうしようもなくなり、戸口から隙間風が吹き込んでくることが耐えきれなくなって、表に飛び出した。

 外はまだ暗かったが、空の端がわずかに白んでいる。枝葉と夜空の境目をじっと見つめて、むずむずと痒い首筋を掻いた。ポツリと指先に微かな感触。虫に食われた、とティアはぼんやり首を傾ける。

 朝の澄んだ空気で深呼吸し、井戸に向かった。水を汲み上げて半分を桶に注ぎ、手と顔を洗い、残したぶんで口をゆすいで、喉を潤す。濡れた顔のまま、古びているのに不気味に整った社を見上げる。

 弟は伝承にはまっていた時期がある。長老ら老人たちのもとに通い詰め、村に残る説話のすべてを聞き修めた。それだけでなく、商人からも伝え聞いたことのある伝承や説話の数々を聞き出した。ティアは弟の無限とも思える昔話の数々を、村の子どもたちと一緒に聞き入ったものだ。そのなかに、生け贄の慣習に関わることは数多く存在した。

 それでも、森に入った生け贄のその後は、一度も語られたことがない。


 祠の前に果物が落ちていた。例の女性が残していったものだろう。ティアは首をかしげながらもどこぞに向かって頭を下げて、ありがたく頂く。社を磨くという大仕事に、空腹を抱えた体で取りかかることは到底できなかった。先にティアが持たない。とはいえ、この日は先に雑草を抜くことにした。祠を綺麗に磨く前にやっておけばよかったと後悔したが、だからどうなるわけではないし、やらないわけにはいかないのだった。

 朝から暑くなるまで続け、正午を過ぎた辺りでティアの手足が限界を迎えた。絡まり合う根っこを慎重にえぐり出し続けた指は節が曲がらなくなり、腕や膝は痺れるように固まって動かすだけで震える。体の芯から疲弊しているような、震えるような疲れが腰に凝り固まっていた。余りにも疲れて、高く上った日に照らされた蒸し暑さも手伝って、社に転がって体を休めた。日陰とすきま風が、わずかばかりの涼気を提供してくれる。ティアは正体なく眠り込んだ。

 目が覚めた頃には日が少しずつ遠くなり、空はすでに午前中の白々としたまぶしさを失っている。

 ティアはむくりと起き上がって、ぼんやりとした頭で表を見渡した。三分の一ほど土が露出し、依然として雑草の繁茂する境内。目が冴えてきたティアは自分の両手を見下ろして、指を一本ずつ確かめた。曲げるときにかすかに筋が軋むような痛みはあるが、充分休まっている。ティアは社の前にまた果物が投げ出されていることに気がついた。お昼を食べていないので、ティアはまた空腹になっている。顔も知らぬ誰かに頼りきる不安をこらえて、ありがたく食べた。井戸に寄って水を飲み顔を洗って、それから続きに取りかかる。

 夜が来ても終わらなかった。

 山と積み上げられた雑草の青臭い埃っぽさを振り払って、ため息を吐く。

「なんで食べなかったの」

 ティアは飛び上がった。疲れた足腰が体を支えられず、そのまま雑草の山に沈む。

 いつもの陰鬱な女性だ。また兎を吊り下げている。左手には果物と、加えて、豆。

「勝手に死なれては困る」

「……」

 ティアは口を開いたが、怯えが喉を詰まらせて声がでない。

 女性はティアを黙って見下ろしている。おもむろに兎の首を親指で捻った。梟のように抵抗なく回る。ひっ、とティアが息を呑むのも構わず、女性は兎の首を口に添えた。

 びくん、と兎の右後ろ足が跳ねる。

 歯で噛み切ったのだ。首が回っても兎は生きているようだったが、もはや微動だにしない。兎の顔が溢れる血に染まっていく。その濡れた瞳は、まるで縫い付けられた石英のようで、飾り物めいていた。

「あとは自分でやりなさい」

 べっ、と毛と肉片を吐き捨てた女性は、ティアに血みどろの兎を突きつける。凍りついた目で女性を見上げ、震える口を動かした。

「鉈が……ありません」

 首を切るにも骨を断つにも、鉈がなければ難しい。しかし、純粋に意外そうな瞳でティアを見る女性に怯んだ。彼女は口が真っ赤に濡れている。彼女のように歯でやれと言われては堪ったものではない。ティアは慌てて言葉を加えた。

「それに火が起こせないんです。内蔵も取り除けない野生の生肉なんて、危なくて食べられません」

 しばらく黙ってティアを見ていた女性は、ぽつりとつぶやく。

「そういえばそうね」

 ティアは面食らった。思いがけない素直な反応に戸惑う。困惑の視線の先で、女性が困ったようにキョロキョロとしていた。

「参ったわね、気づかなかったわ。火は私が起こせるけど、えっと、どうしましょう」

「薪を、集めましょう」

 女性は目を留めて不思議そうに目を瞬いた。

「自分で集めてきなさい。集まったら呼びなさい、行くから」

「え。呼ぶって、あの」

 聞こえないはずはないのに、女性は知らぬ顔で歩き去ろうとする。いろいろと聞きたいことはあったが、とにかく聞かなければならないことを尋ねた。

「名前はなんとおっしゃるのですか?」

 実は本当に聞こえてないのかもしれない。背中に何も変化が見られない。ティアが大きい声で繰り返そうと息を吸った途端、突然ぴたりと歩みが止まった。振り返って、不思議そうな顔でティアを見つめる。

「フレリス」

 短く告げて、フレリスはまた、何事もなかったかのように歩き去っていく。


 さしもの村娘も、焚き火の竈を日常的に作るわけではない。村に大きな竈を作り置くのだ。しかしティアは、その点普通ではなかった。あまりにも森で過ごすことが多かったために、心配した長老が、万一遭難してもいいようにとサバイバルを手解きしてくれたのだ。ティアはその知識を十全に学び、理解し、悠々と無断外泊を決行した。年を重ねて村に落ち着いた今になって、その技術を再び活用する時が来るなど、夢にも思ったことはない。ティアは記憶をたどりながら、薪になりそうな枯れ木を探る。口許に笑みさえ浮かべていた。ややもすると石を積んで囲い、木が崩れないよう支え合わせて組んだ竈が完成する。ティアは己の仕事に満足するようにうなずくと、振り返って声をあげた。

「フレリスさん、できました!」

 背中で焚き火の爆ぜる音。

 体を戻した目前に、膝を抱えたフレリスが竈の焚き火を見つめている。驚いて声をあげたティアを見上げ、フレリスが尋ねた。

「これでいい?」

「あ、はい。えっと、あれ?」

 そういえば兎肉はフレリスが持ったままどこかに行ってしまっていたのだ、と思い出して、フレリスを見る。彼女は首と落とし皮を剥いで、腹を切り開き内蔵を取り除いた兎肉を握っている。どうやって処理をしたのか、と聞こうとして、やめた。ティアは黙って兎肉を預かり、水で血を洗い流して、雑草にまぎれていた香り草を腹に詰め、焚き火の上に差し渡す棒に足を結いつける。

 焚き火の上に肉を置いて、ティアはちらりとフレリスをうかがう。フレリスは膝を抱えたまま、放心したように焚き火を見つめていた。肉に塗りつける辛味の強い木の実を尋ねようとして、諦めた。兎肉はじりじりと炙られて煙でいぶされる。薪のはぜる音が繰り返され、ティアは時折、火に当てて乾かした薪を追加する。そんなことを繰り返す間に、すっかり夜になっていた。空は暗く森は黒く、焚き火の明かりに照らされて濃密さを増した陰は、壁のようにも無限の穴のようにも見える。

「焼けましたよ」

 熱を帯びてカラカラに乾いた棒を慎重に持ち、ティアはフレリスに告げた。ぼんやりと他人事のように肉を眺めている彼女の顔は、美しく均衡が取れていて、まとまっており、まるで誰かによってあるべき形を定められているかのようだ。フレリスの赤みがかった黒い瞳が、ふとティアの顔に焦点を合わせる。

「私は食べられないわ」

「私も一人では食べきれません。どうぞ、分けあって食べましょう」

「いいえ。私は物を食べられないの。お腹を壊してしまう」

 ティアはきょとんとしてフレリスを見た。フレリスはティアの目を見つめて、首を振る。少しの間をおいて、ティアは兎肉にかじりついた。ブチブチと筋と皮を腕と顎で引きちぎる。フレリスが失笑した。

「野生的ね」

 食いちぎった肉を咀嚼しながらティアが小首をかしげ、己の行いを指していると気づいて顔を赤らめた。

「これはその、食器も何もないものですから」

「いいの、気にしないで。食べなさい」

 恐縮しながらも、また肉に歯を立てる。昨日は果物しか食べていないティアの食欲は、なかなかに旺盛だった。フレリスが黙ってしまい、また固く筋ばった兎肉と格闘するのに必死なティアはしばらく会話が絶えた。足までしっかり食べ尽くしたティアは、手と口をゆすぎ水を飲み干して、やっと人心地ついた。

「フレリスさん」

「なに?」

 フレリスは眠そうに答える。膝に頬をつけて、火勢の弱まった焚き火を見つめている。

「あなたが守り神ですよね」

「そうね」

 呆気ないほど簡素な返事に、ティアは淡白にうなずいた。

「私は、どうなるのですか?」

「大丈夫、痛くはないから」

「社の掃除が終わったら、私はあなたに殺されるのですか?」

「そうね。逃げちゃダメよ」

「逃げませんよ」

 フレリスは顔をあげた。ティアは食べかすの骨がとろとろとした埋め火に焼かれていくのを見つめている。

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