五
「あなた……。先程までの少女とは別人ですね。何者です?」
「息吹、という者だよ。ヘマをして、百年ばかし封印されていてね。幸運にも綻びができたから、無理をして脱出したのさ。そのせいで封印されてた時よりもだいぶ弱ってしまったけど、これまた幸いなことにエサが近くにいたものでね。お陰様ですぐ元気になった」
ひらり、と傷ひとつない手を翳し、うっとりとした顔つきで答える。
見た目は少し地味な少女のままだ。何も変わらない。違うのは中身だけ。
「この娘の記憶が教えてくれたよ。ちょっと地中に籠もってた間に、人間はだいぶ変わったようだね。だから私も少し話し方を弄ってみたんだけど、おかしくないかな? これから人間を漁るには、こっちの方がいいかと思うんだ。どうだろう」
瑠璃姫は冷めたように目を細め、少女の皮を被った同胞を見据えた。
「なるほど。彼女の心に巣食い、支配権を獲りましたか。余程怖かったのでしょう。可哀想に」
「ふふ、その可哀想なコを見捨てて追い打ちかけたのは君だよね?」
「まあ、確かに。少しはこちらにも責任がありますね」
息吹とて、取り憑いて一日も経たぬうちに宿主の体を奪えるとは思っていなかった。可能となったのは、少女の心が隙だらけだったからだ。
人の心は紐で編んだ籠のようなもの。
怒り。悲しみ。そして恐怖。それらの感情に揺さぶられると、籠はたわんで隙間ができる。感情が強ければ強いほど、隙間は大きく広がる。入り込む余地が生まれる。無防備な心に介入するのは容易かった。
加えて言えば、負の感情は息吹の糧でもある。
凛音は元から負の感情が強かった。だからこそ息吹に目を付けられたわけだが、そこへ縹が命を奪うべく襲いかかった。本当なら、無力な人間など最初の一撃でお陀仏だった。が、そこは息吹が上手く手助けして、凛音を逃がしてやったのだ。生存のチャンスが見えたことで、恐怖は更に増大した。息吹は膨れ上がった感情を食べる。縹が襲う。そしてまた息吹が凛音を救う――最高のサイクルであった。
こうして急速に力を取り戻した息吹は、たった数時間で凛音の身も心も乗っ取ることに成功した。
「……せめて、心を奪われる瞬間の恐怖はなかったと思いたいですね」
瑠璃姫は悔やむように呟く。
凛音には本当に罪がなかった。不運にも巻き込まれただけのか弱い少女だった。最期くらい安らかであれと願うのは人情だろう。瑠璃姫は鬼だが、それくらいの情は持ち合わせているつもりだ。
「ん? やる気? 君に私と戦う理由なんてないと思うけどな。もしかして、この人間に同情したの?」
静かに身構える瑠璃姫を見て、息吹は面白がるように言う。
瑠璃姫は淡々と首を横に振った。
「もちろん、それだけではありません。我らが望むのは平穏――人も含めて調和の取れた世です。あなたの存在はどう考えても邪魔ですので。主様に代わり、ここで排除させていただきます」
「主? ああ、それがこの地を治めてるってわけ。聞いたことないな」
「あなたよりも遥かに古い鬼ですよ。――図に乗るな。物知らずの若造が」
息吹の眉がピクッと跳ねる。目は笑っているが、瞳の奥では怒りが抑えきれていない。
随分と挑発に弱いようだと、瑠璃姫は内心で嘲笑う。
しかし、息吹も言われたままではない。
「あっそう。別に興味ないけどね。下僕にやらせて自分は隠れてる臆病者とか、どうせ狭い世界で粋がってる三下でしょ」
「は?」
「あ。怒っちゃった? いやーゴメンね! 年上相手に生意気言っちゃって! でもさぁ、本当のことってつい口を衝いて出ちゃうじゃん? 悪気はなかったんだ。戯言だと思って許して――よっ!」
瑠璃姫が跳躍する。と同時に、彼女の立っていた地面が爆発した。
飛び散る砂礫。
瑠璃姫はひらりと宙を舞いつつ、土埃から守るため袖で口元を覆う。その目は不快そうに細められていた。
息吹は一歩も動いていない。それどころか、武器を振った形跡もない。初撃を躱せたのは、タイミングを読んだからに過ぎなかった。
どこに来るか予測のつかない、完全に不可視の攻撃。
「邪眼か。厄介な」
「ほらっ。まだまだ行くよっ」
息つく暇を与えず、息吹は次々と攻撃を繰り出していった。瑠璃姫はどうにか隙を見て攻勢に転じようとするが、一向に機会はやってこない。
次第に追い詰められ、瑠璃姫の顔にも焦りが浮かびはじめる。
「アハハ、どうしたんだい? 私のこと、排除するんじゃなかったの? ボサッとしてると食べちゃうよ?」
「くっ、馬鹿の一つ覚えみたいにっ」
「君程度の相手なら、これで十分ってこと。恨むなら自分の非力さを恨みなよ。それと、下僕の危機も助けてくれない主様とやらをさ」
「貴様……ッ」
主への愚弄に、頭がカッと熱くなる。その直後、左肩辺りで強い衝撃が弾け、瑠璃姫の体は横に吹き飛んだ。鮮血が花びらのように夜空に散る。
一滴の赤い雫が、偶然――しかし誘われるように息吹の方へ飛んできた。息吹は小さい口を大きく開けて、真っ赤な舌でその雫を受け止めた。閉じた唇が満足そうに弧を描き、口内にぐるりと舌を這わせる。やがてゴクリと小気味よく喉を鳴らすと、ニタリ、と邪な笑みを佩いた。
「美味い」
虹彩が黒から金へと揺らめいた。瞳孔は縦長に細くなり、顎の下や首の側面に鱗のような模様が浮かぶ。唇を舐める舌は先端が二股に裂け、チロチロと踊った――。
『美味い』
一体どうしてその声が聞こえたのか、凛音自身にも分からない。
泥が塗りたくられたかのような冥闇の奥底。その更に底へと、凛音の自我は真っ逆さまに堕ちていくところだった。
薄っすらと開いた瞳は何も映さず、ただただ吸い込まれるように昏い。
欠けていた記憶が一つずつ蘇る。
病院の帰り道。いつも通りがかる四つ辻。赤い夕焼け。
(そうだ。わたし、あの時食べられちゃったんだ)
誰かに呼び止められた気がして振り返ったら、顔の欠けた笠地蔵が道脇にちょこんと座っていて――
「悲嘆に暮れて日々を過ごす哀れなヒトよ。お前の無為な人生を捧げておくれ」
そう、声が聞こえた。
あっと驚いた時にはもう、凛音は凛音だけではなくなっていた。あの鬼が痛みもなく内側に滑り込んで、凛音の心と体を昏く塗りつぶしたのだ。
そのあと縹に襲われたのは、たぶん偶然に近い必然だったと思う。
息吹が凛音の記憶を読み取ったように、凛音もまた息吹の記憶を見た。
だから今は全てを知っている。
今から百年以上昔、縹は山間の小さな集落で人間と共存して暮らしていた。息吹の記憶を読むまで知らなかったが、人に敵意を持たない鬼はそれなりに存在するらしい。
妻は人間で、息子は鬼と人間のハーフだった。
縹は他の人間と比べても穏やかな性格で、村人たちからも慕われていたようだ。
息吹はそんな彼の平穏を壊した。
最初は、集落に手を出さない代わりに縹と一対一の勝負がしたいと持ちかけた。縹は自分一人が標的ならと了承した。
だが、いくら待っても約束の場所に息吹は来ない。
それもそのはず。勝負など最初からするつもりはなく、縹を村から引き離すために吐いた嘘だったのだ。
村に戻った縹が見たのは、至るところで燃える炎から逃げる人々と、彼の家族を手にかける息吹の姿だった。
息吹は縹が帰ってくるのを待って、わざわざ目の前で惨殺したのだ。
当然怒り狂った縹が襲いかかったが、息吹はのらりくらりと躱し、笑いながら逃げていった。
それから百数十年。縹はずっと復讐の時を待っていたのだろう。封印された息吹が目覚めるのを、この壱美の地で。
胸を貫く刃の痛みと、愛する人を喪う痛みは、きっと等しい。
凛音には縹の気持ちが分かる気がした。
『では、生きて何か為したいことでも?』
『目的があるからこそ生きるのでしょう。ないのであれば、生きる意味はない』
『死んでも構わないではありませんか』
仮に復讐が叶ったとしたら、縹は生きる意味を失うことになる。
(そして、わたしは――)
『いやだ! 行きたくない! 母さんたちとはなれたくないよ!』
『いいから来るのです。お前は音無の家を継ぐ大事な道具。役立たずな無能者のことは忘れなさい』
『いやだ!! 母さんも姉さんもやくたたずなんかじゃない! いらないのはお前だ!!』
『なんですって。音無の総領たる私に向かって――』
黒塗りの立派な車。家の前に停まったそれは、泣きじゃくる弟を今にも飲み込もうと口を開いている。
凛音は弟に手を伸ばした。
弟も凛音に手を伸ばした。
けれど、大人の力は容易に幼い子供たちを引き剥がして――。
『たすけて、凛ねえちゃ』
バタンッと強く閉められた扉が、二人の間に繋がる絆を断ち切った。
それから十年。
痛みは癒えるどころか増えるばかり。半身を失った凛音の人生は空虚なものとなり、母との関係さえ脆く崩れ去ろうとしている。
生きて為したいことがあるとすれば、幸福だったあの頃に戻ることだろう。
だけどそんなのは無理だ。
時間は決して戻らない。失われた十年は二度と取り戻せない。
(だから)
目的なんかいらないのだ。生きる意味も必要ない。
少なくとも、わたしには。
(だから――!)
怒りが自我を支配する。
あまりに邪悪な理不尽を前に。
炎の中、哄笑する奴の姿が脳裏にこびりついている。
愛しい人を抱きしめた大きな鬼の慟哭が、今もまだ反響している。
何故、笑える。
何故、奪える。
お前が立っているのは、お前が奪うべきでなかった人たちの命の上だ。
「お前が許せない! わたしの体でヘラヘラ笑うな、息吹!」




