七
「申し訳ありません、白様。最後の最後で躊躇ってしまいました」
「よい。お前らしいというものだ」
戦いの終わったその場で、白面の鬼に傅く瑠璃姫。許しを得ても首を深く項垂れたまま、上げる気配がない。一度は少女を殺すと決めたにも関わらず、非情に徹しきれなかった己を恥じているのだ。
白面鬼は鍔のない刀を白鞘に納め、縹を見やった。巨躯の青鬼は致命傷もそのままに、死相の浮かんだ顔で静かに膝を突いている。己で仇を討てなかったことを悔いているのか、痛みに耐えているのか、傍目には読み取ることができない。ただ金色に沈む眼が横たわる少女に向けられているのに気付いた白面鬼は、自身もそちらへと面を向けた。
血の気のない、真っ白な顔。既に死んでいるが、その表情は眠っているみたいに安らかだ。人間の子供が着る学生服とやらに包まれた肢体は、おそらく同世代の同性と比べても細い。首と胴体は繋がっておらず、生前の姿に近づけるかのように丁寧に並べて置かれていた。
「……まだ魂が残っているな。なるほど、討魔の血筋か。これは思わぬ拾い物になるかもしれん」
温もりも冷たさもない声で言うと、ひらりと裾を翻す。そして、視線も交わさず瑠璃姫と縹に命じる。
「連れてこい。縹、お前もだ」
瑠璃姫と縹は何も言わぬまま目を見合った。
先に瑠璃姫が腰を上げ、見た目からは想像できない力強さで凛音の体を担いだ。もう片方の腕には首を抱える。山へと入る二人の背中を、縹はじっと見つめ……。
「…………」
やがて傷口を押さえつつ、ゆっくりと立ち上がった。
力んだ拍子に、ぼたり、ぼたりと血の塊が滴り落ちる。
夜の冷たい外気に晒された傷は、痛いのか辛いのかよく分からない。ただ、この傷をつけた鬼がもうこの世に存在しないという事実は、彼をある意味で苦しめる。
復讐は終わったのだと。いや、終わらせられたのだと。
目を瞑れば、今も二人の笑顔が思い浮かぶ。
二度と戻らない大切な命。
縹は取り戻せなかった。
「生か、死か」
その狭間で永らえてきた彼にとって、今さらどちらかに傾くことは困難だ。
だが、決めなければならないのだろう。
極楽で微笑む妻と息子のためにも。
遠く地上に煌めく人間の街明かりをしばし目に納めたのち、縹は重い体を引き摺って歩き出した。
* * *
そして――。
梅雨が過ぎ、本格的な夏がやって来た。汗ばむを通り越して汗だくになる暑さが続き、外を出歩くなど狂気の沙汰と言わんばかりにニュースやワイドショーでも連日騒がれている。壱美市でも三日連続で真夏日となり、一週間は気温が下がらないのではないかという予想だ。
放課後、クラスメイトたちが夏休みに隣町の湖へ遊びに出掛ける計画を立てているのを聞いた。すごく羨ましい。凛音なんて、課題にバイトに見舞いに修行にと、やることが山積みだというのに。
「かぜ……少しでいいから、風ほしぃ……」
柔らかい土の斜面をえいこらしょと登りながら、死人のようにぼやく。本当の死人はぼやかないが、一度死んだことのある身として言わせてもらえば、死人だって物言う口さえあれば愚痴りたいものなのである。特に、今日みたいな死体も蘇る暑さの日には。
首筋に涼しい風を感じて虚ろな目を向ければ、二百センチはありそうな大柄な青年が一生懸命凛音に向かってうちわを扇いでいた。
思わず感動で目が潤む。
「ううっ、ありがとう。縹さん優しいね……」
「お前はまだまだ弱い。死んだら困る」
「そっか。わたしの監視が縹さんのお仕事だもんね」
納得したように頷く凛音に、縹は黒に擬態した瞳を困ったように細めた。
瞳だけでなく、姿形も人間そのものだ。背はだいぶ縮み、肌の色はアジア人らしい黄色人種の色。変わっていないのは明るい小麦色の髪くらいか。体つきも筋肉質のままなので、少しヤンチャな兄ちゃんといった印象だ。
約定を破ったことの罰として、縹には当面の監視業を言い渡されていた。
凛音の監視、である。
――息吹は死んだ。
瑠璃姫と彼女の仲間だという白面鬼が、目覚めた凛音にそう告げた。
何故自分は生きているのか、という疑問は当然のものだった。凛音は死ぬ瞬間をはっきりと覚えているのだ。だというのに、首と胴体はしっかりと繋がっている。心臓も動けば、手足も凛音の命令を聞く。
桜が生かしたのだと、それだけ。
勿論理解なんかできるはずもない。だがそれ以上の答えを聞くことはできず、代わりに現在の状況を嫌になるほど教えてもらった。
――息吹は死んだが、お前と奴が同化したしるしは"魂の穢れ"という形で残っている。
どういうことかと言えば、簡単な話だ。
「まさか、鬼になっちゃうとはね……」
正確には、半鬼。完全な鬼ではないらしい。家に帰って即行確かめてみたが、目の色は黒のままだし角も生えていない。見た目には何も変わっていないと分かって、崩れ落ちるくらいホッとした。
だが、今の凛音は間違いなく人間ではない。
顕著な違いは、身体能力の向上だ。
重い物を軽々と持てる筋力。
急な斜面を登っても息一つ乱れない体力。
おまけに、暗いところでもよく見通せる。視力も良くなった。今掛けているのは伊達眼鏡だ。
筋力や体力は鍛えれば伸ばせるだろうが、夜目は限界があるだろう。視力だって手術なしに回復することはない。
人間ではない。だが、鬼としても中途半端。そんな凛音を、白面鬼は監視対象として縹に一任した。
「鬼には二つの型がある。一つは、俺のように鬼として生まれる者。もう一つは、お前のように後天的に鬼となる者」
「女の人が嫉妬で鬼になった伝説は聞いたことあるよ。でも、まさか本当にあるなんてさ……」
「嫉妬、悲しみ、憎しみ。ある条件の下では、強い感情が魂の変質を起こすこともある。お前の場合は、少し違う。一度死んで、蘇ったからだ。本来なら息吹の魂と共にあの世へ行くはずが、お前だけが戻ってきた。穢れを引き連れて。その穢れが、お前の"鬼"としての部分だ」
「そこら辺、難しくてよく分からないんだけど……。喩えるなら、ポテトサラダの上に間違えて納豆落として、慌てて納豆だけ取り除いたけどネバネバは残っちゃった――みたいな感じ?」
凛音の出した比喩に、縹は厳つい顔をきょとんとした。わざわざ立ち止まり、太い腕を組んで考える。
「……いや。分からん」
「そっかぁ」
そうだよねぇ、と苦笑して、凛音は再び山を登りはじめた。
二人が向かっているのは、桜馬山のとある場所。そこで鬼としての修業をするためだ。
日差しは強いが、木陰に入れば暑さはだいぶ和らぐ。標高が上がるに連れて、次第に空気も冷えていく。
山鳥や蝉の声が喧しい。山は静かなイメージがあったけれど、実際には色んな音で溢れている。
色んな音で――
『ああ、暑いなぁ。こういう日は血を浴びると気分がサッパリするんだよ。美味いのは赤子の血だが、量は大人の方が多いから浴びるなら大人の人間を捌くといい。シャワーなら頸動脈、湯船みたいに溜めるなら吊るして両方の足首を切るんだ。どちらにもそれぞれの楽しみ方がある。凛音、君はどちらがいい? 私のおすすめは断然頸動脈だよ』
「…………」
最初は、夢の中だけだった。最近ではほぼ二十四時間、起きていようと寝ていようと頭の中で息吹の声が聞こえている。
幻聴に過ぎないと白面鬼は言う。
しかし、呑み込まれれば凛音の心は壊れるだろう。いや、もう既に壊れていてもおかしくない。それくらいの時間が経っているのだ。
だけど彼女は戦っている。
まだ。
諦めていない。
「穢れを、鬼の力を操れるようになれば、幻聴なんか聞こえなくなるって白面鬼さんは言ってた」
「…………」
彼の言葉はどこまで信じられるだろうか。凛音を蘇らせた意図は何なのか。仮面で覆った本心は、どこにあるのか。
――信じるしかない。凛音一人では、強くなれないのだから。
「わたし、息吹みたいにはなりたくないよ」
「…………」
「だから頑張る」
「……ああ」
決意の声に呼応して、力強く大地を踏みしめる。
かつて日常に倦んでいた凛音の瞳は、夏の日差しのもと、強い輝きを照り返していた。
お読みいただき、ありがとうございました。
シリーズ化を予定しておりますので、記憶の片隅に残しておいてくださると嬉しいです。
続きをここに載せるか、別に作品ページを作るかは決めてません。一応完結にしておきます。




