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インタールード1 ある知覚の断片


 低い。

 世界はいつも、靴底と床の継ぎ目から始まる。消毒液の匂い。熱を持った配線。人間の手が触れたばかりの端末から、わずかに残る皮脂の甘さ。白い壁は高すぎて、天井は遠すぎる。けれど、扉の下の隙間だけは近い。

 身体は軽い。軽すぎる。

 四つの足は、考えるより先に影の縁を選ぶ。曲がる。止まる。耳が震える。尾が勝手に均衡を取る。床の冷たさは、手のひらではなく肉球から上がってくる。自分の身体の地図が、何度見直しても間違っている。

 手を伸ばしたいと思う。

 だが、床を掻くのは前足だった。

 奥の部屋で、誰かの声がする。意味は遅れて届く。先に届くのは音の高さ、汗の匂い、靴底の向き、機械の熱。名前。警告。手順。帰還。言葉は、水の中で拾い上げたガラス片みたいに遅れて光る。

 帰還。

 その言葉だけが、喉の奥で引っかかった。

 戻る、という動きは分かる。出口へ向かう。腕を動かす。立ち上がる。声を出す。誰かの名前を呼ぶ。だが、そのどれにも使う身体がない。立ち上がろうとすれば、背が丸まる。声を出そうとすれば、喉が細く震える。名前を呼ぼうとして、猫の声にも、人の声にもなりきれない短い音が出る。

 それでも、行かなければならない。

 あの子のいる場所へ。窓辺の匂い、安い柔軟剤、泣いたあとの塩。差し出された小さな指先。そこへ鼻を寄せると、いつも少しだけ呼吸が戻った。

 けれど、その前に。

 あの人へ。

 言葉を信じない人へ。

 記録だけなら、まだ届くかもしれない人へ。

 背中の奥で、熱が白く膨らむ。頭の内側で、何かが薄く削れていく。覚えていたはずの順番がほどける。研究棟。白い台。手。背の高い影。止まっていく音。逃げ道。下書き。未送信。あの子。あの人。

 全部は持っていけない。

 だから、見るものを選ぶ。

 覚えるものを選ぶ。

 届けるものを選ぶ。

 現在地からの案内は、もう終了している。

 だから、案内の死んだ場所を選ぶ。


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