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深く入り組んだ森を歩き、日が遠く空が赤らんだころ。ティアは小さな祠と大きな社を見つけた。くっきりと続いていた細い道はここで途切れ、細々とした雑草が、葉を揺らしている。苔むして湿ったような祠の組み木は、不思議と腐食しておらず、静けさと穏やかさを宿して木陰に揺れていた。
「ここ、かな」
ティアは不安げに顔を曇らせ、顔を巡らせる。人も鳥も虫さえいない。木のさざめきだけが囲っている空間は、聖域を証明するかのように、木漏れ日に白んで輝いていた。
意を決したようにティアは拳を握り、社に向かった。静かな木の温かさを持つ社は、どっしりとした存在感でティアを迎える。祠同様、腐食したところはひとつもないが、こちらは日の当たらない部分が苔むしていた。壁に雑草の蔓が走っている。
表の階段にも草が積もっている。ティアがそっと足を乗せても、小さく軋みをあげるだけで、見た目以上に頑丈な弾力と張りがあった。ゆっくりと階段を登り、恐る恐る格子の入った板戸に手をかける。敷居に引っ掛かってガタガタと揺れるが、外れる気配もなく板戸は開いた。砂と埃の臭いがむわりと顔をなぶる。
社の屋内は広々としていた。人が住んでいる気配はなく、家財の一切も置いていない。初めから、物が置かれたこともないのかもしれない。床にまんべんなく埃が溜まり、床板は不自然な傷みがなかった。
ただ唯一、奥の壁に、小さな戸棚が据え付けてある。髪留めなど小物を入れたら、それだけでいっぱいになりそうな引き出しと、その上の小さな戸。ティアにすら一抱えで持ててしまいそうだ。
ここに来てティアは困惑した。見るからにあの戸棚には、雑巾やたわしのひとつも入っていなさそうである。掃除用具がなければ掃除のしようがない。
「こっち」
ティアは飛び上がった。振り返り、首を巡らす。先ほどと同じ祠が背を向けていて雑木と雑草が揺れているだけだ。人の姿は見えない。
「こっち」
何べんも確認して、ようやく声がどうやら社の左手から聞こえるらしいと気がついて、そろそろと社を出た。
社の左側にかかる日陰に、女性が立っていた。彼女の横に笹を結った簾が立て掛けてあり、その頭から竹箒の柄が突き出ている。
ティアはそう気がつきつつも、黙って佇んでいる女性を見つめて固まっていた。女性は静かにそれ以上何も言わず、黙って木陰の向こうに行ってしまう。
姿が見えなくなってたっぷり待ってから、ようやくティアは動き出した。女性の消えた木立を見つめながら、慎重に簾をまくる。
痛んではいるが充分使えそうな箒や桶、たわしが並べられている。それらの具合を確かめて、ようやく木立にもどこにも女性の姿がないことに気がついた。
それでも、ティアは向こう十年村暮らしをして来た一端の娘である。汚れの程度こそひどいが、掃除はティアの大事な仕事のひとつだ。そして無心に腕を動かすことこそ、ティアの得意とすることであり、ふとたわしでこする手を止めて水を流してみれば、そこには残らず泥をこそぎ落とされ、見違えるほど木目の美しくなった祠の屋根が立ち現れてくるのだ。ティアは己の仕事に満足そうに笑顔を綻ばせると、より活力を増した手で祠の中を擦り始める。
ティアは昔から掃除が好きだったわけではない。殺しと盗みに続く禁忌を破る程度にはお転婆だった彼女は、当然のように家の手伝いなど知らぬがごとき有り様だった。唯一手伝った川からの水汲みと弟の世話も、決して万全ではなかった。こればかりは、かつての隣のお姉さんがたしなめても聞かなかった。野山を駆け巡るのが、特に木を登るのが好きだったのである。木と土の臭いを体からぷんぷん匂わせて、汗だくの体で風を受けるときは、自分が大きな世界と一体になったような、奇妙な高揚を感じるのだ。
もちろんティアとて弟は好きだ。体を動かすのを億劫がってすぐぐずるのには煩わしさを覚えたこともあったが、それはティアの宝物を弟にも分けようとした上での結果であるし、村の中で弟を蔑ろにしたことはなかった。幼い頃から弟は学童だったのだ。
そんなティアが最初に掃除に取りつかれたのは、お姉さんがいなくなって数年が過ぎたころ、季節が巡ることの感動が薄らいできたころだ。弟が出来すぎた子だったのである。ティアがやるべき仕事の何もかもを、弟がやってしまったのだ。知らぬうちに家の全てが完了して作られた食卓を前に、ティアは初めて、自らの土の臭いを恨めしく感じた。お姉さんが聖域に消えていく背中を思い出して、胸が詰まって夕食が喉を通らなかった。ティアが初めて掃除に手を染めたのは、その翌日である。家族みんなが驚き喜んだ。ティアが森を走っている間の弟を、レベッカが見ていたと初めて知った。そして、ティアの大事な仕事に掃除が加わり、土の臭いは畑の臭いにすり変わったのだ。
泥を擦り落とした木目の美しいことを発見するのに、それほど時は要さなかった。土と風の快感は、営活の快感に取って変わった。今、村の娘子にレベッカと並びお姉さんと呼ばれるたびに、ティアは恥じらいと可笑しみを混ぜた苦笑を感じる。
幾度目か知らぬ桶の水汲みを終えて、祠の掃除を大方終えたティアは、辺りが暗くなっていることに気がついた。
「お腹空いたなあ」
赤らんだ空と陰の濃い枝葉の境目を見つめて呟く。自らの言葉に背筋を凍らせた。食料がない。水はある。社と雑草が広がる土を見渡して、ティアは絶望的な気分になった。
「お疲れ様」
疲れきっていたティアは飛び上がれなかった。
背後に、掃除用具の場所を教えてくれた女性が立っている。長い髪が顔に掛かり、暗い表情を陰に隠している。枝のような腕に気だるそうに兎と果実を吊り下げていた。持っているのも辛いのか、捨てるように投げ落とす。
「今は、掃除のことだけ考えなさい」
かすれた声で呟いて、ティアを見つめ、やがて背を向けて森に消えた。ティアは凍りついたようにその姿を見送る。
怪我をした兎が這いずる乾いた音が響いている。
村の娘であるティアは、鶏を絞めるのはよく手伝っているし、たまに自分ですべて行うこともある。しかし兎を絞めたことはまだなかった。獣は男たちが狩りをして持ち帰る。そのなかで兎だけは、商人が吊り下げるものしか見たことがなかった。
仮にここで捌いたところで、火も起こせない。着火材がないのだ。そもそもティアは生け贄として森に入った時点で、命はすでにティアのものではない。その自分が他の命を奪ってまで生き長らえることは、気が咎めた。
兎の毛が赤く染まっている。ティアは辺りの木立を見渡して、そっとスカートの裾をめくった。
「……ちょっとだけなら、分からないよね」
裏の生地を裂いて、兎の足の傷を縛った。大した治療にはならないが、最低限止血にはなるはずだ。
びっこを引いて、兎は草葉の陰に逃げていった。その尻尾を寂しそうに見送って、ティアは半開きの手のひらを振る。
果物は酸っぱく、繊維の味しかしなかった。




