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桜下白鬼伝1―角のない鬼(改稿版)  作者: 良田めま


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2/7

 母が入院している病院を出る頃には、西空はもう既に真っ赤だった。強めの北風が吹き、凛音の三つ編みとセーラー服を揺らして過ぎ去る。

 外の空気を吸えば気が晴れるかと思ったが、期待したほど効果がないことに彼女は少しだけ肩を落とした。

 学校の鞄がずっしりと重い。毎日教科書を持って帰るせいでもあるが、代わり映えのない日々にうんざりしている心理的要因も大きいだろう。

 学校は好きでも嫌いでもない。勉強は得意ではないが苦手でもない。友達はいないわけではないが、付き合いに費やせる時間がない。私生活の都合で部活もやっていないから、人間関係は同年代の中でもかなり狭い方だ。

 傍から見れば、何かに縛られることもなく自由な人生を送っていると思われるかもしれない。

 だけどそれは間違いだ。

 凛音の心と体は見えない鎖で雁字搦めに縛り付けられ、今も息苦しさを感じている。

 ストレスの原因は考えるまでもない。

 母だった。


(お母さん、今日も愚痴ばっかだったな)


 高校二年に進級した頃、母が急な病で入院することになった。仕事の最中に倒れ、救急車で運ばれたのだ。その報を聞いた時の絶望感と言ったら、比喩ではなく目の前が真っ暗になるほどだった。


 母と娘の二人暮らし。頼れる親戚はなく、母の同僚は「困ったことがあったらなんでも言って」と声をかけてくれたが、よく知らない他人にそうそう甘えることもできず。クラス担任はこちらの事情を把握しているものの、最初に心配する言葉をかけてきただけで積極的に助けてくれたりはしない。たぶん面倒なのだろう。凛音としても、先生が何かできるわけでもないしと冷めた考えを持っているからお相子だ。

 外向きには何でもないような顔をして、ギリギリのところで生きていた。


(町に下りたら、スーパーに寄って食材買い足さなきゃ。もうお米なかったよね。野菜も最近高いから、なんとか節約しなきゃ。でも、バイト増やしたらお母さんにまたなんて言われるか……)


 頭の中で不満たらたら(ブツブツ)。こんなのが毎日。

 時々、わーって大きな声で騒ぎたくなる。


 嫌いだ。

 毎朝、家の門を出たところで声をかけてくる同情心丸出しのおばさんも。

 それに対して愛想笑いを返しながら、他人を憐れむ自分が好きなだけなんでしょ、なんて心の中で蔑んでしまう自分も。


 もう嫌だ。

 昼休みに、流行の話題で盛り上がるクラスメイトに分かるふりをして相槌を打ったり。

 放課後に、申し訳ないポーズをとって友達の誘いを断ったり。

 部活に向かう同級生たちの楽しげな声を背中で聞くのは。


(惨めだ)


 本当は、もっと普通の高校生活を送りたい。勉強に集中したい。おしゃれだって興味あるし、本当は靴だって買い替えたい。

 一年の時はまだマシだった。忙しい母に代わって家事に追われていたのは今と変わらないけど、月に一度はなけなしのお小遣いを使って友達と遊べた。

 貧しい中、高校に通わせてくれる母に対する感謝もあった。

 なのに、今は。


「あんたは健康でいいわよね。若いし、これからだし。恋人だって作りたい放題でしょ。私なんか、一生懸命頑張ったおかげでこんななっちゃった。全部あんたのせいとは言わないけど、半分くらいは責任あるんだからいつか返してよね。あーあ。なんであの時、手切れ金断っちゃったんだろう。あっちがその気ならこっちだって、って意地になってたのよねぇ。やっぱり家くらいじゃ割に合わなかったわ。ま、住む場所があるだけマシだけど。ああ、今住んでるのはあんた一人か。羨ましいわ。自分の家だったら口うるさい看護師もいないし、精神的に楽だろうなぁ。ねぇ聞いてよ。あの坂本ってオバさんさ――」


 グチグチ、愚痴愚痴。悪口ばっかり。負の感情がとめどなく溢れていく様を見ていると、こっちまでドブ色に染まっていくような気さえする。

 こんなに愚痴ばかり言う人だったろうか? それとも、病気で変わってしまったの?

 娘の感情なんて知りもせず、ただ憂さ晴らしの道具としてしか見ていない。

 だけどそれでも、今や唯一の肉親である母を見捨てたりはできない。そんなことをしたら、わたしも母も可哀想だから。


 家に帰れば孤独が待っている。

 一人だけの食卓。

 一人だけのテレビ。

 一人だけの夜。

 もう飽いた。

 全部終わりにしてしまいたい。

 ――そんな考えが、雲間から差し込む日差しのように浮かび上がるようになったのは、いつ頃からだったろうか。


「終わってるなぁ」


 茜色に輝く雲を見上げて、自分の人生を総評する。


 あの子は今頃どうしてるだろう。

 泣きじゃくりながら、父親と祖父母に引き取られていった弟。引っ込み思案なお姉ちゃん子で、同い年だと言うのに可愛くて可愛くて仕方がなかった。この子は私が守るんだと、幼心に誓ったこともある。だけどそれは叶わなかった。外部の手により引き裂かれたからだ。ひどく悲しくて腹が立ったが、母の失意は凛音以上だったろう。一時期は食べ物も喉を通らず、頬が痩けるほどに憔悴していたのだから。そんな母を見て、凛音は自分だけはずっと母の傍にいようと決めた。

 なのに、今ではこの様だ。

 十年で変わってしまったものは数え切れない。

 家族、家、町。生活レベル、学校に友人。

 わたしも、母も。

 母の入院はきっかけに過ぎない。ずっと前から凛音は倦んでいたのだ。誰にも本心を曝け出すことができないまま、少しずつ、少しずつ……。


「……あ。嘘。行き過ぎちゃった」


 ふと気付くと、やけに強い西日が目を刺した。本来曲がるはずだった十字路を通り過ぎ、人通りの少ない農作地に迷い込んでしまったようだ。周囲はほとんどが畑で、ポツンポツンと平屋が建っている。凛音が立っているのは、車がぎりぎりすれ違える程度の畦道だった。

 北を見れば山が近い。すぐそこまで迫ってくるようだ。確か、桜馬山といったか。凛音が住む家はあの山の向こう、壱美市の北側だ。学校と病院は南側にあって、普段はバスを使って移動している。今日は財布の中身が心許ないので、歩いて帰ろうと考えたのだ。


「戻らなきゃ」


 深く溜め息をついて、鬱々と踵を返す。この畦道も大きな通りに繋がっているのかもしれないけど、普段通らない道なので確実ではない。万が一迷った場合を考えると、素直に来た道を戻った方がいいだろう。

 ただでさえ疲れているのに、余分に歩かなきゃならないなんて。


(今日はとりわけツイてないな)


 西日が照らす畦道に、凛音の影が伸びている。細長く、歪で、どことなく邪悪。そう思うのは、自分の心の醜さを認識しているせいだろうか。そのうち勝手に動き出して、凛音を食ってしまったりして。


(馬鹿馬鹿しい)


 目を瞑って頭を振る。

 さすがに希死念慮は持ち合わせていないつもりだ。ましてや、自分の影に食べられるなんて――。


 目を開いた凛音は、一瞬思考を止めた。

 暗い。

 己の影すら見えないほどに。


「え?」


 何かヒュルルと音が聞こえた気がして、凛音は反射的に顔を上げた。

 その目の前に。

 巨大な質量を伴う()()が、砂煙を撒き上げて畦道に墜落した。


「う……っ!?」


 悲鳴を上げかけた凛音を、大量の砂埃が襲う。視界はあっという間に奪われ、うっかり開いた口の中に錆の臭いを纏った砂が侵入する。


「げほっ、げほっ!」


(一体なんなの!?)


 地割れ? 自動車事故? それとも隕石?

 いずれにしても、こんな至近距離で発生するなんて運が悪い。いや、ギリギリで衝突を免れたのは運がよかったのか。


(どっちでもいい、とにかくここを離れなきゃ!)


 右も左も分からない中、勘だけで道を探す。彼女がいるのは畑のど真ん中に横たわる畦道だ。下手に動き回ると用水路に落ちてしまう。ただでさえ目印となるようなものが何もないから、視界不良の中ではどっちが正解か分からない。

 ――しかし、この時点ではまだ、凛音はそれほど身の危険を感じていなかった。只事でないことは分かる。けれど怪我をしたわけでもないし、警察を呼べばいいだけだと軽く考えていた。

 灰色に霞む視界の向こうに、高く(そばだ)つ山のごとき影を認めるまでは。

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