80話 百合の思い
天文13年(1544年冬)――13歳
やっと長い祝言が終わってくれた……。
この時代の結婚式は、ほんとに長いのよ。
結婚式の後は、夫婦で一緒に寝るのだろうけど、お互い子ども同士。
一緒に寝る必要はないな。
いずれにしても、明日からいつもの日常、仕事てんこ盛り生活が始まる。
***
「百合、読み書きはできると思うが、計算の方はどうなのだ?」
「計算は、簡単なことならできます」
「千代女にも同じことを言ったのだが、計算は大事だぞ。計算は物を売買するのに役立つだけではない。計算ができなければ、大局的に物事を判断することができない。物事を深く考えるうえで、基本になるものだ」
「計算は、桔梗と桜に習うようにしてくれ。彼女たちは俺が伊賀に学校を作ったときから計算を習っている」
「学校で習う以上の内容を、俺が教えていたこともあって、今ではかなり高度な計算もできるようになっている。彼女たちに、教えてくれるよう頼んでおこうか?」
「おねがいします。計算は……桔梗さんや桜さんに習うようにいたします」
そういえば、桔梗さんや桜さんと話をすると、彼女たちがものすごく頭の回転が速いのがわかる。
伊賀や伊勢の様子について、何気なくいろんなことを聞いたりしても、どの質問に対しても、順序立ててわかりやすく説明してもらえるのだ。
定期的に父上のもとを訪れくる六角家の内政担当者と比べても、彼女たちの方がよほど的確に物事を把握し、実務を理解しているよう感じた。
(やはり、この家は普通ではないわ)
「桔梗や桜、それに千代女には、“兵の名簿作成”と“戦で命を落とした家臣や兵の家族への補償”を任せている」
「領国が広がり、仕事の量が増えてきている。百合もそれを手伝ってもらえると助かるな」
「それから、百合も俺の“ブツブツ遊び”に付き合ってほしい。“ブツブツ遊び”は俺の癒しにもなっているからな」
「はい、承知いたしました。精一杯努めさせていただきます。しかしその〜、“ブツブツ遊び”とは何のことですか?」
「それは、妻たちが言っていることなのだが、いつも俺は領地の問題に対して、ブツブツと“あ〜でもない”、“こ〜でもない”と呟いているそうなのだ」
「本人は無意識なのだが、それを聞いて妻たちが妙案をいろいろ考えてくれるのだ。妻たちの案に対して、また俺がブツブツと“あ〜でもない”、“こ〜でもない”を繰り返す」
「これが夫婦の楽しい時間にもなっている。まあ夫婦の遊びだ。もちろん、百合が難しければ、その場にいてくれるだけでも良いぞ」
北畠家に嫁げば、実家で身につけた武家の作法や公家の作法が、きっと役に立つ――
そう思い込んでいた自分が、今では恥ずかしい。
この家では、格式やしきたりにこだわる者など誰ひとりいない。
それもそのはずだ。三蔵様は、“日の本から戦をなくし、すべての民を幸せにする”という理想のもと、旧来の慣習や積み重ねられたしがらみに縛られず、新たな国のかたちを模索しておられるのだから。
もしかすると、三蔵様の目指す未来には――
武家も公家も、そもそも存在しないのかもしれないのだから。
つまり、神童の妻になるとは――そういうことなのね。
本気で学び、励まなければ、あっという間に他の妻たちに追いつけなくなってしまう。
さっき三蔵様がおっしゃっていた「百合が難しければ、その場にいてくれるだけでも良いぞ」だけど、 “ただそこにいるだけの存在”になるなんて、私は嫌だわ。
(せっかく、こんなにも面白くて刺激に満ちた家に嫁いだのだもの)
(このままじゃいられない。負けたくなんてないわ)
そう思っている自分が、なんだか嬉しくてたまらない。
もし、ほかの家に嫁いでいたら――きっと、こんな気持ちにはなれなかったでしょうね。
北畠では、村の娘たちでさえ、当たり前のように読み書きや計算を学んでいるという。その子たちにだって、負けていられないわ。
こんなにも前を向いて生きていける家に嫁げたなんて――
私は、なんて幸せ者なのだろう。
込み上げる思いに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
***
百合との話を終えて、俺は自室に戻り横になっていた……はずだったのだが、
気づけば朝日が差し込んでいる。もう朝がきたのか……早すぎる。
祝言も終わった。
さて、気持ちを切り替えよう。
今日も朝から予定がぎっしりだ――会議が目白押しなのだ。




