四
また鬼だ。これで二体目。
平和だった壱美市に、災害指定の鬼がこんなにも集まるなんて。それとも、凛音が知らないだけで、この町は元からあやかしに支配されていたとでも言うのか?
(でも、助けてくれた? 見てないけど、大きな鬼を止めたのは絶対このひとだ)
絶望の淵に立たされていた心に、小さな希望の火が灯る。
凛音は涙に濡れた瞳で女を見上げた。
一方、新たに現れた女の鬼はしばらく凛音を見下ろしていたものの、やがて興味を失ったかのようにふいっと顔を逸らした。
「まずは理由を聞きましょうか。なぜこのような騒ぎを起こしたのです? 定住を許す代わりに主様の膝下を決して荒らさぬとの約定だったはず。忘れたわけではないでしょう、縹よ」
縹、と呼ばれた巨躯の鬼は、フーッフーッと荒い息を繰り返しながら女鬼を睨んだ。
傷を負った様子はないが、片膝を突き立てない様子。あるいは立とうとしないのか。
「ソの女ハ、家族ノ仇ダ。約定を破ッタことは、謝罪スル。しかシ、罰されル覚悟あっテのコト。ソコを退いてくれぬカ、瑠璃姫」
仇という言葉に、どくんと凛音の心臓が跳ねる。約定だとか主様だとかよく分からない事情があるようだが、それよりも縹の仇という部分が妙に気にかかる。
瑠璃姫の心にもその言葉は響いたようだった。
「仇、ですか……。そういう話なら、わたくしが出しゃばるのは一旦止めた方が良さそうですね。ただし、必ずこの場で片を付けること。山の外へ持ち出すことは許しません」
「感謝スル、姫よ。主様にハ決しテ迷惑をかけヌ」
「そ、そんな!」
反射的に声をあげる凛音。縹、そして瑠璃姫の視線がぎろりと彼女を射抜く。その威圧感に怯みながらも、凛音は必死に叫んだ。
「人違いだよ! わたし何もしてないっ! だってただの高校生だよ!? 仇とか……殺しなんかできるわけないじゃない!」
これでも真っ当に生きてきた。暴力を振るったこともなければ、振るわれたこともない。
ましてや、鬼の仇なら殺されたのは鬼だろう。ただの女子高生である凛音に、鬼を殺す力などあるはずない。そういった血生臭いこととは引き離されて生きてきたのだ。
叫ぶたび、心臓が張り裂けそうだった。それでも、意味のある言葉になっているだけマシだったろう。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ助かることしか考えられない。
瑠璃姫という鬼は、どうやら中立寄りの立場らしい。巨躯の鬼が言った仇討ちが見当外れだと分かってもらえれば、凛音にも活路はあるかもしれない。
細くて脆い蜘蛛の糸だ。だが、そんなものでも縋らなければこの死地は乗り越えられない。
どくん、どくんと、体の奥が脈動する。
昏い光が明滅する。
凛音の感情に呼応するように。
「お願い……。このままじゃ殺されちゃう」
目の前が翳り、くらりと歪んだ。
だんだんと意識が遠ざかっていくような気さえしてくる。
耐えなければ。ここで瞼を閉ざせば、二度と目覚めることはない。
「では、生きて何か為したいことでも?」
「え?」
凛音は思わず顔を上げた。
「目的があるから生きるのでしょう。ないのであれば、生きる意味はない。死んでも構わないではありませんか」
「それは……」
純粋な疑問だという風に小首を傾げる瑠璃姫に、凛音は反論の言葉を飲み込む。
"人生終わってる"
それは口癖のようになっていて。
何度繰り返し口にしたか知れない。
だけど、それは決して死を目前にして得た実感ではなく、これから先何年経とうとわたしの人生が浮上することなどないのだろうという諦念だ。"終わってる"とはつまり比喩であって、本当に人生を終わらせるつもりなんてない。
だが瑠璃姫は問う。
希望のない生き方に意味はあるのか、と。
あると答えたかった。今は希望が見えなくとも、いつかは頑張って実りある人生を歩めるかもしれない。それこそが希望ではないか。
なのに、言えない。
なぜ?
涙が溢れる。
「でも、死にたくないよ……」
――どくん。
縋っていた糸が手の中でぷつりと音を立てて千切れる。
「なんでなの? 理由を教えてよ。なんで私が仇って呼ばれなくちゃいけないのよっ」
――どくん。
わたしが落ちる。冥闇に堕ちる。
「あんたに殺されなきゃならない理由なんて、私にはこれっぽっちもないわよっ! 目的なんか知らないけど、私は生きてる! それじゃダメなの? 何の理由もなくたって、生きる権利くらいあるはずでしょ!」
「俺ノ家族もソうだッタ! 死ヌ理由がないのは、妻ヤ息子モ同じダっ! だが前は殺シた。俺ノ大切な家族ヲ殺シた! なぜダ!? 村を焼キ払ウだけで飽き足らなかっタノカ? なぜ無力ナ女子供まデ手に掛けタ!」
「だから知らないって言ってるでしょ!? 私にも家族はいる、喪ったあんたは可哀想だと思うわよ! でも、だからって無関係な私を巻き込まないでっ。そんなの、理不尽じゃない!」
――どくん。
鼓動が嗤った。
冷静でない自覚がある。それでも自分を止められない。この口から紡ぐ言葉が、自分のものではないような気がして。
乖離する体と心が、粘土みたいにどろどろと溶けていく。
手も足も、舌も歯も、どこへ行った?
誰の足で立っている? 誰が口を動かしている?
――誰がわたしを騙っているの?
「理不尽ダと? どの口ガ言ってイル? 本当の理不尽ハ貴様自身ダ! 鬼とて掟ハある。一度交わしタ約定ハ違えてはならヌ。破っタ者にハ、然るベキ罰を。だが、貴様は端から守るつもりナドなかっタだろウ! なぜダ!? なぜあんナ約定を交わシタ? 最初カラ裏切ルつもりなら何故!」
なぜ、なぜと五月蝿い。
ただでさえ図体が大きいせいか、腹の底から絞り出した声量は空気を震わせるほどだ。
憐れではある。大切な者を喪う痛みは、人も鬼も変わらないのだ。巨躯の鬼の怒りはその証だ。
「ナゼ、あんな酷いことヲ……」
また、なぜって?
だって、それは。
「楽しいからに決まってるだろう」
刹那――
「ぐあアッ!?」
「縹!?」
目を見開いた瑠璃姫の先で、縹の巨体が倒れ込むように仰け反った。胸の一部が生々しく抉り取られ、半身が真っ赤に染まっている。
瑠璃姫はハッとして飛び退り、凛音から大きく距離を取った。
右半分が露わになった顔は険しく、厳しい。構えた右手には何も握られていないが、霊気を溜めているのが感じ取れる。
そんな女鬼が可愛らしく思え、凛音はにたりと口を裂いて笑った。
――この女の血はさぞかし美味いのだろうな。
想像するだけで、期待に胸が震える。




