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ヤオビレライ

作者: 棲水
掲載日:2026/06/17

 海は、すでに死んでいた。

 波だけが、生き物の真似をしている。


 ざざあ、と寄せては返し、ざざあ、と砂を削り、そのたびに、白く乾いた薬莢や、折れた銃床や、どこの国のものとも知れない金属片を少しずつ海へ引き戻していく。


 浜辺には戦争の残骸があった。


 錆びた小銃。焦げた装甲板。砕けた無人機の羽。どろりと溶けた防毒面。人間のものではない、しかし獣とも魚とも言いがたい、透明な骨格を持つ小さな死骸。


 それらはすべて、勝利のあとに残されたものだった。


 人類は勝った。


 あらゆる病気に勝った。あらゆる飢えに勝った。あらゆる戦争に勝った。


 そして、勝利者たちに残されたものは、終わりゆく種としての、静かな滅亡だけだった。


 七百氏は、海を見ていた。


 折り畳み式の白いテーブルがひとつ、砂浜に置かれている。その上には、透明なコップに入った水と、小さな銀色のカプセルが一錠。


 薬の名は、ヤオビレライ。


 連日服用すれば、百日目に眠るように死ぬのだという。


 苦痛はない。恐怖もない。臓器が止まる感覚も、呼吸が詰まる感覚もない。ただ、まぶたが重くなり、遠い子守唄を聴くように眠り、そのまま帰ってこない。


 人々はその約束に惹きつけられた。


 穏やかに滅んでゆくこと。


 それは、戦争のあとに残された人類が、ようやく手にした最後の贅沢だった。


 七百氏は、カプセルを見つめる。


 これが、百錠目だった。


     ◇


「七百先生! こちらを向いてください!」


「ノーベル文学賞受賞者として、ヤオビレライを服薬されることについて、今のお気持ちは!」


「すでに五十日分以上服用されたというのは本当ですか!」


「大戦で人口が三分の一まで減少した今、安楽死という選択をされることについて、コメントをお願いします!」


「ご家族を戦争で亡くされたことが、今回のご決断に影響しているのでしょうか!」


「最後に発表される作品の構想はありますか!」


 記者たちの声が、白い会見場の天井に跳ね返っていた。


 フラッシュが瞬くたび、七百氏の顔から、少しずつ血の気が失われていくようだった。彼は人類最後のノーベル賞作家と呼ばれていた。けれど、その肩にあったのは栄誉ではなく、墓標に刻まれる肩書きのような冷たさだった。


 七百氏はマイクの前に立った。


 かつてなら、彼はもっと長く語っただろう。文明について。文学について。人間が人間であることの痛みについて。


 だが、その日、彼が口にした言葉は短かった。


「穏やかに滅んでゆくことを、前向きな気持ちで選択してもよいのではないかと思いました」


 記者たちが一斉にペンを走らせる。


 七百氏は静かに続けた。


「それだけです」


 椅子が鳴った。


 七百氏は会見場をあとにした。


「七百先生! 七百先生!」


「最後の小説は!」


「先生、死を選ぶ理由をもう少し!」


 声が追ってきた。


 フラッシュが背中を刺した。


 けれど七百氏は振り返らなかった。


     ◇


 ざざあ、と波が鳴る。


 回想は、潮の匂いに溶けて消えた。


 七百氏は相変わらず海を見ていた。水平線の向こうには、かつて大陸間ミサイルを迎撃するために建てられた塔の残骸が、細い影となって立っている。


 世界はもう、誰かを殺す必要さえ失っていた。


 だから人々は、自分自身を、静かに終わらせることにした。


 七百氏は銀色のカプセルに手を伸ばした。


 そのときだった。


「最後の一錠は、お飲みになられないのですか?」


 海から、声がした。


 七百氏の指が止まる。


 声は女のものだった。若く、澄んでいて、どこかひどく古びていた。まるで何百年も同じ歌を歌い続けてきたものの声だった。


 七百氏は顔を上げる。


 波間に、ひとりの女がいた。


 いや、女ではなかった。


 濡れた長い髪。青白く光る肩。月光を編んだような肌。そして海面の下で、ゆるやかに揺れる鱗の尾。


 人魚だった。


挿絵(By みてみん)


 七百氏は色を失った。


「……何かの撮影ですか」


 自分でも情けない声だと思った。


 人魚は首を傾げた。


「劇場も撮影所も燃えた今、わざわざ人魚の映画を撮る者がいましょうか」


「では、幻覚か」


「それとも」


 人魚は水面から少し身を乗り出した。


「得体の知れない者に怯えていらっしゃるのですか。今日、死ぬというのに」


 七百氏は息を呑んだ。


「なぜ、それを……」


「そこにある薬」


 人魚は、白いテーブルの上を指さした。


「ヤオビレライ、なのでしょう?」


 七百氏は銀色のカプセルを見下ろした。


 指先が冷たくなっていた。


「なぜ、その薬の名前を知っている。それに、私がここへ来ることは誰にも話していない」


「あなたのファンですもの」


 人魚は、穏やかに微笑んだ。


「あなたを、ここで何度も見ていました。戦前から」


 七百氏のまぶたが、わずかに震えた。


「その頃は、ご家族もいらっしゃいましたね」


 海風が吹いた。


 七百氏の耳に、遠い笑い声が蘇る。


 砂浜を走る小さな足音。パラソルの下で眠る妻の横顔。海へ向かって石を投げ、三回跳ねたと得意げに笑った子どもの声。


 それらはすべて、もう世界のどこにも存在しない。


 七百氏は顔を伏せた。


「……ここは、あなたと、あなたの本に出会った場所なのです」


 人魚は遠くを見るように言った。


「だから、きっと今日もここにいらっしゃると思っておりました」


 七百氏は小さく笑った。


「なるほど。熱心なファンが、海にもいたらしい」


「ええ」


「死ぬ前に知れて嬉しいですよ」


 七百氏は、わざと軽い調子で言った。


 その言葉に、人魚の表情が変わった。


「そこなのです!」


 突然声を上げたので、七百氏は思わず肩を跳ねさせた。


「七百様、あなたには死んでほしくありません。あなたの本を、私はこれからも読み続けたい」


「そういうことを言う人間は、陸にも大勢いました」


 七百氏は疲れたように笑った。


「ですが、私は決めたのです」


「そうおっしゃると思いました」


「ならば、説得は無駄です」


「ですから、ひとつ賭けをいたしませんか」


 七百氏は眉をひそめた。


「賭け?」


「はい。私の話を聞けば、あなたは死なない。あなたは、今日死ぬ、に賭ける側でよろしいですね?」


「待ってください。急に賭け事だなんて。私の了承がなければ成立しないでしょう」


「ええ。あなたにとって、あまりメリットはございませんわ」


「正直な人魚だ」


「でも、どうせ今日死ぬおつもりなら、やってみて損はないと思いませんか?」


 七百氏は人魚を見た。


 その美しさは、どこか信用ならなかった。美しすぎるものは、たいてい人間に都合の悪い秘密を隠している。


「ほかにも企みがあるのでしょう。一体、何が望みなのですか」


「私が勝てば」


 人魚はまっすぐに言った。


「新作を書いてください」


 七百氏は黙った。


「私の望みは、それだけです」


「かなり厄介なファンを持ってしまったようだ」


 七百氏は額に手を当てた。


「私の話を聞いてもなお、今日死ぬとお決めになるなら、私も一人のファンとして、きっぱり諦めます」


「その場合、私はあの世に勝ち逃げできるわけだ」


 七百氏はそう言って笑った。


 しかし、目だけは笑っていなかった。


 彼はちらりと、最後の一錠を見た。


 銀色のカプセルは、沈みかけた陽を受けて小さく光っている。


 あれを飲めば終わる。


 本当に終わる。


 苦しみも、記憶も、夢も、かつて家族と歩いたこの浜辺の匂いも、すべて。


 そう思った瞬間、七百氏は、自分の胸の奥にまだ小さな恐怖が残っていることに気づいた。


「勝てば死ぬ賭けとは、聞いたこともありません」


 七百氏は静かに言った。


「しかし、興味が湧いてきた」


 人魚は嬉しそうに目を細める。


「では?」


「どうせ死ぬのです。あなたの話を聞いてから死にましょう」


「感謝いたします」


「では聞かせてください。私をこの世にとどまらせるほどの、どんな話を用意しているのか」


 人魚は波間で姿勢を正した。


 そして、まるで昔話を始める祖母のように、穏やかな声で語り始めた。


「七百様。我々人魚の肉を食べると不死になるという噂を、聞いたことがありますか?」


 七百氏は瞬きをした。


「これはまた、大昔の伝説から始まりましたね」


「ええ」


 人魚はうなずいた。


「あれは本当なのです」


「……え?」


 七百氏は身を乗り出した。


「まさか、あなたの肉でも私に食わせる気ですか」


 その顔が本気で青ざめたので、人魚は少し困ったように眉を下げた。


「そんなことをしたら、私があなたの本を読めなくなってしまいますわ」


「そ、そうですか」


 七百氏は咳払いをした。


 早とちりした自分が、少し恥ずかしかった。


「しかし、さすが作家様」


 人魚は、テーブルの上のヤオビレライを見た。


「当たらずも遠からじ、でしょうか」


 七百氏の表情が消えた。


「どういう意味です」


「その薬、ヤオビレライには、確かに人魚の肉が使われているのです」


 波の音が、一瞬遠ざかった。


「……何を言っている」


「ヤオビレライの製薬会社は、大戦の最中、人間を強化するための薬を模索しました」


 人魚の声は淡々としていた。


 怒りも、憎しみも、悲しみさえも、表には出ていなかった。


「彼らは兵士を眠らせる薬を求めていたのではありません。死なない兵士を求めていたのです。撃たれても、焼かれても、毒を浴びても、また立ち上がる兵士を」


 七百氏は何も言えなかった。


「その研究の果てに、彼らは古い伝説へ辿り着きました。人魚の肉を食べれば、不死になる。誰もが寓話だと思っていた話です。しかし、戦争は寓話さえ掘り起こします」


「人魚狩りが、あったと」


「はい」


 人魚は目を伏せた。


「あれは、同族から見れば悲惨なことでした」


 その言い方はあまりに静かだった。


 七百氏は思った。人魚は人間と違う時間を生きている。だから、悲劇の表し方も人間とは違うのだろう。百年前の出来事も、昨日のことも、彼女たちには同じ深さで沈んでいるのかもしれない。


「しかし、そうなると」


 七百氏はゆっくりと言った。


「ヤオビレライは、安楽死の薬ではなく……」


「不死の薬になるでしょうね」


 人魚が答えた。


「ですが、あなたが飲んでいるのは、確かに安楽死の薬です。百日間きっちり飲むと死ぬ薬です」


「なぜ?」


「人間の寿命を伸ばすほどの効能です。劇薬でないわけがないでしょう?」


 七百氏は息を止めた。


 やがて、低く呟いた。


「……そういうことか」


「はい」


 人魚はうなずいた。


「適度に摂れば、永遠と見紛うほど長く生きられます。けれど、摂りすぎれば死に至る。百錠目は、死の扉です」


「つまり、致死量を超えなければ、ほぼ不死になる」


「ええ。それが、今のヤオビレライの効果です」


 七百氏は椅子の背にもたれた。


 笑おうとして、失敗した。


「では、人類は今、死ぬために不死の薬を飲んでいるわけですか」


「皮肉なことに」


「製薬会社は知っているのですか」


「もちろん」


「政府は」


「もちろん」


「そして、誰も言わない」


「言えば、穏やかな滅亡が壊れてしまいますもの」


 人魚は静かに言った。


「戦争が終わったあと、人々は死を望みました。製薬会社はそれに応えた。ただし、成分はそのままに、名前と使い方だけを変えて」


「不死の兵士を作る薬を、死にたい市民のための薬として売り出した」


「ええ」


 七百氏は乾いた笑いを漏らした。


「人を殺す薬など売っても儲からない。だが、人が自分から死を選ぶ薬なら、いくらでも売れる」


「そんな薬聞いたことがない」

 

「原材料が人魚なのですから、尋常の薬では無いのです。死ぬのが怖くなって、服薬をやめる人は必ず出てくる……」


「ただ、ぱったりやめても不死でいることはできません。むしろやめれば体に異常が出ます」

 

「服薬を断った人は当然、製薬会社に説明を求めるでしょう」


「そして製薬会社は言うのです。

『あなたは死を買い取り、しかしその権利を放棄した。生きたいというのであれば再度契約をしましょう』と」

 

 七百氏はカプセルを見た。


 百錠目。


 これを飲めば死ぬ。


 飲まなければ、生きる。


 ただし、普通に生きるのではない。


 長く、長く、あまりにも長く。


 すべての終わりを見届けるほどに。


「長々と人魚のお話を聞いてくださり、ありがとうございました」


 人魚は微笑んだ。


「さあ、七百様。あなたはあと一錠飲めば死ねます」


 銀色のカプセルが、テーブルの上で光っている。


「でも、その一錠さえ飲まなければ」


 人魚の声は、波よりも柔らかかった。


「あなたは悠久の時を生き続けることができますよ」


 七百氏は黙っていた。


 死んだあと、どうなるのか。


 本当に何もなくなるのか。


 家族に会えるのか。


 それとも、ただ消えるだけなのか。


 彼はずっと、死を選ぶ自分を強いと思っていた。世界が終わるなら、前向きに終わってやろうと思っていた。人々がそれを望むなら、自分もその列に並ぼうと思っていた。


 だが、本当は違ったのかもしれない。


 彼は疲れていただけだった。


 家族を失い、時代を失い、読者を失い、書くべき未来を失ったと思い込んでいただけだった。


 七百氏は、銀色のカプセルへ手を伸ばした。


 人魚は何も言わなかった。


 止めもしなかった。


 ただ、見ていた。


 七百氏の指先が、カプセルに触れる。


 軽かった。


 あまりにも軽かった。


 人間ひとりの死が、こんなにも軽いものに詰められている。


 七百氏は、長い沈黙のあとで言った。


「……少し、考えさせてください」


 人魚は、小さく微笑んだ。


 その笑みがあまりに穏やかだったので、七百氏はふと我に返った。


「待ってください」

「この話が、すべて私を生かすための嘘ではないと、どう証明するのですか」


 波が寄せた。


 ざざあ、と白い泡が砂を撫でる。


 七百氏が瞬きした次の瞬間、人魚の姿はなかった。


 水面だけが、月光を砕いて揺れていた。


 答える者はいない。


 ただ、海の音だけがあった。


 ざざあ。


 ざざあ。


 七百氏はテーブルの上を見た。


 水の入ったコップ。


 銀色のカプセル。


 死への最後の切符。


 七百氏はそれを、長いあいだ見つめていた。


     *


 数か月後。


 焼け残った都市の中心に、ひとつの広告塔が復旧した。


 夜になると、そこだけが旧時代の夢のように光った。ひび割れたビル。蔦に覆われた高速道路。無人の駅前広場。そのすべてを照らしながら、巨大な文字が浮かび上がる。


『復活!』


『戦後の絶望の世界で、生きる選択をした希望の作家』


『待望の新作』


『人魚』


『映画化決定』


 人々は足を止めて、その広告を見上げた。


 ある者は笑い、ある者は泣き、ある者は胸のポケットに入れていたヤオビレライのケースを握りしめた。


 その夜、遠い海の岩場で、人魚は一冊の本を開いていた。


 表紙には、ただ一言。


『人魚』


 著者名は、七百。


 広告塔の光を照らす潮の間に間に、一つの影。


 人魚は微笑んだ。


 濡れた指で、そっとページをめくる。


 そこには、こう書かれていた。


 ――海は、すでに死んでいた。


 波が静かに寄せては返す。


 ざざあ。


 ざざあ。


 世界はまだ、終わっていなかった。



 

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