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桜下白鬼伝  作者: 良田めま
第二章 手招きする女

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 凛音は差し伸べられた手を取ることも忘れ、呆然として少年の顔を見上げた。

 齢は凛音より一つか二つ上といったところだろうか。もっと大人びている雰囲気もあり、青年と呼んでも違和感がない。

 すっきり通った鼻筋。左右のバランスが良く、きりっと整えられた眉の下に光る瞳は真っ直ぐだ。薄暗い街灯の光でも分かるくらいの美男子である。地味で目立たない自覚のある凛音は、その手の女子にありがちで齢の近い男性に対する免疫がない。なので、緊張あまり頬を引き攣らせるのだった。その歪んだ表情を、負傷したせいだと勘違いする少年。


「どうした? やはりどこか痛むのか?」

「っ、イイエ。大丈夫デスっ」


 転んで擦り傷ができたであろう額を前髪でさっと隠し、急いで立ち上がった。醜い傷を見られたくないという乙女心ではなく、人外疑惑を避けるためだ。なにせこの体は治癒力が高い。軽い擦り傷程度なら、ものの数分で消えてしまう。

 差し出された手を取らなかったことに気付いたのは、パンパンと膝を払った後だった。あ、と思うけれどももう遅い。失礼だったかなと少年の顔を窺えば、彼は全く気にしていていない様子。凛音はほっとしつつ、ぺこりと頭を下げた。


「えっと、助けてくださってありがとうございました」

「いや、運よく通りすがっただけだ。完全に倒したわけでもないし、また遭遇する可能性はある」

「いえいえ。ほんと、助かりました」


 続けてぺこぺこと頭を下げる一方で、凛音はこっそり縹にアイコンタクトを試みる。


(この状況、どうするべき?)


 が、彼はふるふると小刻みに首を振るばかり。訝しんでいると、埒が明かないと思ったのかパクパクと口を開閉して何かを伝えようとしてきた。


(え? 何? 口パク分かりづらい。"あ"、"つ"、"い"……"暑い"? え、今それ?)


 確実に違うと思うが、少年の前で聞き返すわけにもいかない。縹も凛音が理解していないことに気付いたようで、二人、微妙に何か言いたげな顔で見つめ合う。


「ところで」


 空気を切り裂くみたいに、ピシャリとした声が落ちた。

 それまで穏やかだった少年の顔つきが厳しいものに変わっており、凛音は何事かと目を瞠る。


「未成年がこんな夜更けに何をしてる? 特災法により、未成年の夜間外出は規制されているはずだ。怪異の餌食になっても文句は言えんぞ」

「あ」


 そこは考えていなかった。

 少年の言う夜間外出の規制というのは、主に怪異の被害から未成年を守るための法律だ。夜は、一日の中で特に怪異の活動が活発になりやすい。太陽の縛りなく動き回る怪異もいるが、人間の目の行き届かない日没後の方がより危険だ。だが、一日の半分を外出禁止にしてしまうと生活が立ち行かない。そこで、未成年に限り二十二時から明けて四時までの外出を全面禁止としているのだ。

 縹との待ち合わせが二十二時で、そこから三十分は経っている。待ち合わせの時点でアウトだった。


「あ、あなただって未成年でしょ? わたしと歳変わらないじゃないですか」

「俺には免許がある。何時に外を出歩こうと、咎められることはない」

「免許ぉ?」


 なんだそれは、という顔で聞き返すと、少年は無言でポケットを漁りはじめた。取り出したものを「ふん」と凛音の目の前に突きつける顔は、どこか誇らしげだ。

 凛音はじっとソレを見た。

 黒革のカードケース。落とさないよう、チェーンでベルトループに繋いでいる。用心深い。カードケースには運転免許証のようなものが収まっている。少年の顔を写した四角い顔写真に、何桁もある長ったらしい番号。正三位という歴史の授業で見たことのある文字列。そして――。


「俺の名は獅子王侑斗。歴とした正討魔士だ」

「とう、ま、し……」


 唇が凍りついたようにぎこちない。心臓が不気味なほど静かだ。動いているのか怪しくて、凛音は無意識に己の胸に手を置いた。


『お前の敵があやかしだけとは限らない』


 縹の忠告が耳の奥に蘇る。あれはこういう意味だったのだ。理解すると、鼓動が静かに、しかし早足で走りはじめる。


(暑い)


 汗がこめかみをたらりと伝う。


(じゃなくて、まずい、だ)


 突きつけられた討魔士の証から目が離せない。心は今にも現実逃避したがっているというのに。

 討魔士とは、読んで字のごとく魔を討つ(つわもの)のこと。

 すなわち、鬼の天敵である。


(いやあああ! なんで気付かなかった!? めっちゃくちゃ炎飛ばしてたじゃない! 火炎放射器でもなければ、あんなこと生身でできるのは討魔士くらいでしょ! 考えなくても分かるのに、イケメンの眩しさに目が潰れてたあ!)


 凛音は擬態を解いた縹みたいに真っ青になって、ガクブルと震えた。

 追い詰められて回転速度を高めた脳内では、公民の授業で聞いた単語がリフレインしている。


 特定災害対策基本法、略して特災法。少年――侑斗も先程口にしていた言葉だ。


 簡単に言えば、鬼やあやかしといった怪異を"特定災害"と定義し、その予防や対策などをまとめた法律である。

 年間千件とは言え、多くの一般市民は特定災害になど遭わないまま一生を終える。だが、いつ自分が被害者になってもおかしくないのが災害というものだ。以前の凛音は、怖いなーと思いつつも自分とは関係のない世界の話だと頭のどこかで思っていた。別の意味で当事者になるなんて、想像もしていなかった。


『怪異に取り憑かれ、あるいは変化し、医学的・霊的に「回復の見込みがない」とされた人間は、討伐対象となる場合がある』


 討伐対象、だ。

 人類の敵として処理されるということ。


(やばい。バレたら殺される……?)


 頭の中を、不安と恐怖と焦燥が怒涛の勢いで駆け巡る。

 生き返る前も、生き返った後も、彼女は人間として暮らしてきた。確かにもう純粋な人間であるとは言えないし、普通でないことも短期間で様々体験した。それでも、根っこのところは変わっていない。倫理観は人間のままだ。人に仇なそうとか、破壊衝動のまま暴れようだとか一度も考えたことはない。そんなこと、したくもない。


(でも……)


 懸念はある。

 息吹のことだ。

 今も頭の中で奴の声が囁いている。その声に呑み込まれた瞬間、凛音は彼のような残酷な鬼と化すかもしれない。いや、きっとそうなる。白面鬼が縹に凛音の監視を命じたのは、息吹のような鬼が生まれることを警戒したからだ。彼らも最悪の可能性を考えている証左だろう。


(息吹になるつもりはない。でも、万が一堕ちたら……。そんなの、嫌だ。一刻も早く霊力を操れるようになって、声を消さなきゃ)


 幸い、侑斗は凛音が鬼との混ざりものであることにまだ気付いていない。縹のことも人間だと信じている。討魔士が怪異の気配を察するのと、あやかし同士が感じ合うのとは差があるようだ。

 とにかく、なんとしてでもこの場を無事に切り抜けなければ。

 そのためにも、絶対不審に思われてはならない。

 まずは言い訳だ。


(わたしは鬼とは無関係。ただの女子高生。無害で無力で思慮の足りない、どこにでもいる普通の子供……)


 と無心で自分に言い聞かせ、おどおどと胸の前で両手を揉む――これは演技ではなく、ただの不安の現れだった。


「そのー、わ、わたしたち、近くのコンビニに行く途中で。法律のことは知ってたけど、大丈夫だろうって思っちゃったんです。ごめんなさい」


 咄嗟に作った言い訳だが、なかなか上手いのではないか? と自画自賛する。

 良識も常識もないわけではない。だが、踏み越えてはいけないラインを軽はずみな衝動で越えてしまう。

『自分だけは大丈夫だろう』

『これくらい許容範囲だろう』

 正常性バイアスというものを、学校の先生が教えてくれた。一種の防衛本能らしい。誰にでもあり得る人間の心理だが、第三者からすると愚かで間違った判断でしかない。

 案の定、侑斗の眼から警戒心が薄れ、代わりに軽蔑の色が滲んだ。


「知ってたんなら家から出るな。法令違反だぞ」

「でも、厳しいルールでガチガチに縛ってたら社会活動が滞ると思いません? 出歩きたい時に出歩けないのってかなり困りますよ?」

「社会人ならな。君は学生だろう」

「でもほら、塾とか!」

「さっきコンビニに行くって言ってただろうが!」

「ああっそうだった。すみません! 反省してます!」

「ったく……呆れたヤツだな」


 凛音は、えへへ、と取り繕うように笑った。これぞ無害、と心の中で胸を張って。渾身の無害っぷりが功を奏したか、侑斗も表情を和らげて肩の力を抜く。


「まあ本当に反省してるなら、いいか」


 え、いいの? 今の、明らかに空謝りだけど……。

 凛音は驚きのあまり、愛想笑いを消して真顔になった。

 もしかしてこの人、すごく単純……?


「む?」


 その時パトカーのサイレンが聞こえて、侑斗が眉根を寄せた。耳は自然とサイレンの音を追う。だんだんとこっちへ近付いてくるようだ。

 侑斗はまずいな、と隣に聞こえない程度の――凛音にはばっちり聞こえているが――小声で呟いた。


「爆発音を聞いて近所の方が通報したか。一旦、ここを離れる。君たちも来てもらうぞ」

「えええ?」


 なんで??

 という心の声が届くはずもなく。

 侑斗は凛音の肘を強引に掴み、引き摺るように歩き出した。迷いなくパトカーから逃げようとする判断は、まさに不審者だ。

 凛音は戸惑って縹を見やるが、彼は先程と同じくふるふると首を振るだけだった。


(いやそれどういう意味で?)


 行くなと言うのか。それとも、抵抗するなと言っているのか。

 どちらとも判断できず、凛音は困り顔で引き摺られていくのだった。

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