三
「……は?」
巨人、だ。
煙っていてよく分からないが、輪郭を見るに、途轍もなく巨大な人間のようなもの。これがもし二メートル程度の身長であれば、凛音もただの事実として素直に受け止めただろう。身長二メートルの人間なんて実際には会ったことないけれど、どこかには存在するのだから。
しかし前方に聳える影は、少なく見積もっても三メートルはある。光の屈折やら何やらでそう見えているのではなかった。
煙の向こうに確かにいるのだ。人のような形のナニカが。
土埃が晴れ、その全容が露わになっていくにつれ、凛音は動かずにいたことを心の底から後悔した。体が芯から冷えていく。
「――お、に」
筋骨隆々とした肉体は、全身が青い鋼のようだ。見るからに硬く、薄っすらと光沢がある。腕も足も凛音の何倍といった太さがあり、ライオンですら片手で抱えられそうなくらい逞しい。
岩のような瞼の奥に光る双眸は、目というよりも刃物のように無機質で鋭い。
何よりも目立つのは、小麦色の頭髪を割って伸びる一本の角だ。人間にはありえないその器官は、どういうわけか途中で絶たれ滑らかな断面図を見せている。
間違いなく鬼であった。
「えっなんで? 鬼鈴は……!?」
恐怖よりも動揺、困惑が勝ったのか、凛音は我知らず口走る。
鬼鈴とは、日本国で常時携帯を推奨されている呪具だ。鬼の存在を検知すると、激しく鳴り響いて教えてくれる――はずなのだが。
「なんで!? なんで鳴らないの!?」
鞄のベルトにつけっぱなしの鬼鈴は、いくら揺すってもうんともすんとも言わない。小学校で最初に配られた時以来一度も音色を耳にしたことはないけれど、目の前に鬼が立っているこの状況でも動かないなんてあんまりだ。凛音の脳裏に「故障」の二文字が浮かぶ。
一体いつから? 最初から?
この期に及んでは意味のない疑問だ。
現に鬼は目前におり、刃物のような眼が怯える凛音を捉えている。
「……みつ、ケた……」
「ひっ!?」
「ミつ、けタアア!!」
「きゃあああ!!」
鬼は大きく左腕を振りかぶった。その途端、凛音は甲高い悲鳴を上げて踵を返す。
直後、すぐ後ろで地面を揺さぶるような衝撃が弾けた。
もう、畦道だ畑だなどと言ってられない。逃げなければ殺される!
(どうしようどうしようどうしようっ)
凛音はか弱い女子高生だ。格闘経験はおろか、体育の授業以外ではスポーツの経験もない。あったとしても、人知を超えた鬼の相手なんて到底無理。
交戦は論外。
かと言って、無事に逃げおおせる自信はない。
つまり――このままでは、確実に死ぬ。
怪異による事件数が年間千件を超える日本では、当然ながら、自分が被害者にならないためのマニュアルというものが存在する。だがそれは鬼鈴が正常に作動することを前提としたものがほとんどで、そうではない場合に取れる行動は一つしかない。
(こういう時はっ、102番っ!)
国家鬼対策組織、征鬼隊指令センターに繋がる緊急通報用電話番号である。電話も鬼鈴もなかった時代は、鬼が現れた時点で村一つ、町一つは壊滅を免れなかった。だが鬼鈴のおかげで接触する前に避難でき、電話のおかげで離れたところにいても救援を呼べるようになった。さらに携帯電話の登場によって、人命を守る流れはよりスムーズになったと言える。
とにかく、凛音は逃げながら、逸る思いで携帯電話を取り出した。数年前の機種で、高校入学時に母が買ってくれたものだ。勿論、最安プラン。持っていて良かったと安堵する一方、画面に触れようとする指は恐怖で震える。
「ガぁぁアアア!!」
「きゃあ!」
頭上を何かが物凄い勢いで通り過ぎ、巻き起こった風に煽られて凛音は体勢を崩した。運悪く、そこは黒い土が掘り返されたような窪地で、一メートルほどの高さを為す術もなく転がり落ちる。
下は柔らかく、華奢な凛音の体を受け止めてくれたが、肝心の携帯電話は手放してしまった。
涙を堪えながら目を開けると、近くの地面に無惨に折れられた道路標識が突き刺さっている。元からあったわけがない。先程、頭上を通り過ぎていったものの正体だ。
「ヒッ……!」
背筋どころか、頭から爪先までもがゾッとする。
金属の塊を素手でへし折る膂力。それを人に向ける凶暴性。今までは知識でしか知らなかった鬼の恐ろしさが、本能の深い部分に刻み込まれる。
気配を感じて、振り返った。その拍子にヘアピンで押さえていた前髪がほつれ、目の前に一筋垂れる。
窪地の縁。凛音が転がり落ちてきたところ。そこに、角の折れた鬼がにゅっと生えるように現れる。
金色の瞳に、座り込む自分の姿が映っている。
自分でもなんと叫んだか分からなかった。
手足を四本の足みたいに動かして、這いつくばってその場から逃げ出す。
気付いたら四方八方を木々に囲まれていて、おそらくは山の中なのだろうが、正確な場所は見当もつかない。
「はぁッ、はぁッ!」
なんで。
「はぁッ! んっ……うぅッ」
なんで。なんで、なんで。
ガサガサと草叢を突っ切って進む。泥濘んだ地面を踏むたび、泥がビチビチと足に撥ねる。
いつの間にか空は暗くなっていた。そんなに走った覚えもないのに。
(なんでこんな事になっちゃったんだろう)
眼鏡の奥に涙が光る。水滴は頬の上を滑り、光のない夜の闇へと消えていく。
たかが一本、道を間違えただけ。
たったそれだけで、これからも続くはずだった退屈な日々は失われ、死へと直行する道をひた走る羽目に陥った。
不運と呼ぶにはあまりにも災難。
だが、この理不尽こそが生命の本質。
ただの女子高生でしかなかった凛音は、この日、運命の残酷さを思い知らされたのだった。
「あっ」
爪先が何かに取られたかと思った瞬間、あっけなくバランスを崩し肩から倒れる。固い衝撃が骨へと伝わり、左肩を中心に痛みが走った。
「痛ぅ……ッ」
乾いた土の感触が、地についた掌にざらりと伝う。
ヒュオオッと嘆きのような風が鼓膜を叩いた。
寒い。
走り続けたことで温まった体が、容赦なく冷えていく。
そこは、山から突き出た崖だった。ドラマで見るような断崖絶壁だ。
頭上には雲に覆われた夜空が、何にも遮られることなく広がっている。遠くに見えるのは凛音の暮らす壱美市の街明かりだ。人口十万人もない片田舎。都会みたいに高い建物はないが、日の入りと共に寝静まるほど原始的でもない。人工の明かりがポツポツと灯っている様はとても平和で、凛音は急にそこから弾き出されてしまったような、遠く淋しい感覚に襲われた。
(もう……帰れないの?)
後方から、鬼が一歩一歩迫りつつある。足音と振動で分かる。万が一に賭けて崖から飛び降りたとしても、鬼は容易く追いつくだろう。追いついて、殺される。
それでも逃げなきゃと思うのに、体に力が入らない。体力の限界ではなく、絶望に足を取られたせいだ。
思い浮かぶのは、なぜか母親の顔だった。
ここ数年、特に入院してからは他人の悪口ばかりで凛音をうんざりさせていた母だけど、以前は全くそんな人ではなかった。
むしろ真逆だ。いつだって優しくて、強くて。穏やかで凛とした、自慢の母だった。
それが徐々に。
徐々に変わっていった。
もしかしたら、その頃から母の体に異変が起こり始めていたのかもしれない。だけど凛音は何も気づくことなく、変わってしまった母を鬱陶しい、邪魔な存在に分類した。親子の情を投げ捨てたつもりはないけど、おそらくその寸前まで到達していた。反抗期のせいもあっただろう。
(お母さん……)
今になって、もっと話をすればよかったと後悔が込み上げる。何もかも遅すぎるというのに。
涙が溢れて、ぽたぽたと地面を濡らした。
だが、最後のひと時すら敵は満足に過ごさせてくれない。
地面を踏み固めるジャリ、という音に気が付いて、のろのろと後ろを振り返った。
山の輪郭が盛り上がり、そこから巨躯が現れる。
月も星もないのにはっきりと捉えた己の視力を、凛音は何一つ疑問に思わなかった。
「ようヤく、この時ガ来タ。積年の怨ミ、今こソ晴ラす……!」
興奮による荒い呼吸を抑えきれず、鬼は牙の端から熱い息を吐き出していた。赤い炎を幻視するほど禍々しい。
なぜこんなにも激しい憎悪を向けられなければならないのだろう?
争いとはほぼ無縁の人生を歩んできた。友達と口喧嘩すらしたことないのに。
鬼の恨みを買った覚えなど、当然一つもない。
「あ、わ、わたし……あんたなんか、知らない」
「そうカ。ダガ俺は知ってイル。姿形は変ワろうと、忌々しいソノ気配、違えルはずがナイ!」
「きゃっ……!」
咆哮としかいいようのない怒号。風圧でぶわっと生暖かい風が巻き起こり、凛音の解けた髪がばらばらと散らばる。凛音は思わず両腕で視界を庇ったが、身体は崖の方へ数センチメートル傾いた。
続け様に悲鳴を上げる。追い詰められた恐怖と絶望は言葉にならず、ただ喉を切り裂くように叫ぶだけ。みっともなかろうが、凛音には喚くことしかできない。
鬼は大股で近づいてくる。憤怒の表情で。こちらの言い分など聞く耳を持たない。
死にたくない一心で、凛音は這いつくばりながらも鬼から遠のこうと手足を動かした。だが、その先は断崖だ。縁に辿り着いてしまえば、あとは落ちるしかない。そのことに気付いていないのか、凛音は引き攣った泣き声を上げて這い進む。
土を掻く指が、白く染まる。
空では、風が雲を押し流していた。
まるで舞台の幕が上がるかのように、あるいは波が引くかのように、サアッと暗い帳の向こうへと闇が去っていく。
雲が晴れた空に、丸い月が皓々と輝いていた。
「ガアアァッ!!」
突如、耳を塞ぎたくなるような絶叫が山を劈いた。痛みと苦しみ、驚愕の入り混じった鈍色の響き。
鬼が、宙を舞っていた。
いや、吹き飛んだと言った方が正しいか。戦車の大砲でも跳ね返しそうな鋼の巨体が、車に撥ねられたみたいに弾き飛ばされている。
凛音は驚きのあまりぽかんと口を開けたが、理由は鬼が吹き飛んだことではなかった。
「何やら騒がしいと思い来てみれば……。あなたが我を忘れて荒ぶるなど、珍しいこともあるのですね」
凛音と鬼とを阻むように、こちらに背を向けて立つ和服姿の女。
月影に照らされて、艶やかな黒染めの中に仄かな桜が花を咲かせる。長い黒髪を複雑に結い、瑠璃の玉を髪留めに左耳の後ろから一筋の尾のごとく流している。白い項は艶めかしく、女の凛音でさえもドキリとするほど。丁寧に左右揃えた小さな足が、漆塗りの下駄にちょこんと乗っていた。
女が振り向く。
その瞬間、凛音は呼吸が止まるかのように錯覚した。
現れた顔右半分の、この世のものとは思えない美しさ。上品に弧を描く真っ赤な唇。雪のように白く陶器のように滑らかな頬。そして、涼やかに輝く金色の瞳。
しかしもう半分には、左目と左頬をすっぽり覆うほど大きな蝶が張り付いてたのだ。
――いや。違う。仮面だ。本物そっくりの揚羽蝶を象った仮面。
さらに。
額の左右から伸びる、細い牙のような角。青鬼の折れた角よりも短いが、滑らかな真珠を思わせる銀の光沢は芸術的であるとさえ思えた。




