33話 北畠の慢心
天文8年(1539年秋)――8歳
北畠の居城、その評定の間。
高い格子天井の裏側に、ひとりの伊賀の忍びが身を潜めている。
この任務、危険極まりない。
北畠は武門の家柄、家臣の多くが一流の武芸者であり、些細な気配の揺らぎでも即座に感知される可能性がある。
(大事な任務だ。気合を入れろ!)
忍びは天井裏に息を殺し、眼下の会話を一言一句聞き漏らすまいと集中する。
下座に並んでいるのは、伊賀から帰参した使者たち――
あれほど横柄に振る舞っていた男たちが、今は額を床に擦りつけたままだ。
声も出せずにいる。
虫けらのように、ひたすら床に貼りついたまま。
上座には、当主・北畠晴具と嫡男・北畠具教が並び、両脇には重臣たちと主だった家臣たちが居並ぶ。
使者だった3人が、嫡男の具教からいきなり怒鳴られ始める。
「忍びごときが詐称している伊賀守を相手に、何を手間取っておるのだ!」
「伊賀守などと名乗る小僧の首に縄をかけて、この評定の間に引きずって来れなかったは、なぜじゃ!」
「たかが下賤なる忍び、小僧の首一つ取ってくることもできぬのか、この役立たずめが!」
怒声が、天井裏まで鋭く突き上がってくる。
具教が、顔を紅潮させ、拳を握り締めて詰問していた。
3人はひれ伏し、かすかに震えながらひたすら許しを請う姿勢を崩さない。
その怒りを制するように、当主・北畠晴具がゆっくりと口を開いた。
「まあ良い……来年の田植えが終われば、伊賀に攻め込む」
評定の間が静まり返る。
「伊賀は銭を溜め込んでいるという噂がある。戦の費用は堺の商人どもから借り受けろ。担保は伊賀の銭じゃ。奴らも鼻を利かせて乗ってくるに違いない」
「それから……長野家と関家にも声をかけておけ。“おこぼれに預かりたければ参陣せよ”――そう伝えるのだ」
晴具の目は、すでに伊賀を獲物として見据えている。
「今回の戦に、何か意見のある者はおるか?」
凍りついたような沈黙が、間を包む。
(家臣ども……評定の場だというのに、誰一人として意見を述べようとせん)
晴具は、静まり返る間を見渡しながら、内心でつぶやいた。
(……やはり、これまでもすべて儂が決めてきたからか)
否――当主と家臣とは、本来このようなものよ。
命を預け、指示を仰ぎ、それに従う。
迷いなき指揮こそが、家の柱たる当主の務めよ。
(昔からそうであった……儂の父の代も、祖父の代も)
晴具の目は伏せられたままの家臣たちを見下ろす。
1人として顔を上げようとはしない。
命じられれば黙って命を懸ける。それで十分だ。
武家とは昔からそういうものだ。
「何も意見がなければ、戦の割り振りを始める!」
「殿! 拙者に先陣をお任せくだされ! 命を懸けて、敵の首、必ずや討ち取ってまいりまする!」
家臣たちが、ここぞとばかりに喚き始める。
命を賭けて――とは勇ましいのう。ありがたくはあるがの……
だが、策を具申する者は誰もおらぬな。策が失敗した時の責任を恐れておるのかな。
儂が決めれば、自分たちの落ち度にはならんからな。
(この評定の光景……昔から変わらぬな……)
しかし、自分の頭で考えぬ家臣ばかりじゃな。
いや、考えぬとも良い。今まで通りでよい。
これからも同じことを繰り返していけばよいのじゃ。
……評定が終わったようだな。早く伊賀に戻って報告せねば……
***
俺は、北畠の評定を見張っていた“忍者調査隊”から、報告を受けているところだ。
「危険な仕事、ご苦労であった」
手元の銭を褒美に渡す。
「命懸けの仕事、本当によくやってくれた」と再度労をねぎらうことも忘れない。
報告によれば――
評定の場では、献策するものもおらず。
戦の割り振りも、家柄や声の大きな家臣から順に、手柄を立てやすいポジションが与えられたようだ。
(つまり……頭の切れる家臣は1人もいないようだ……)
もし、そういう家臣がいたら――我軍の最大の弱点、“武将を含め、ほぼ全員が初陣”であることを見抜いていただろう。
俺だったらこう攻めるだろう――
竹束を持たせた槍兵に、老練な波状攻撃をかけさせるな。
陣形をあえて変化させ、相手の布陣と気持ちを乱す。
どこかで初陣特有の動揺が起こるはずだ……そこを一気に突く。
つまり、鼻面を引き回して疲れさせ、最後にとどめを刺す――そんなところだ。
忍びの報告から判断するに――
北畠では、上意下達システムが徹底しており、家臣が自らの考えを具申することはできないようだ。
北畠は、何よりもまず、武将1人ひとりの武術の練度を高めることに力を入れてきた。
槍や刀の腕を磨けば、その分だけ戦で優位に立てる――そう信じ、そのやり方ひと筋で長年、数々の戦場を勝ち抜いてきたというわけだ。
そして、そうした“成功体験”は、そう簡単に手放せるものではない。
今回も、きっと同じ戦法を踏襲してくるだろう。
だが、そのやり方は銃を主力とする軍勢には通用しない。
なぜなら、銃は“槍や刀で戦う間合い”の外から攻撃する武器だからだ。
頭の切れる家臣を多数従え、奇策や良策を駆使して戦に挑まれる――それが一番厄介なのだが……。
評定の様子を聞くかぎり、どうやら“上意下達システム”を継続してくれているらしい。ありがたいね。
少なくとも、その手の面倒な展開にはならなそうだ。
“忍者調査隊”による報告から、北畠の実情がいろいろわかる。
情報って大事だね。“忍者調査隊”ありがとう。




