159話 信玄、激怒する
天文15年(1546年 秋)――15歳
美濃で斎藤家との合流することを目指し、信玄は甲斐の兵を従えて堂々の出陣だ。
武田軍が甲斐を発ち、信濃へと進軍していく。
その様子を、山深くからじっと見つめる影があった。
武田家に仕える忍び――“武田忍者”たちである。
主力軍が甲斐を離れたことを確認した瞬間、3名の忍者が音もなく立ち上がる。
空気が張り詰める中、彼らは大急ぎで走り出す。
目指すは……躑躅ヶ崎館を見下ろす位置に潜伏している甲賀特殊部隊の陣である。
森の奥深く、息を殺して潜む400人の影。
その中心で指揮を執るのは、望月出雲守。
忍者たちは荒い息も整えぬまま、出雲守の前にひざまずき、報告を告げる。
「武田軍が甲斐を出ました。あと2日もすれば、躑躅ヶ崎館を攻める頃合いとなりましょう。我らは引き続き武田軍を監視し、異変があれば随時お知らせいたします」
「ご苦労であった。引き続き頼む」
そして──2日目の夜。
甲賀特殊部隊400人が、ついに動き出す。
案内役は武田忍者たち。
躑躅ヶ崎館の構造は、武田忍者たちの頭に刻み込まれていた。
彼らの手引きにより、厳重に閉ざされていたはずの城門は、驚くほどあっさりと開かれる。
甲賀兵たちは足音を忍ばせ、闇に溶けるように館へと進軍。
要所を警備していた武将たちは、クロスボウの一撃で、静かに息を絶つ。
しかし、館の奥へ進むにつれて警護の兵が増え始める。
もはや隠密行動の限界と判断し、拳銃と榴弾の使用を命じた。
パァン! パァン!
ズドーン! ズドーン!
夜闇の中、火花が閃き、爆音が館の静寂を引き裂く。
「時間をかけるな」
「一族に逃げる時間を与えるな」
緊迫した命令が飛び交う中、甲賀兵たちは電光石火の動きで武田の武将たちを打ち倒していく。
剣技に秀でたはずの武田の兵も、銃と榴弾の前には抗う術がなかった。
廊下に、庭に、次々と倒れる家臣たち――
そして一刻もかからぬうちに、
武田の一族は、ひとり残らず始末された。
その夜、躑躅ヶ崎館は、深紅に染まった。
武田忍者が躑躅ヶ崎館に火をかけていく。
そのとき、生き残った2人の武将が、信玄に事態を知らせるべく馬で飛び出していった。
望月は、その2人に軽傷を負わせるよう特殊部隊に命じる。
この2人が命からがら信玄に知らせた方が、報告の信憑性が増すと考えたからだ。
また信州にいる武田忍者には、頃合いを見て「躑躅ヶ崎館が制圧され、武田の一族が皆殺しにされた」という噂を信濃中に流すよう指示を出しておいた。
この噂により信濃は大混乱に陥るだろう。
慌てて美濃から引き上げてくるだろう信玄を、混乱に乗じて、信濃で誰かが討ってくれればありがたい。
望月は“躑躅ヶ崎館制圧の成功を知らせる文”を武田忍者の腕利きによる“忍者特別速達便”に託し、一刻も早く信長の元へ届けるよう命じた。
これは極めて重要な報せだ──。
制圧を終えた甲賀特殊部隊も尾張に向かう。
北畠軍と合流して次の任務に当たるのだ。
***
斎藤・武田連合軍と北畠軍は木曽川を挟んで対峙していた。
両軍とも、互いに睨み合いを続けている。
信長は、“躑躅ヶ崎館制圧の吉報”を待っており、信玄は“今川・松平連合軍による尾張侵攻の吉報”を待っている。吉報が届いた方に勝利がもたらされるのだ。
信玄は自信たっぷりに、敵陣を余裕の表情で眺めていた。傍目には泰然自若に見えるだろう。
信玄の関心はすでに戦そのものから離れていた。
彼の目は、戦後に武田家が得ることになる莫大な銭と豊かな領地に向けられていた。
斎藤道三もまた、戦後に得る肥沃な尾張の領地に想いを馳せていた。
だが、道三には別の思惑もある。
──長島一向宗の件で味わわされた屈辱が今なお癒えず、怒りを燃やしていた。
『北畠の野郎……一向宗の件ではよくも恥をかかせてくれたな。降伏しても許されると思うなよ。一族全員、八つ裂きにしてやる。楽に死ねると思うなよ!』
復讐に燃えていたのだ。
勝利を確信しきっていた斎藤・武田連合軍だったが──そこに、突如として飛び込んできたのは――
「義元の敗死」
「武田一族の全滅」
「躑躅ヶ崎館の焼失」
――という衝撃的な知らせだった。
信玄は、命からがら帰還した武将たちを前に、今にも斬りかかりそうな剣幕で激怒していた。
その目は血走り、顔は鬼のごとく歪み、怒声は館中に響き渡る。
「貴様ら……それでも武田の将かぁぁっ!」
一歩でも近づけば斬られる――
誰もがそう確信するほどの凄まじい気迫であった。




