73話 駆け引き
天文12年(1543年夏)――12歳
……後藤の沈黙は続く……
後藤の額の汗が止まらない。
床には汗が滴り落ち、水たまりができている。床についた手も小刻みに震えている。
(このオジサン、大丈夫か? このまま死んだりしないよね……まぁ、敵の心配をしている場合じゃないな)
「しばしお待ちください。少し私から話をさせていただきたく。お願い申し上げまする」
平井が前に出てきたか。選手交代か。
(今度はどう出るつもりだ?)
後藤は六角家のために頑張った。俺の前で燃え尽きているぞ。
平井はどれほど頑張れるだろう。
そして、平井の長い説明が始まった。
(この時代の人は、じっくり長く話すのが好きなようだな)
信長は「……であるか!」の短いセリフで有名だけど、家臣に考えを伝えるには、相手の理解が追いつくまで、じっくりと待ち……必要なら長く話す必要があったと思う。
信長、短気だったのかな。
平井の話が長いので、別のことを考えてしまったじゃないか。
(長く話して、聞いている者を疲れさせる作戦か?)
まあ、言い訳をだらだら語る人って、だいたいそれが目的だよな……実際、疲れてきた
さて、平井の話をまとめると——
六角家には平井をはじめ、後藤賢豊、蒲生定秀、進藤貞治、目賀田綱清といった宿老がいる。蒲生を除く4人の宿老と当主・定頼は、「北畠家と婚姻同盟を結び、ともに繁栄する道を考えていた」のだという。
しかし、蒲生が三雲を引き込み、独断で暴走した。このことを当主である定頼も極めて不本意に思っている。
――とのこと。
「家臣が勝手に暴走したからといって、なかったことにできる話ではない。我が兵の実力は、既にご確認いただいたはず。このまま観音寺城に攻め込めば、どうなるか……ご想像にお任せするがな」
「しかも、我らの兵の数は、先の戦の時よりも増えている! この状況を踏まえ、六角家はどうされるおつもりか。覚悟を決めてお答え願いたいものだ」
六角家の返答を待つ……
(長いな。早く答えろよ……)
「……致し方ありませぬ。甲賀郡すべてと日野城、さらに蒲生家の領地を北畠にお渡しいたしまする。加えて、5年間の不戦協定をお願いできればと……」
後藤は疲れきった表情で答えた。
(こっちも長話で疲れてるんだけどな)
「甲賀郡も日野城も、すでに我が手中にある。渡すも何もなかろう。既に我が領地だ。いきなり攻めてきた迷惑料については? 忘れておらぬか?」
「……迷惑料として、2万貫を納めさせていただくことで、いかがにござりましょうか?」
「大筋はそれで良かろう。あとは、我が家臣・真田と細部を詰め、文書にまとめてくれ」
そう言って、俺は交渉を終えることにした。
平井と後藤は、俺の姿を見つめながら、心中で呟いた。
(この童……本当に12歳なのか?)
(何かに取り憑かれているのか)
(そんなことはいい……六角家の嫡男に生まれてほしかった)
だが、平井はすぐに思考を切り替える。
いや、六角家に生まれなかったのなら――取り込めばよいのだ。
婚姻同盟でも縁戚でも、手段は問わぬ。
(この神童の才を六角家のものとすれば、さらなる繁栄は間違いない! 大収穫だ)
たとえ今回の和睦条件が北畠に有利であったとしても、今は譲っておけばよい。
領地など後でいくらでも取り戻せるわい。
(婚姻により生まれる世継ぎが伊賀と伊勢を継げば、伊賀も伊勢も我らのものだ)
そう考えた平井は、静かに隣の後藤を見やる。目と目が合う。
多くを語らずとも、互いの腹の内は通じていた。
「幸隆、後は任せた。難しい仕事だが頼むぞ」
「はっ、お任せくだされ」
幸隆は静かに思いを巡らせていた。
この殿に仕えてからというもの、任される仕事の規模が桁違いに大きくなっていく。
信濃にいた頃には考えられなかったことだ。
(まさか、あの六角定頼を相手に、こんな大舞台に立つとは――感慨深い)
心残りはあったが、一族を連れて伊勢に来て本当に良かった。あの時の判断は、間違っていなかった。
それにしても、殿は六角家など石ころほどにも思っておられぬ様子だな。
まるで天下を狙っているかのように、飄々として底が知れない。
婚姻同盟で殿が六角家に取り込まれぬか、多少の不安はある。
だが、殿はそんなことで揺らぐ器ではないと、今ではよく分かる。
(それに――そのときこそ、儂の出番だ。伊達に信濃で揉まれてきたわけではない)
(どこまでも、殿についていこう)
誰が何と言おうと、この殿と共にいること以上に、面白いことはないのだ!




