62話 甲賀の決断と千代女の覚悟
天文11年(1542年夏)――11歳
「賢持殿! 伊賀の現状を見て、なにも思わぬのか! 伊賀の民の、あの幸せそうな顔を見ろ。伊賀は自らの努力で力を蓄え、民の暮らしを変えたのだぞ!」
望月出雲守の声には、確かな熱がこもっていた。
「それを甲賀ができぬはずがあるまい。我が望月家は、甲賀の民を幸せにするために命を賭けたい。……皆はどうだ?」
一瞬の静寂のあと、周囲の上忍たちがゆっくりと、しかし確かな意志をもって頷く。
そして口々に、賛同の意を示し始めた。
「……その通りだ」
「わしも、出雲守殿に同じく」
賢持はその様子を睨みつけ、怒りに震えた声で叫んだ。
「ええい、黙れ! なにが“民の幸せ”だ! そのようなもの、忍びには不要だ!」
「このこと、六角家に伝えるぞ。それで良いのだな? 六角軍が甲賀に攻めて来ても……儂は知らんぞ。六角家は、決して弱くはないのだぞ!」
三雲賢持は、怒気をまといながら席を立ち、足音も荒く屋敷を後にした。
その背を見送りながら、出雲守は残った上忍たちに問いかける。
「――伊賀に臣従するということに、異存はござらんか?」
「ござらぬ」
「出雲守殿に賛同いたす」
次々と肯定の声が上がる。
「伊賀からの使者は、いずれ必ずもう一度やって来る。そのときは、望月家が代表として臣従の話をまとめようと思うが、よろしいか?」
誰も異を唱えなかった。
「もちろん、六角家から甲賀を守るという条件は、必ず伊賀に認めさせる。そして――臣従の証として、我が娘を伊賀へ差し出す覚悟でおる」
その言葉に、場が静まり返る。
出雲守の決意と、それに応じた甲賀の意志が、ついに1つとなった――。
望月出雲守は屋敷に戻ると、妻と娘――千代女を呼び寄せ、静かに話を切り出した。
「……千代女、すまぬ。甲賀は、伊賀……いや、北畠家に臣従することとなった。
その証として、おまえには――北畠三蔵殿の側室に入ってもらいたい」
出雲守は、言い淀みながら続けた。
「いや、側室ですらないかもしれぬ。かつては百道家と我が望月家は、家格も釣り合っていた。だが、北畠家ともなれば、もはや雲の上の存在……妾として迎えられるかもしれん」
「……父として、心からすまぬ。このとおりだ」
そう言って、深々と頭を下げた。
一度だけではない。何度も、何度も、無言のまま、娘に向かって頭を垂れ続けた。
その姿に、千代女はそっと膝をつき、優しく声をかけた。
「父上……どうか、もうお顔をお上げください。千代女は、喜んで妾となりましょう」
その表情には、迷いも、悲しみもなかった。
静かで、強い決意だけが宿っていた。
「これまで私なりに、三蔵殿のお振る舞いを見てまいりました。“戦をなくし、民を幸せにする”という、崇高な理想を掲げ、それを一つひとつ、現実に変えてこられたお方です。そして、伊賀の民は、確かにその理想の中で生きております」
「“神童”と呼ばれていようとも、その道が平坦だったはずはありません。そのようなお方のもとに嫁ぎ、妻としてお支えできるのであれば――女として、これ以上の幸せはございません」
「むしろ、私の願いとして、北畠家に嫁がせていただきたく存じます」
出雲守はしばし言葉を失い、そして噛みしめるように呟いた。
「……よく言ってくれた、千代女……。では、正式に話を進めさせてもらおう。……本当に、感謝する」
出雲守は深く頷き、ようやく顔を上げた。
その夜、三人は昔話などを語り合いながら、久方ぶりにゆったりとした時間を過ごした。
1ヶ月が過ぎ、俺は甲賀に2度目の使者を送る。
使者を迎えた望月出雲守は、正式に北畠家への臣従を申し入れる。
やがて、使者が誇らしげな顔で戻ってきた。
「殿! 甲賀53家のうち、三雲家を除くすべてが、北畠家に臣従することをお認めになりました。まとめ役は望月家が務めるとのことです。」
「あわせて、六角家から甲賀を守っていただきたいと強く望んでおります。また、臣従の証として、望月千代女殿を差し出すとのことです」
「……よく取りまとめてくれたな。大義であった」
俺は深く頷き、静かに言葉を続ける。
「臣従にかかる細かな取決めは、村井貞勝に一任する。貞勝、頼んだぞ!」
「北畠は、甲賀を――何があろうとも守る。そして、必ず豊かにしてみせる。そう、望月に伝えてくれ」
「まずは食糧だ。麦と蕎麦の作付けができるよう、早急に支援を始めよ。次に取りかかるのは焼酎造りだ。土地と人に合った産業を育てていく」
少し声を緩め、最後に冗談めかして言い添える。
「……また側室がひとり増えたな。千代女殿には、側室として迎え入れると、丁重に伝えてくれ」




