インタールード3 折り重ねられた日常
その夜、ユナは部屋の明かりを消し忘れたまま、ベッドの端で膝を抱えていた。
泣いた理由は、もうよく覚えていない。学校で何か言われたのか、母にきつく叱られたのか、父に会えない日が続いたからなのか。どれも正しくて、どれも違う気がした。ただ、胸の奥に小さな石のようなものが詰まっていて、飲み込むことも吐き出すこともできなかった。
窓の外で、爪が一度だけ鳴った。
ユナが顔を上げると、黒い影がベランダの手すりにいた。ノクスは、いつものように入ってきた。音もなく床へ降り、尾を立て、部屋の中を一周してから、ベッドへ跳び上がる。
「勝手に入ってきた」
ユナは鼻をすすりながら言った。
ノクスは答えない。答えるわけがない。ただ、濡れた目元を見上げるようにして、ユナの膝へ前足を乗せた。
「ノクスはいいよね」
ユナは指先で、黒い額の毛並みを撫でた。
「何も言わなくていいから。怒られないし、説明しなくていいし、変な顔されないし」
ノクスは目を細めた。喉の奥で、小さな音が鳴る。機械ではない。言葉でもない。生き物の中だけにある、柔らかい振動だった。
ユナはその音に耳を寄せた。
「でも、ノクスがしゃべったら、うるさいかも」
黒猫は抗議するように尾を一度だけ動かした。ユナは微笑んだ。無理やりに笑うと、胸の石がほんの少しだけ位置を変えた。
そのままユナは、ノクスを抱きしめた。猫の身体は温かく、軽く、頼りない。けれど逃げなかった。腕の中でじっとして、額をユナの手首へ押しつけている。
「お父さんも、ノクスみたいに勝手に帰ってくればいいのに」
言ってから、ユナは自分で嫌になった。
「今のなし。ノクスに言ってもしょうがないもんね」
ノクスは何も言わなかった。
ただ、喉を鳴らし続けた。
その沈黙の中に、言えなかった言葉がいくつも折り畳まれていたことを、ユナはまだ知らなかった。




