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どんでん返し系異世界譚・ソレイユ王国シリーズ

そんな男、くれてやりますわ

作者: Anonyme

挿絵(By みてみん)


「南の国の“巫女姫”には、不思議な力がありました。彼女の傍らにはいつも、血のように“赤い大きな宝石”が——。それを慈しめば、願いが叶う」


幼い頃、母は私を寝かしつけながら、何度もそう語ってくれた。

「あなたは“巫女姫”の娘なのだから……必ず、幸せになれるわ」


だから私は、辛い時にはその言葉を思い出す。——いつか必ず幸せになれると信じて。


* * *


私は、ヴィオレット・ド・シャルモン。子爵家の娘だ。


今から十九年前。私の父と母はある夜会で恋に落ちた。南の国の外交使節団の一員としてソレイユ王国を訪れていた母は、父と出会い、お互いに一目惚れしたのだそうだ。


しかし、“巫女姫”——南の国の王族であった母と子爵の父では身分が釣り合わない。母は駆け落ちも同然に、身一つでこの国にやってきた。


当時の国王であったシャルル陛下は、外交問題を収めるために「友好の証」として南方貿易の条約を締結。我が家は、その恩恵を受けることになった。


* * *


幼い頃の私は、よく温室に忍び込んでは花を眺めていた。ある日、花の間に紛れて昼寝していたら、侍従のセルジュに見つかって——


「お嬢様、泥だらけですよ」

苦笑しながらも、手を差し伸べてくれた。その手はまだ子供らしさが残っていたが、不思議なほどに温かかった。私を見つめる瞳はまるで太陽のように、柔らかくきらきらと輝いていた。


お母様が、どこかから見つけてきた彼は、いつも私の味方だった。私の逃げ場所には、いつも彼がいた。


* * *


その日は——私の十七歳の誕生日だった。そして、人生最悪の一日でもあった。


甘い香りと湿った空気が、肌にまとわりつく。色鮮やかなプルメリアが咲き乱れる温室——そこが今の私にとって唯一の避難所だった。


「はあ……あのクズ男とバカ女、相変わらずいらつくわ!」

ベンチに腰掛けると、抑えていた本音が漏れる。


「……お嬢様は、相変わらず口が悪いですね」


からかうような口調で、セルジュが咎めてくる。


「いいでしょ。誰も聞いてないんだから。愚痴ぐらい言わないとやってられないわよ。さっき廊下ですれ違ったときもあいつら、私を馬鹿にしながらいちゃついてたのよ」


「まあ、あのお二人のなさりようは目に余りますが……」

セルジュは後ろにくくった栗色の髪を弄びながら答えた。その赤い目は、いたずら気に揺れている。


昨年、お母様が亡くなってから、私を取り巻く状況は一変した。


葬儀が終わるとすぐに——父は愛人とその娘を屋敷に迎えた。


あんなに愛し合って結婚したはずなのに、この国の貴族社会に馴染めなかった母と、父の距離はだんだんと離れて行った。それは分かっていた。……だけどまさか、愛人だけでなく子供までいるなんて。


この家はあっという間に義母と妹に支配されてしまった。父は何も言わなかった。


そして、私の婚約者であるはずのジュール・ド・モルネまで、なぜか妹のカミーユと親しくし始めた。


呼んでもないのに、いつの間にか我が家に入りびたっては、カミーユと身を寄せ合い、こちらを指差してはクスクスと笑っている。本当に礼儀を知らない奴らだ。


(……今に見てなさい!いつか、見返してやるんだから!)


だけど、どうしていいかは今の私にはまだわからなかった。


そんな時——私はいつも、母の形見の……赤い宝石が埋め込まれたペンダントを握りしめ、ひたすらに耐える。この家で、表立って文句を言おうものなら、袋叩きにあうのだから。


「まあ、あんなくだらない男はどうでもいいのよ。私はただ——母譲りのこの容姿を馬鹿にされたり……何でもカミーユに奪われてしまったりするのが許せないだけ」


セルジュは複雑そうな顔をこちらに向けた。彼のように——愚痴の言える相手がいなければ、私はとっくに壊れていたかもしれない。時折、私の口調を注意することはあるものの、彼は私の話を受け止めてくれていた。


浅黒い肌に、艶やかな黒髪は南の国ならではの特長だ。私はそれを色濃く受け継いで生まれた。


美しい母に似ていることは私の誇りだったが——どうやら、色の白さを美しさと呼ぶ我が国において、多くの人間にとっては、私の容姿は「好ましくない」もののようだった。


* * *


「カミーユは本当に綺麗だね。その透けるような白い肌——まるで君の心の美しさを表しているみたいだ。……誰かさんと違ってね」


「その紫のドレスも、髪飾りも——お姉様よりも私の方が似合うわ。もらってあげるわね」


「そうだな、美しい色は君にこそ似合うよ、カミーユ」


「ふふ、ジュールさまったら」


温室を出て庭園を抜けると、うっかり二人に遭遇した。東屋で簡単な茶会を行なっていたようだ。きっとまた、妹の侍女たちが部屋にやってきて……このドレスも、髪飾りも取られてしまう。


(そろそろ、着るものもなくなりそうね)


カミーユは私とは正反対の容姿だ。白い肌に金髪は、この国で好まれる象徴的な美貌。クズ男は随分とご執心なようだ。でも、腰を抱きよせられ、婉然と笑う彼女は、私にはまるで娼婦みたいに見えた。


婚約者の前で……いや、婚約者同士だとしても眉をひそめる距離感だ。可憐な顔立ちとは裏腹に、とても年若い少女には見えなかった。


無言で立ち去ろうとすると、なぜか引き止められる。


「——お姉様。そのペンダントも、わたしの方が似合うわね?……それって、最近人気の南方由来の宝石でしょう」


「ああ、“朱煌玉”だな。その大きさは滅多に見ない。ヴィオレットには、贅沢すぎるよ」


ジュールの言葉に、カミーユの目が怪しく光った。そのままこちらに手を伸ばそうとする。


私は思わず後ずさり、ペンダントをきつく握りしめた。


(この女……なんて卑しいの!?)


「……これはお母様の形見よ」

私は胸元を押さえ、息を荒くした。


「絶対に……渡さないわ」


それだけ言い放つと、カミーユを睨みつける。彼女は、しばらくこちらを睨み返していたが……。


「……うっ」


突然青い顔をして、口元を押さえた。


「……どうしたんだ、カミーユ!大丈夫か?」


ジュールは彼女の背中をさすり、心配そうに覗き込んだ。


「……ごめんなさい。でも……身の程知らずのお姉様を見ていたら、気分が悪くなってしまって」


カミーユは吐き気をこらえているように見えたが、そんなことで気分が悪くなるはずもない。まるで、女優のような巧みな演技に驚いた。


「おい!ヴィオレット、お前のせいでカミーユは具合が悪くなったんだぞ。さっさと、その石を渡せ!」


ジュールは無茶苦茶な理論でこちらを罵倒してきた。


(一体、何の茶番に付き合わされているのかしら)


馬鹿馬鹿しくなってきた私は、そのまま踵を返す。後ろでまだ何かジュールが喚いていたが、聞こえないふりをした。


セルジュは黙って着いてきていたが、何か考え込んでいる風だった。愚痴りたかった私はタイミングを逃し、行き場のない怒りを抱いたまま、一人で部屋に戻ることになった。


それにしても。


まさか、お母様の形見まで狙うなんて、許しがたい。


……ジュールみたいなクズ、喜んでくれてやる。

ドレスも髪飾りも、くれてやったって構わない。


でも——お母様と私の絆であるこのペンダントだけは、絶対に譲れない。


だけど。


……その夜、湯を浴びている間に、ドレスと髪飾りが消えた。


そして——お母様の形見のペンダントまでも。


胸の奥で、何かがぽきりと折れる音がした。


* * *


泣きじゃくる私の横で、セルジュは何も言わず、静かに膝をついていた。


「まさか、お母様の形見まで奪われるなんて、あの女……。死ねばいいのに」


他に、欲しいものなんて何もなかった。あれだけ、だったのに。


ひとしきり泣き終わると、もう涙は出なくなった。呆然として、ソファにぐったりともたれる。セルジュが「目が腫れないように」と濡らしたハンカチを差し出してくれたが、きっともう遅いだろう。


開け放ったドアの向こう、侍女たちが時々行き来しては、こちらを見て笑っている。もう……あんな奴らはどうでもいい。知ったことか。


その時、すっかり憔悴していた私の耳に、物語の一節が聞こえた。


「彼女の傍らにはいつも、血のように“赤い大きな宝石”が——。それを慈しめば、願いが叶う」


お母様が語ってくれた、あの物語だ。


それは、低すぎず滑らかな——セルジュの声だった。


「あなたは“巫女姫”の娘なのだから。必ず、幸せになれる」


彼は、私が寝かしつけられる時も、お母様の横に侍っていた。だから、覚えていたのだろう。


……硬くなった心の芯が、少しだけ溶けた気がした。


——そこから先は、お母様の言葉ではなくセルジュ自身の言葉だった。


「……“巫女姫”様の娘のあなたにも、何か特別な力があるかもしれません。……ご自分を、信じてください」


その時の私には、彼の言葉の意味は全くわからなかった。きっと気休めだろう、そう思った。


私が落ち着きを取り戻すと、セルジュはそっと立ち上がって部屋を出て行った。


「どこへ?」と聞く前に、扉は静かに閉じられた。


——あの時の背中が、なぜか決意を帯びていたことだけは覚えている。


* * *


翌朝、朝食のテーブルに着いたとき、カミーユがいたことに驚いた。最近は部屋で食べるとのことで、ここには姿を見せていなかったのに。


そして——その胸元に赤いペンダントが光っているのに気づいた。


全身の血が逆流する。


落ち着いて話そう。そう思ったのに。


「……カミーユ!返しなさい、それは私のよ!!」


気づけば私は、彼女に掴みかかろうとしていた。——だが、あっという間に使用人たちに引きずられ、押さえ付けられる。


カミーユは勝ち誇った顔をしてこちらを見やった。


「ふふ、お姉さまの持っているものは全部私のものよ。ねえ、お母様?」


「そうよ、可愛い妹に譲ってあげるのが姉というものでしょう?大体、いきなり摑みかかろうとするなんて信じられないわ。……“野蛮な血”って怖いわねえ」


(この、クソ親子め)


更に怒りがこみ上げてきたが、拘束されていては何もできない。一縷の望みをかけて、お父様の方を、静かに見つめる。彼は、まるで他人事かのように、一人淡々と食事をしていた。やっぱり、もうだめだ。


(こんな家、いつか出ていってやる……!)


そうは思うものの、口に出す勇気も、行動にうつす勇気もなかった。私は食事もとらずに黙って部屋に戻り、通学の支度を整えた。一刻も早く、この場から離れたい。ただ、それだけだった。


* * *


学園に登校すると、隣の席のルナマリーさまに散々愚痴を言った。彼女は、私を容姿で差別しない数少ない人間なのだ。彼女は相槌を打ちながら、真剣に話を聞いてくれて、最後にこう言った。


「……私では何のお役にも立てませんが、話ならいつでも聞きますので。お一人で悩まないでくださいね」


……彼女は私の手を取り、うなずく。その瞳は、信じられないほど澄んでいた。同じ“ソレイユ風の美人”でもカミーユとは全然違う。


——私が生まれたこの国を、嫌いになりたくなかった。


みんなが差別するわけじゃない。カミーユやジュール、お父様やお義母様みたいなクズばっかりじゃない。ルナマリーさまや、セルジュだっている。


(だから、嫌なことばかり考えるのはやめよう。きっと、いいことだってある)


そう思いながら屋敷に帰った私を——思わぬ驚きが待ち構えていた。


* * *


「これは——一体?」


部屋で着替えを済ませ、ふと文机に目をやった私は息を呑んだ。


そこには——血のような深紅の輝きを放つ、お母様のペンダント。


机の端に、小さな水滴が一つ。窓から差し込む風が、まだそれを揺らしていた。


どうしてここに?まるで不思議な力に導かれたみたい——。


今朝の様子では、カミーユが手放すとはとても思えなかった。なのに、なぜ?


私はふと、お母様のことを思い出した。お母様は十七歳で力に目覚め、“巫女姫”として選ばれたと言っていた。


そして、昨日私は十七歳になった。


(「……“巫女姫”様の娘のあなたにも、何か特別な力があるかもしれません。……ご自身を、信じてください」)


脳裏に、昨夜のセルジュの言葉が響く。


まるで、予言みたいだった。偶然だなんて、思えるはずがない。


(もしかして……私も、“巫女姫”の力に目覚めたの……!?)


湧き起こる幸福な予感に、私の胸は高鳴っていた。


セルジュにも、早速知らせると、面食らった顔をしていた。


「お嬢様に……“巫女姫”様の力が……?」


「そう、私にもあったんだわ、力が。——だから、ペンダントが手元に戻ってきたのよ!このペンダントは、いつも“巫女姫”と共にあるのだから」


セルジュは一瞬だけ眉をひそめ——すぐに笑顔を作った。その大きな瞳がわずかに揺らいでいた。


私は一息つき、改めて告げた。


「だから……これからはきっと願いが叶う。嫌なことなんてなくなるわ。私も——幸せになれる」


そういうと、セルジュは嬉しそうに笑った。

「そうですね。お嬢様はご苦労されましたから……きっと、そうに違いありません」


去っていくセルジュの足取りが、ほんのわずかに不自然だった。——けれど、浮かれていた私は気に留めなかった。


その夜、ベッドに横たわりながら、ふと思った。学園で、いつも私を差別する令嬢を思い返す。


「明日は……嫌味を聞かずに済みますように」


半分は冗談、半分は試すつもりで、ペンダントを胸元に握りしめた。


* * *


翌朝、登校してみると、件の令嬢が珍しく姿を見せなかった。聞けば、実家の用事でしばらく休むのだという。もちろん偶然かもしれない。……けれど、私は心の中で小さく笑った。


「やっぱり——これが“巫女姫”の力ね」


その日、学園から帰ると、温室のプルメリアが目に飛び込んできた。昨日までは花弁がしおれかけていた一輪が、まるで夜のうちに生まれ変わったように瑞々しく開いている。


「……きれいに咲きましたね」

水やりをしていたセルジュが、穏やかに笑みを向ける。


「ええ。……願いは、ちゃんと届くものなのね」


彼は何も言わず、ただ静かにうなずいた。その沈黙が、私の確信をいっそう強めた。


* * *


それから先は、不思議なほど全てが順調だった。カミーユは私を避け、義母の嫌味も形だけになった。奪われたドレスもいつの間にか戻ってきていた。


(力に目覚めれば、願いが叶うのね)


——まさかこの力に代償があるなんて、思ってもいなかったのだ。


* * *


そう言えば、最近セルジュの姿を見ない日が多かった。以前はほとんどずっと私のそばにいたのに。


そんなことを考えていると、身の回りが急にうるさくなった。侍女たちがバタバタと廊下を走り回っている。こんなことは初めてだ。


(何が——起きているの?)


私は走っている次女を呼び止め、確認した。


「ヴィオレット様……カミーユ様が……!!」


それは、カミーユが三階のバルコニーから落下し、意識不明になっているという知らせだった。


(バルコニーから落下…!?)


そんなに、危険な作りではないはずだ。あんなところから、落下するものだろうか?


……その時、私はある言葉を思い出した。


(「まさか、お母様の形見まで奪われるなんて、あの女……。死ねばいいのに」)


体が冷えていくのがわかった。


(私の、この力でカミーユが……?)


いや、あの時はつい口にしたけれど、死んでまで欲しいと思っていたわけじゃない。なのに、どうしよう。ペンダントだって帰ってきたし、私、そんなつもりじゃ……。


震える手で、ベルを鳴らす。


私が不安な時は、いつだってセルジュがそばにいてくれた。彼に会いたい。そうすれば、少しこの震えが収まる気がした。


だけど、いくら待っても彼は来なかった。こんなことは初めてだった。


膝が、ガクガクする。肩がこわばる。心臓が、冷え切って、頭も、回らない。


私、私……


1人で待つことに耐えかね、侍女に声をかけて、セルジュを呼んでもらうことにした。


しかし、帰ってきた侍女の言葉は、信じられないものだった。


「セルジュ様は……衛兵に連れて行かれたそうです。カミーユさまを……バルコニーから突き落としたかどで」


目の前が真っ暗になった。


(セルジュが……カミーユを?)


私の力が原因ではなかったのか。


まさかセルジュが本当にカミーユを突き落としたの?


……彼は、私のためなら何だってする。お義母様とカミーユが屋敷に来たばかりの頃なんて、私を庇おうとして何度も打ち据えられたのを見ていた。だから私は、彼を傷つけたくなくて、自ら理不尽な扱いを受け入れることにしたのだ。


(だとしても、なぜ今更——?)


ここ最近、カミーユの狼藉は鳴りをひそめていたというのに。


(……やっぱり、セルジュは犯人じゃないわ)


この事件の犯人が私なのか、そうでないのかはまだわからない。


だけどもし、私の力だとしたらその時は——


(自首しよう。セルジュを、救うために)


* * *


ともかく、情報を集めるしかない。セルジュを無実の罪から解放するために、私の心は冷静さを取り戻していた。


両親にカミーユの容態を聞くと、お義母様にすごい剣幕で追い返される。


「……お前の侍従がカミーユを!疫病神め!お前が落ちればよかったんだ!」


金切り声だった。興奮のあまり、彼女の顔は赤黒く染まっていた。


(……ここじゃ……情報を得られそうにないわね)


日頃は苛立つはずのお義母様の言葉が、耳の横を通り抜けていく。


私は踵を返すと、廊下を歩き、密かに三階へと向かった。


* * *


件のバルコニーには、誰もいなかった。辺りを見回すと、遠くに兵士の姿が見える。ここを見張っているのかもしれない。


私は身を低くし、こっそりとバルコニーに足を踏み入れた。


夏の日差しが白く床を照らし、磨かれた一角が目に痛いほど輝いていた。足元からは乾いた土の匂いがかすかに上ってくる。


瞬間、違和感が全身を走る。


並んでいたはずの鉢植えの列に、ぽっかりと空いた間隔——まるで何か重いものが、そこから押し出された跡のように見えた。


私はもう少しよく見ようとその場にしゃがみ込み、目を凝らした。


「……っお前……そこでっ……何をしている」


肝が冷えた。心臓を抑え、立ち上がってゆっくりと振り向く。


ジュールだった。はあはあと息をきらしている。まるで、わたしを追いかけてきたみたいだった。異様に汗をかいているのもおかしい。


(……私が嗅ぎ回っていると誰かから聞いて、慌てて来たのかしら?)


「……何か手がかりがないかと思って」

誤魔化してもしょうがない。ありのままを伝えることにした。


「てっ、手がかりだと?……お前の侍従が捕まっただろう!それで——終わりだ!!」


何かがおかしい。やけに焦っている。


その時、私の目に映ったのは。


「——!」


私は思わず、ジュールの腕を掴んだ。


「なっ……?お前一体何を……!?」


彼のシャツの袖口には、茶色い……土が付いていた。


貴族令息の袖に土がつくことなど、万に一つもあるはずがない。


「……あなたが、カミーユを突き落としたのね!」

気づけば叫んでいた。


その瞬間、彼の手が胸元に伸びてきて——ペンダントを引きちぎられ、そのまま手首を掴まれて……手すりに押し付けられる。


「……っ!」


私は呻いた。手首が軋む音がした。


ジュールはそのまま私を押し出そうとする。手すりの向こうへ。


左足が、浮いた。


「——誰か!」


必死に足をばたつかせて抵抗する。しばらく持ちこたえれば、あの兵士が気づいてくれるはずだ……!


「クソ……大人しくしろ!」


(大人しく、殺されろっていうのーー!?冗談じゃないわ、このクズ……!)


「人殺し!助けて!!」


力いっぱいに叫んだ。でも、だめ。もう、両足が浮いた。


せっかく犯人を見つけたのに、私、こんなところでーー


その時だった。

「ヴィオレット様!!」

駆け込んできた兵士が、ジュールを引き剥がし、取り押さえた。


うごめくジュールが漏らす。


「くそ……ようやく“朱煌玉”を手に入れたのに……。これさえあれば……我が家は……弟妹たちは……助かったのに……」


警備の兵たちが集まってきた。ジュールはそのまま、兵に捕らえられ……そのまま連れて行かれた。


捕らえられていくジュールの背を見送りながら、胸の奥に絡みついていた黒い糸が、ひとつずつほどけていくのを感じた。


長い間、喉元に詰まっていた石がようやく消え、肺いっぱいに空気を吸い込む。冷たく強張っていた手が、少しずつ温かさを取り戻していった。


* * *


セルジュは、ジュールとカミーユが揉み合うのを目撃していた。止めようとしたが間に合わず、逆に罪をなすりつけられたらしい。


……侍従の言葉よりも、貴族の言葉が重視される。だからこそ、セルジュの無罪を証明できてよかった。


「お嬢様に助けられましたね。ありがとうございます。……でも、もうこんな危険なことをなさってはいけませんよ」


セルジュは私を注意したけれど、その口元は静かに微笑んでいた。


* * *


カミーユは一命を取り留め、その数日後、意識を取り戻した。あの“セラン家”の腕のいい医師たちに頼めたのがよかったのだろう。


彼女が回復すれば、どうせジュールの罪は暴かれただろうけれど……それにしても逃げられたら意味がないもの。私の手で、捕えられてよかった。


しばらく経ち、カミーユが話せる状態になったと聞いて、私は病室に向かった。初めはお義母様に反対されたが、ある“交換条件”を持ち出すと渋々と受け入れてくれた。


* * *


部屋の空気は薬草の苦い香りで満ちていた。窓辺のカーテンがわずかに揺れ、弱々しい陽射しが彼女の横顔を照らしている。扉は開け放たれ、横には医師が控えていた。


……最後にどうしてもこの事件の真相を確認しておきたかったのだ。カミーユの本音を引き出したかった。だから、セルジュは連れて来ずに待っていてもらうことにした。あの、二人の温室で。


カミーユは少しやつれた様子だった。髪には艶がなく、顔色も悪い。それでも、彼女なりの意地なのか、私を見ると不貞腐れた様子でそっぽを向いた。


「……正直、“ざまあみろ”って思ってるわ。あなたは結局、何も手に入れられなかった。『あんな男、くれてやる』って私はずーっと思ってたのに。結局は裏切られて、殺されそうになるなんて、本当に哀れな女」


これまでのことを思えば、そう言わずにはいられなかった。たとえ相手が怪我人だとしても。


カミーユは弾かれたようにこちらを向き、私を睨みつけた。


「……ジュールは私のこと、殺そうとなんてしてないわ!あれは事故……だったのよ!!」


「あなたがそう思いたいだけでしょう。私も殺されそうになったから分かったの。……あの手すりの高さでは、体を持ち上げないと落とせないのよ。事故であるはずがないわ」


「……」


本当は薄々気づいていたのだろう。彼女は苦しそうに顔を歪めた。


(もう少し、挑発してみようかしら)


私は、本当のことを知りたかった。でも、カミーユが素直に話すとは思えない。“怒り”を引き出せば、あるいは——。


「……男の趣味が悪いと、苦労するわね」


効果は、てきめんだった。


「……お姉さまには分からないわよ!愛され、大切にされているお姉さまには!!」


それは、絶叫だった。


「私が……愛されている、ですって?」


我が家で愛されているのはカミーユの方だったはずだ。私は、最低限令嬢としては扱われたものの、馬鹿にされ、蔑まれ……。


「じゃあ、あの侍従は、いったい何なのよ!……あんたのペンダントを取り返すために、自分の身を顧みず、私を脅しまでするなんて……とても仕事の範疇じゃない。愛以外には、考えられないわ!」


(セルジュが……ペンダントを!?)


あれは“巫女姫”の力では——なかったの?セルジュが、お母様の形見のペンダントを奪い返してくれていたの?それが、愛ゆえだと言うの——?


混乱する私に構わず、カミーユは続けた。


「私には、そんな風に愛してくれる人なんかいなかった!お父様は無関心、お母様は贅沢させてくれるだけ……だからずっと、あんたにムカついてたわ!あんな愛を受け取って、まるで当たり前みたいにしてるんですもの!!」


カミーユの言葉は、まるで悲鳴みたいだった。青白い頬を涙がつたって、布団にいくつも染みを作っていた。


「……ジュールさまだって、私を愛してなんかないって、分かってたわよ!あんたのペンダントを奪うよう、言ってきたんだもの!!」


「まさか——あの男の差し金だったの?」


「……そうよ。まあ、悔しがるあんたの顔を見るのは気分が良かったけれど。……あの侍従さえいなければ、きっと、ジュールさまに褒めてもらえたのに」


勝手な言い分に腹は立ったが、それよりも……。


「……ちょっと待って。あなたがそんなに簡単にペンダントを返したとは思えないわ。大体、脅しって……セルジュは、一体何を?」


カミーユは、ハッとしたような顔で口元を押さえ、長い睫毛を伏せた。そして、観念したかのようにつぶやいた。

「……言われたのよ。私たちの関係を言いふらすって」


「……あなたたちに、隠す気なんてあったかしら」


おかしなことを言う。いつだって人目を憚らずくっついていたのに。


「……私、お腹にジュール様の子供がいたの」


胸の奥が一気に冷えた。庭で吐き気をこらえていた彼女の姿が蘇る。


「あの侍従は、それに気づいたの。……だから脅されたのよ」


貴族令嬢が婚前に子を宿せば、立場は一瞬で潰える。表では強気でも、彼女が世間の噂を恐れているのは知っていた。


「愛されたいだけだったのに……ジュールさまは自分の家のことしか考えてなかった。借金を返すために“朱煌玉”がすぐにでも必要だと、そればかり」


そこにいたのは、泣きじゃくる小さな子供だった。


「だから、あの日、バルコニーで妊娠のことを打ち明けた。そしたら彼、すごい顔をして『終わりだ』って何度も呟いて、私に掴みかかって——そのまま……」


彼女のつぶやきはどんどん小さくなっていった。ただ、その言葉だけははっきりと聞こえた。


「でも、私が落ちる時……あの男、悲しそうな顔をしたの。だから……すべてが嘘だったなんて、私には——どうしても思えない」


私は、しんみりとした雰囲気を断ち切るように告げた。


「……カミーユ。あんな男のことは忘れなさい。どうせ終身刑だわ。もう……会うこともないでしょう」


「……」


彼女は、滂沱の涙を流しながら、私をまっすぐに見つめた。初めて見た、彼女の素顔だった。


「どんな理由があろうと、私はあなたのことを許せない。だけど……可哀想だと思う。だから、せめて祈るわ。……あなたがいつか、誰かに愛されますように」


「……お姉さま」


(どうか、幸せになってちょうだい。私の、いない世界で)


そのまま、振り返ることなく病室を後にした。カミーユ曰く——私を愛しているのだという、侍従のもとへと向かうために。


* * *


温室の扉を開けると、セルジュが振り向いた。いつもと変わらぬ笑顔で。


「……ねえ、セルジュ。あなたがペンダントを取り返したんじゃない!なんで言わなかったの?」


開口一番問い詰めると、セルジュは少しだけ焦った顔をした。


「いえ……純粋無垢なお嬢様の夢を壊したらよくないかな、と。——まさかこの歳になって子供向けのおとぎ物語を信じるほど、だとは思っておりませんでしたが」


「あなた!やっぱり馬鹿にしてるでしょ!」


「いやいや、してませんって!私はお嬢様に忠誠を誓ってますから!」


私は、ため息をつき、セルジュに向き直った。


今日も、プルメリアが美しく咲き誇っている。あの日と同じ香りがする。今日でこの景色ともお別れかと思うと、少し寂しい。


「だったらお願い……セルジュ。一緒に来てくれる?——いいえ、これは命令よ。私についてきなさい。私、諸国を旅することにしたわ。もうこんな家は出て行くの。手始めに、まずお母様の故郷に行こうと思って」


「は……!?」

セルジュは最高に間の抜けた顔をした。


「ジュールには一生、狭い檻の中にいてもらって、私は広い世界に羽ばたく——これが私なりの“復讐”よ。もう、この家にも、この街にも未練はない」


私はそっと息を吐き、笑った。


「執着も、恨みも——そんなもの、くれてやるわ」


だが、清々しい気分に水をさすように、セルジュが言う。


「いやいやいや……その、先立つものもありませんし、無理ですよ。家を出るのも、旅するのも」


「でももう、カミーユと話す交換条件としてお義母様に言っちゃったわ。この家を出ていくって」


「なぜそんな無謀な条件を……」


セルジュは咎めるようなまなざしを向けてくる。


「大丈夫よ。この“朱煌玉”を売れば、余裕で旅して暮らせるでしょう」


「え……そんなに大事にしてたのに、売っちゃうんですか?まさか、“巫女姫”の力がなかったからでしょうか」


「何言ってるの。“巫女姫”の力は確かにあるわ。お母様は本当のことしか言わなかったもの」


彼は、今度こそ、わけがわからないという顔をした。私は、お母様の真似をして繰り返した。


「南の国の“巫女姫”には、不思議な力がありました。彼女の傍らにはいつも、血のように“赤い大きな宝石”が——。それを慈しめば、願いが叶う」


私は、一度言葉を切り、セルジュの瞳を見つめた。その——赤く輝く瞳を。


ふいに、幼い日の温室がよみがえる。花の間で昼寝して泥だらけになった私に、差し伸べられたあの温かい手。彼は、あの日からずっと、変わらなかった。


「私にはわかったわ。お母様が私にくれた——“赤い大きな宝石“は“朱煌玉”のペンダントじゃない」


セルジュの困惑した顔に、つい笑ってしまう。けれど次の瞬間、胸の奥で決意を固めて——


「……“あなた”だったのよ、セルジュ」


そう言うと、彼はその大きな瞳を溢れ落ちそうなほど見開いて、私を見つめ返した。


——そこには確かに、二つの“赤い大きな宝石”が輝いていた。


「“朱煌玉”がなくたって、私は生きていける。でも、あなたがいなければ、何も思うようにならないの。だって、いつも私の望みを叶えてくれるのは、あなたなんですもの」


「お嬢様……」


「だから——私の願いを叶えるために、あなたを愛してもいいかしら?」


セルジュはしばらく凍りついたように動かなかったが、やがてふっと息を漏らし、微笑んだ。


「わかりました、お嬢様」


——そして、ほんの少しだけ、声をやわらげて。


「いえ、私の——“巫女姫”様」



あなたは、このどんでん返し…見抜けましたか?

実は、私は全く見抜けませんでした。

いつも通り、今回もラストのどんでん返しを決めてから書き始めたのですが、ヴィオレットが自由に動き出してしまい……私まで騙されました。

しかも、予定よりも自然な結末になった気がして、ちょっと悔しいです。


でも、その“想定外”が一番のご褒美かもしれませんね。


もし気に入っていただけたら、感想や評価も励みになります。


8/10にイラストを追加しました。

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▼どんでん返し系・異世界譚

「ソレイユ王国シリーズ」よりおすすめ作品

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【新作短編】追放された隣国で、愛に生きていきます。

婚約破棄の果て、隣国で出会った公子と古文書解析の仕事が、エメの新たな扉を開く。

https://ncode.syosetu.com/n3673kz/


【全12話・完結済】結婚できないのは、私のせいですか

婚活三連敗。優良物件のはずの若き公爵・ブノワが結婚できない理由とは、いったい……?

https://ncode.syosetu.com/n5748kw/

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▼シリーズ一覧はこちら

https://ncode.syosetu.com/s2858j/

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