Fランクの英雄
ゴブリンの脅威が去ったアストリアの街は、夜明けの太陽に照らされ、歓喜に沸いていた。
俺たちが街へと続く街道に姿を現すより先に、その熱狂は地響きとなって俺たちの元まで届いていた。そして、街の門が見えた瞬間、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
街道の両脇を、老若男女問わず、街の民が埋め尽くしていた。彼らから、惜しみない称賛と感謝の言葉が、まるで祝福のシャワーのように降り注いだ。
「英雄の凱旋だ!」
「ありがとう! あんたたちのおかげで、俺たちの家族は救われた!」
「Fランクの新人だと!? とんでもねえ英雄様じゃねえか!」
討伐隊の中心を歩く俺とリリアナに、人々は花を投げ、力強くその手を握りしめてくる。鍛冶屋の親父が、煤だらけの手で涙を拭いながらサムズアップを送ってくる。母親が、小さな子供を肩車させ、俺たちを指差している。
つい先日まで、俺たちを「ひよっこ」と侮り、嘲笑していた人々だ。だが今、その視線に侮蔑の色はどこにもない。そこにあるのは、純粋で、どこまでも温かい尊敬と感謝だけだった。
「……すごい」
隣を歩くリリアナが、呆然と呟く。
彼女は、目の前で起きていることが信じられない、というように、ただただ圧倒されていた。無理もない。『落ちこぼれ』『騎士の家系の恥晒し』――そう呼ばれ続け、誰からも期待されずに生きてきた彼女にとって、この光景はあまりにも現実離れしていた。
やがて、リリアナの大きな瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
それは、悔し涙でも、悲しみの涙でもない。生まれて初めて知った、温かい承認の涙だった。
一粒こぼれた涙は、堰を切ったように次々と溢れ出し、彼女の頬を伝っていく。それは、これまでの人生で受けた全ての冷たい仕打ちを、洗い流していくかのような、浄化の涙だった。
(――よかったな、リリアナ)
俺は、彼女の肩をそっと叩いた。
彼女こそが、この物語の主役だ。俺は、最高の舞台を用意したに過ぎない。
これが、俺たちの物語が、初めてこの街で認められた、記念すべきクライマックスだ。
俺の視界の端では、《神々のインターフェイス》が、この感動的な光景を祝福するように、神々からの温かいコメントで埋め尽くされていた。
《名もなき神》うおおおお! 泣ける;;
《名もなき神》リリアナちゃん、本当に良かったね!
《名もなき神》これだよこれ! 俺たちが見たかったのは!
その称賛の嵐を見ながら、俺は静かに、しかし力強く、拳を握りしめた。
*
街の熱狂が最高潮に達する中、俺たちは冒険者ギルドへと凱旋した。
ホールでは、ギルドマスター直々の戦果報告会が、今まさに始まろうとしていた。
壇上には、ギルドマスターと、討伐隊のリーダーであるボルガが立っている。
ホールを埋め尽くした冒険者たちの誰もが、ボルガがこの手柄を独占するのだろうと、固唾を飲んでその一挙手一投足を見守っていた。
だが、ボルガの取った行動は、その場にいた全員の予想を、根底から覆すものだった。
彼は、ギルドマスターの隣を通り過ぎ、壇上の最前列に立つ俺とリリアナの前に、無言で進み出たのだ。
そして、次の瞬間。
あの、誰よりもプライドが高く、傲慢だったはずの男が、その場にごつんと膝をつき、深く、深く頭を下げた。
「――俺が、間違っていた」
絞り出すような、だが、ホールにいる全員の耳に届く、魂の叫びだった。
ボルガは、顔を上げぬまま、己の罪を告白するように語り始めた。
自分がいかに慢心し、二人を侮っていたか。自分たちが苦戦する中、二人がいかにしてリーダーを討ち取り、戦況を覆したか。
その報告に、冒険者たちの間にどよめきが広がっていく。
そして、ボルガは顔を上げ、壇上のギルドマスターに向かって、その声を魔法で増幅させながら、高らかに宣言した。
「ギルドマスター! この度のゴブリン討伐、その最大の功労者は、この俺でも、Cランクの冒険者たちでもない!」
「――この二人! Fランクのひよっこだと俺が見下していた、ユウキとリリアナだ!」
その言葉は、もはや疑う余地のない、絶対的な真実として、全ての冒険者の胸に刻み込まれた。
*
ボルガの魂の叫びが、静まり返ったホールにこだまする。
全ての冒険者が、息をすることすら忘れ、壇上の一点を見つめていた。
沈黙を破ったのは、壇上の中央に立つギルドマスターだった。
彼は、深く頭を下げたままのボルガの肩にそっと手を置くと、その勇気を称えるように頷き、威厳に満ちた声で告げた。
「……顔を上げろ、ボルガ。己の非を認め、真実を語る勇気、見事だった」
そして、ギルドマスターは俺とリリアナへと向き直る。
その厳しい目が、俺たちの功績を値踏みするように、じっと見据えていた。
やがて、彼はホールにいる全ての冒険者に聞こえるよう、その声を響かせた。
「――これより、ギルドマスターの名において、前代未聞の裁定を下す!」
ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
「Fランク冒険者、ユウキ、並びにリリアナ。両名は、ゴブリンの脅威からアストリアの街を救った最大の功労者である!」
「よって、両名のランクを、E、Dを飛び越え――本日ただ今をもって、Cランクへと昇格させるものとする!」
一瞬の沈黙の後、ホールは沸騰したかのような熱狂に包まれた。
「に、二階級特進だと!?」
「前代未聞だ……! FからCなんて、聞いたことがねえ!」
「だが、奴らの功績を考えれば……当然か!」
驚愕は、やがて納得へ、そして万雷の喝采へと変わっていく。
ギルドマスターは、さらに巨大な革袋を俺たちの前に差し出した。中からは、金貨が擦れ合う、心地よくも重い音が聞こえる。
「これは、街を救った英雄への、ささやかな礼だ。受け取れい」
莫大な報奨金。Cランクへの昇格。
昨日までの俺たちでは、到底考えられなかった栄誉。
隣を見ると、リリアナが信じられないというように、ただただ震えながら、溢れそうになる涙を必死にこらえていた。
そして、俺の視界の端では、《神々のインターフェイス》が、このカタルシスを祝福する神々のコメントで埋め尽くされていた。
《名もなき神》ざまぁ展開からの成り上がり! 最高かよ!
《名もなき神》これぞ神回! チャンネル登録余裕でした!
《名もなき神》鳥肌立ったわ……!
画面に表示されたチャンネル登録者数は、凄まじい勢いで増加し、あっという間に300人を超えていた。
俺は、静かに拳を握りしめる。
これが、俺たちのやり方だ。
ただ強いだけじゃない。人の心を、神々の心すらも熱狂させる「物語」を紡ぐ。
そうして俺たちは、テッペンへと続く階段を、また一つ、確かに駆け上がったのだ。
*
万雷の喝采と熱狂が、ようやく心地よい余韻へと変わり始めた頃。
俺とリリアナは、祝いの言葉をかけてくれる冒険者たちに、ようやく解放されたところだった。
「――よう」
不意に、背後から無骨な声がかけられる。
振り返ると、そこに立っていたのは、Cランク冒険者のボルガだった。
仲間であろう、同じパーティの男たちを伴っている。
「ボルガ……さん」
リリアナが、緊張した面持ちで彼の名前を呼ぶ。
俺も、咄嗟に身構えた。何を言われるか、分かったものじゃない。
だが、ボルガの顔に、以前のような侮蔑の色はなかった。
彼はまっすぐに俺たちの前に進み出ると、これ以上ないというほど、深く、深く頭を下げた。
「……本当に、悪かった」
絞り出すような、だが、心の底からの謝罪の言葉だった。
「俺は、お前たちを『ひよっこ』だと見下していた。自分の物差しでしか、他人を測れねえ、ただの石頭だった。……すまなかった」
そう言うと、ボルガはごつい右手を、俺たちの前に差し出した。握手を求めているのだ。
その目には、一点の曇りもない。プライドも、見栄も、全てを捨て去った、一人の冒険者としての、まっすぐな目だった。
俺は、迷わずそのごつい手を強く握り返した。
戦士の覚悟が、硬い皮膚を通してずしりと伝わってくる。
「ああ。あんたの覚悟、確かに受け取った」
固い握手を交わした後、ボルガは顔を上げ、どこか吹切れたような、挑戦的な笑みを浮かべた。
「だがな、勘違いするんじゃねえぞ。これで終わりじゃねえ」
彼は、俺とリリアナを交互に指差す。
「お前らは、もう俺の『ひよっこ』じゃねえ。俺が追いかけるべき、『目標』だ」
「いつか必ず、お前たちを超えてみせる。それまで、誰にも負けんじゃねえぞ」
そう言い残し、ボルガは仲間たちと共に、背中で語るように去っていった。
その背中は、俺たちが知るどの冒険者よりも、大きく、気高く見えた。
嵐のような一日が、終わろうとしている。
俺たちは、アストリアでの確固たる名声を手に入れた。
そして、ボルガという、好敵手も。
だが、俺たちの視線の先にあるのは、もっと遥か高みだ。
あの『遠見盤』に映し出された、絶対的な巨星。
「――行こう、リリアナ」
「はい!」
打倒、雷帝ゼノン。 その遥かなる頂を目指して、俺たちの本当の物語が、今、幕を開けた。




