1話 プロローグ
なぜ結婚していないのかって?
……それは、“研究”が俺の彼女だったからだ。
面白すぎて、気づけば泥沼。いつの間にか抜け出すタイミングを完全に見失っていた。
そのぶん、実績はそこそこ積めたし、研究でメシも食えている。
だからまあ、悪くない人生だと思ってる。
趣味は、ジャンルを問わず「気になったことを調べること」。
おかげで頭の中は、ちょっとした雑学の宝庫みたいになってる。
でもな、その“どうでもいい知識”が、ふとした瞬間に研究のヒントになることがある。
だから、今日も俺はせっせと“くだらないこと”を調べ続ける。
――たぶん、研究職には向いてる性分なんだろうな。
我ながら、よく覚えてると思う。記憶力にはちょっとした自信がある。
だから今、俺の脳内は“どうでもいい知識”でパンパンだ。
ただ、この頭の中に詰め込んだ情報も、俺という器が壊れたら一瞬で消えるんだよな。そう考えると……なんだか、もったいない気もする。
そんなことをぼんやり思いながら、駅前の大通りを眺めていた。
中学生くらいの子どもたちが、笑いながら通り過ぎていく。
平和そのものの風景。――の、はずだった。
ただ、一人だけ、明らかに様子のおかしい男がいた。
……あれは……何だ? 歩き方が異様に不自然だ。
(薬か? いや、まさか……)
その不安は、次の瞬間、現実となった。
男が突然ナイフを抜き、振り回し始めたのだ。
叫び声。悲鳴。数人が斬られ、地面に崩れ落ちる。
目の前で広がる、現実離れした地獄絵図。
俺には合気道の経験がある。
けど、相手はラリってる。理性ゼロ、まるでゾンビだ。
さすがに荷が重い――そう思った、その時。
男の標的が変わった。
若い母親と、その手を握る、小さな子どもに。
(やめろ……そっちに行くな)
気づけば、体が勝手に動いていた。
考えるより先に、俺は男に向かって走っていた。
ナイフを持つ手首を右手で掴む。
あとは左腕で首を引っかけて倒すか、右ひじを極めるか――
だが、ゾンビパワー恐るべし。
掴んだ手が、するりと抜けた。
(子どもが――)
もう技術とか関係ない。
俺は右腕で奴の首を締め上げ、思い切り地面に叩きつけた。
ドスンッ!
奴の動きが止まる。いけた、か?
母子は無事か? 安堵しかけたその瞬間。
ズキン、と腹に鋭い痛み。
ナイフが――突き刺さっていた。
(え……マジかよ)
血が溢れる。足が動かない。地面が遠い。
(こんな最期、アリかよ……)
泣き叫ぶ母親と子どもが、視界の端に見える。
声が聞こえない。世界が遠ざかっていく。
終わりだ。
……でもまあ、人助けで死ぬなら、悪くない。
家族もいないし、カッコ悪い死に方でもない。
さすがに天国には行けるだろ。
そんなことを、ぼんやり考えながら――
俺の意識は、静かに闇に沈んだ。




