74話 六角義賢の怒り
天文12年(1543年夏)――12歳
観音寺城の評定の間に、嫡男の六角義賢と、数が減った宿老たち――平井定武、後藤賢豊、進藤貞治、目賀田綱清が集まっていた。
上座には、六角家当主・定頼が静かに座していた。
だがその目は、座敷に並ぶ平井と後藤を、氷のように鋭く射抜いている。
2人は正座のまま、額に汗を滲ませていた。
喉が張り付くように乾く。
一言でも言い間違えれば――その場で斬られる。そんな空気が空間を支配していた。
定頼の声が、低く静かに響く。
「……ご苦労だったな。さぞ疲れたであろう。で、交渉の結果はいかに?」
平井が唇を湿らせ、小さく息を吸って答えた。
「……甲賀郡一帯と、蒲生の領地、日野城の譲渡……それに、5年間の不戦協定……そして、迷惑料として2万貫――これらで講和を成立させて参りました」
その瞬間だった。
「何を……ぬかすか!!」
義賢が立ち上がり、座敷が震えるほどの怒声を張り上げた。
「2人がかりで行って、北畠の言い分を丸呑みして戻ってきたというのか!? それでよくぞ“まとめた”などと……!」
義賢の右手が、腰の刀にかかる。
柄を握る手がぶるぶると震え、殺気が迸った。
平井と後藤は、微動だにせず、ただ深く頭を下げる。
もはや抗弁の余地はない。下手に口を開けば、怒りの刃がこちらの首を断ち切るだけだ。
部屋全体が、息を呑むような沈黙に包まれる。
「義賢、落ち着くのだ」
定頼の声音には、微かだが鋼のような芯があった。
「後藤よ。三蔵とは、どのような人物であったのだ?」
「……噂に違わぬ、神童でございました。また、とても12歳とは思えぬ振る舞いと見識を備えておりました」
後藤は深く頭を下げた。
その言葉に、義賢が顔を真っ赤に染めて立ち上がる。
「ふざけたことを! たかが12歳の小童、脅せば良かろう! 黙らせれば良かろう!いかようにもなったはず!」
その叫びには、怒りというより、嫉妬と焦燥が混じっていた。
名門・佐々木家の嫡男として、名君と謳われる定頼に認められたい。
なのに、いつまで経っても自分は“期待の器”止まりで、相手はたった12歳の童子。
三蔵が評価されるたび、義賢の胸は焼けつくように痛んだ。
「――義賢」
定頼の声が低く響いた。場の空気が、ぴたりと凍る。
「簡単に刀に手をかけてどうする。将来、上に立つ者が、そんなことでどうするつもりだ」
定頼の目は、静かに、だが強く義賢を捉えていた。
「この者たちは、六角家を支え続けてくれた忠臣だ。恥をかいても、屈辱に耐えても、家を守ろうとした男たちだ。そういう者を、刃で裁こうとするでない」
義賢は、唇をかみしめて俯く。
「よいか、己の心すら制せぬ者に、人はついては来ぬぞ」
「忠臣とは、家に仕えるのではない。“主の心”に惚れて仕えるものだ。なぜ、叱責されたのか――よく考えるのだ」
静寂が落ちた。義賢の肩が、僅かに震えていた。
定頼は、そっと視線を平井と後藤へと向ける。
「……さて。平井、後藤。北畠との談合を経て、そなたたちはどう考えたのだ? 率直に申してみよ」
二人は、目を見合わせ、深く一礼する。
ようやく、自分たちの言葉で語れる時が来た。
「はい。結果としては、北畠にやや利のある条件とはなりました」
「しかし――」平井が静かに続ける。
「三蔵という少年を見て、我らは確信いたしました。この者を敵に回すより、六角の懐に取り込むべきだと……」
「婚姻により、六角家に迎え入れる。それこそが、長く殿の御代を安定させる最良の道と考えた次第でござります」
定頼は、黙って聞いていた。
その横顔に、怒りも失望もない。ただ、深く何かを思案する静謐な気配があった。
定頼の沈黙が、部屋に重く降り積もっていく。
次の瞬間、刀を抜き放たれるか――それとも、命が繋がるか。
すべては定頼の一言に委ねられていた。
「……ずいぶんと惚れ込んだものだな」
定頼が、軽く目を細める。
「だが、そう簡単に“神童”を取り込めると思うか?」
「たしかに神童ではございますが、所詮はまだ12歳の子供……」
後藤が一歩前に出て応じる。
「取り込んでしまえば、あとは殿の御手でいかようにも“料理”できます。殿の政治力があれば、この同盟を最大限に活かし、伊賀・伊勢――いずれも掌中に収めることが叶いましょう」
「……儂と神童で“勝負”せよということかな」
定頼の口元がふっと緩む。
「それもまた、面白い。早く会ってみたいものよ」
その瞬間、義賢が声を荒げた。
「平井、父上に対して無礼であろう! 何を考えている! 家臣の身で出過ぎた真似を……!」
定頼は、静かに息を吐いた。
(やれやれ……この者が後継ぎで大丈夫なのか?)
「義賢、黙っておれ」
その声音は、冷えた刃のようだった。
「面白い話だとは思わぬのか? “槍と刀の戦”ばかりが勝負ではない。“政治による戦”というものもあるのだ」
「世の中には、さまざまな戦の形がある。もっと大きく、広く物事を見よ。武だけが家を守ると思うでない」
定頼は少し考え、再び平井に目を向けた。
「平井――儂には三蔵の歳に合う娘はおらぬ。其方の娘、百合はどうだ? 年頃であろう」
平井は深く頭を下げた。
「もし三蔵様に嫁がせていただけるのであれば、我が娘、百合を殿の養女としてお受け取りいただきたいと存じます。六角家の面目を保つためにも」
「うむ。よかろう」
だが、義賢は声を荒げて叫んだ。
「父上! 名誉ある六角家が、伊賀の忍び風情に振り回されるなど、あってはなりませぬ!」
「私は納得できません! 婚姻など不要、今すぐ兵を集め、北畠を攻めるべきです!」
しかし、座中の誰ひとりとして、義賢の言葉に賛同しなかった。
室内に、重苦しい沈黙が流れる。
義賢は顔を真っ赤に染め、憤然と席を蹴って部屋を飛び出していった。
定頼はしばらく黙っていたが、やがて苦笑を漏らす。
「……義賢には、後でよく言い聞かせておく」
そして、ゆっくりと立ち上がりながら呟く。
「我と三蔵の“勝負”か……ふふ、面白いではないか」
***
その日の報告を終え、平井は深いため息を漏らして評定の間を後にした。
全身を鉛のような疲労が包み込んでいる。
だがその一方で、心の奥底には確かに、静かな高揚があった。
――これは、平井家に巡ってきた“好機”なのかもしれぬ――
その思いを胸に、平井は廊下をゆっくりと歩き出した。
平井は、急ぎ平井廓へと戻ると、妻と娘・百合を呼び寄せた。
そして、評定の内容と、北畠家との婚姻の話を静かに語り始めた。
百合は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに膝を正し、静かに頭を下げた。
「……神童様の妻ですか。平井のため、そして六角家のためとあらば、喜んで嫁がせていただきます」
その言葉に、平井は安堵の表情を浮かべる。
「よく言ってくれた。……礼を申す、百合」
「なに、相手は従五位上、北畠伊勢守――二カ国を治める国主じゃ。おまえの器量と気品なら、きっと相応しい妻となれる」
隣に座っていた妻が、微笑を浮かべて口を開く。
「まあまあ……これからは、嫁入りの支度で忙しくなりますね」
「あなた様、嫁入り道具をケチるような真似はおやめくださいまし。平井家、そして六角家の名に恥じない支度をいたしませんと」
「……はは、心得ておる」
そう言いつつ、平井は娘の顔をそっと見る。
「無理をするな。……百合、おまえの気持ちは、本当にそれでいいのか?」
百合は、父のまなざしを真正面から受け止め、しっかりと頷いた。
「はい。……この身が、家の役に立てるのなら、それが何よりの幸せです」
妻が、そっと百合の手を握った。
「つらいときは、いつでも戻っておいで。親はいつまでも親ですからね」
「はい……ありがとうございます、母上」
平井は、静かに頷いた。
「とはいえ、婚姻の話はこれからだ。まずは北畠家に正式に連絡を取り、三蔵殿の了承を得ねばならぬ」
「その前に、真田殿へ再び訪問する手配を――」
そう呟くと、平井は立ち上がり、すぐに使者の準備を始めた。




