138話 土下座と、信長の決断
天文15年(1546年 春)15歳
信行がそんな状態になれば、当然のように矛先は信秀さんに向かう――
「バカかよ! バカだろ!」
「信長を外すとか、完全に判断ミスじゃね?」
「おかげでグダグダじゃん、この貧乏神野郎!」
「てか、お前が尾張から出ていけば良かったんじゃね!」
――とまあ、心ないツッコミがあちこちで飛び交う始末。
しかも、そうした声は家臣たちだけにとどまらなかった。
ついには、織田一族の中からも同じような不満が囁かれるようになり――
信秀さんは、まさに四面楚歌の状態に追い込まれていた。
そして――
「なぜ……こんなことに……」
「失敗だ……完全な失策だ……」
「俺は……なんて愚かなんだ……!」
と、自責の念に苛まれる日々。
気力はすっかり衰え、急激に老け込んでしまった。
最近では、「髪だけじゃなく歯まで抜けるんじゃないか」と心配される始末だ。
そんな織田家の現状を、“忍者調査隊”から聞かされた信長――
「オヤジも、信行も、一族も、家臣も……何をやっておるのだ!」
「俗物どもが! 愚か者どもがァァァ!!」
怒りのあまり、畳をバンバンバンバン叩き続ける。
(……いや、畳が可哀想だからね)
信長の脳裏に浮かぶのは――
幼くして南近江と伊賀・伊勢を治め、さらには“蝦夷国”という新たな国まで打ち立てた、あの“玄武王”の姿だった。
信長を本当に理解してくれたのは、あの男だけだった。
「話にもならん……織田家は、これからどうするつもりだ……」
「追い出したこの俺に、心配されるようじゃ……もう末期だぞ……」
最近、織田家からやたらと文を届くようになった。
信秀からの文に目を通せば、要するに――
「すまん、信長……俺がバカでした……」
「頼む……織田家を助けてくれ……」
「怒っているなら、何度でも謝る……」
といった感じの “超・ごめんねモード”の内容。
しかも、それが長文。ひたすら長文。くどくど長い。
さすがにここまで来ると、これまで鬱積していた怒りも、だんだんどうでもよくなってくる。
……が、さらに追い打ち。
かつて信長を“大うつけ”と罵りまくっていた、弟・信行や、母・土田御前からも似たような文が届く。
「信長様、お願いです、助けてくださいませ……」
……(なんだこれは……)
「織田家は一体どうなっているんだ!」
「バカだろ! 情けない!」
――と、信長は心の中で、何度も、何度も叫ぶ。
「オヤジに捨てられたときには……尾張の一族と家臣、まとめて成敗してやろうかと思ったのだ!」
「それなのに、その俺に“可哀想”とか思われて……悔しくないのか!?」
「こんな茶番しかできないのなら、織田家なんて今川や斎藤にパクリと飲み込まれて終わりになるぞ!」
怒りが抑えきれず、つい声を荒らげる。
すると、横にいた千世が、落ち着いた声でそっと語りかけてきた――
「貴方様……過去にいろいろとあったことは存じております」
「もちろん、簡単に許せるものではないでしょう」
「でも……怒るだけ怒って、気持ちが少し落ち着いたなら、織田家を助けて差し上げてはいかがですか?」
千世には、これまでのことも、俺が抱えてきた悔しさも、すべて話してある。
だからこそ、彼女の言葉は静かに胸に響く。
――畳を何度も叩いたあと、ようやく言葉をしぼり出す。
「……情けなさすぎだ……オヤジも、母も、弟も……」
「でも……助けてやるよ!」
「尾張から“織田”の名前が消えるところなんて、見たくもないからな!」
そう言ったとき、千世がそっと俺の手を握ってくれていた。
――ありがとう、千世。
その後、信長は信秀宛に返文を送る。
「会見を受け入れる」――と。
ここは長島城の評定の間。
上座に座る俺の前で、信秀、信行、土田御前、そして織田家の家臣たちが、ずらりと並び、一斉に頭を垂れている。
――信長の心には、もはや怒りはない。
あれだけ叫び、畳を叩き、歯ぎしりした俺だったが……今は冷静だ。
千世が、何日もかけて根気よく愚痴を聞いてくれて、怒りの毒をすっかり抜いてくれたからな。
自然と口をついて出た言葉も、思いのほか柔らかい。
「全員がそろって、のこのこと俺のもとへ……。その間に尾張が攻められたら、どうするつもりだったのだ?」
その一言で、一同がピクリと身を固くする。
だが、俺の口調は終始穏やかだった。
すでに心は決まっている。こいつらを――助けてやる。
戦国の世に“情け”も“可哀想だから”も必要ない。
あるのは、殺すか、殺されるか。
……なのに俺は、 “助けてやろう”と思ってる。
(まさか、お人好しになってしまったのか?)
信長が少しばかり心の中で自嘲していたそのとき、斜め前に控えていた勘助が口を開いた。
「皆さまお揃いのようですが、本日のご用向きを……お伺いいたしましょう」
場の空気がピンと張りつめる中――
信秀が、意を決した顔で前に出る。
「尾張の所領も、家臣も、一切合切……北畠信長殿にお譲りいたします。どうか、織田を……助けていただきたい」
それに合わせて、織田の家臣たちが一斉に頭を深く垂れた。
……俺を追い出したときもずいぶん軽かったが、
まさか、織田家のすべてをこんなにあっさり差し出すとはな。
「北畠家では“家臣に土地の領有をさせず、役職と仕事に見合った俸禄を銭で払う仕組み”を導入している」
「個別の領地を各領主の裁量で経営させるよりも、国全体で方針を決めて銭と人材を集中投下し、産品を作り出したり、それを運ぶための道や倉庫を建設したり、河川を改修する方が国を豊かにできるのだ」
「結果は、今の北畠を見れば一目瞭然だ。たぶん、日の本で最も裕福な大名だ。国が豊かになれば家臣の禄も増える」
「効率よく国内に銭を回すには、当然ながら優秀な文官が多数必要となる。先代はそれを見越して学校まで作り、優秀な文官を自ら育て上げてきた」
俺は少し間を置く。説明を理解してもらうためだ。
俺には説明が短くなる癖があるが、玄武王の真似をするようにしている。長く、わかりやすく説明し、途中に“考える間”を入れる。それが効果的だと、最近わかってきた。
「分かるか? 先代の考えの秀逸さが。個々の領主が少ない銭で狭い領地を経営しても、どうにもならんのは自明のことだろう」
「国の持つ銭を集中投下して、売れる産品を開発する。産品を運ぶための街道や港を整える。販売も国が経営する商店にさせる」
「こうすることで、米の石高が100でも、実質的には300、400にもできる。だから国が豊かになる。民も豊かになる。幸せになった民は命がけで国を守ろうとする。だから強い兵が持てるのだ」
『我々とはまったく考えが違う……』
――織田家の者たちは、頭を下げたままそう思っている。
「皆に、少し考える時間を与える。よく考えろ。考えた上で、臣従するかどうかを決めてくれ。俺は――どちらでも構わん」
集まった家臣や一族たちは、真剣に考え始める。
“北畠に臣従することが得か損か”――それぞれの立場で損得を天秤にかけ始める。
だが、答えは一つしかなかった。
――『こんな国と戦をして勝てるわけがない』
それが、織田家全員が出した結論だった。
信秀が家臣たちを見回す。
「……良いな? 皆の者」
誰一人として否とは言わない。静かに、しかし確かな意思がそこにあった。
「我ら、心より信長様に従います。尾張の地も、どうか豊かにしていただけますよう――お願い申し上げます」
全員が深々と頭を下げる。
勘助も、北畠の家臣たちも、誇らしげな表情を浮かべている。
こうして尾張南部は、正式に北畠家の版図となった。
その後の展開は早かった。
わずか一年とかからず、尾張全土が北畠の手に落ちたのだ。
――さすが信長。英傑は違うね。




