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青、赤らむ

作者: 埴輪庭

 ◆


「一番幸せな時に一緒に死んでくれるなら、付き合ってあげる」


 美咲はそう言って青く微笑んだ。


 青い微笑み、なんて言葉はない。


 でもその時の美咲の微笑みは青かった──としか言い様がない。


 僕の告白への返事がこれだった。


 窓の外では十一月の雨が静かに降り続けている。


 美咲の瞳には深い井戸のような闇があった。


 でもその奥に消えそうな小さな光も見えた。


「……いいよ」


 なぜかそう答えていた。


 常識的に考えれば狂気の沙汰だ。


 でも二十一年間、これといって特別なことのなかった僕の人生に、初めて意味が生まれたような気がした。


 交際が始まると美咲は驚くほど献身的だった。


 朝、研究室に行くと机の上にコーヒーが置いてある。


「苦いの好きでしょ」


 そう言って笑う横顔が、朝日に透けて見えた。


 映画館では必ず僕の左側に座る。


「右耳の方が聞こえやすいから」


 そんな些細なことまで覚えていてくれる。


 カフェでは向かい合わずに隣に座った。


「こっちの方が近いでしょ」


 肩が触れ合う距離で、ミルクティーの湯気が二人の間に立ち上る。


 手を繋いで歩く時、美咲の手は驚くほど冷たかった。


「血圧低いんだ」


 そう言いながら、僕の手をぎゅっと握り返してくる。


 幸せだった。


 間違いなく、人生で一番幸せな時間だった。


 でもその実感が強くなるたびに、あの約束が鉛のように重くのしかかってくる。


 これが「一番」なのか。


 明日はもっと幸せかもしれない。


 来年は。


 十年後は。


 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。


 ある日、美咲の部屋を初めて訪れた。


 本棚には医学書が並んでいる。


「お母さんが看護師だったの」


 過去形で語る彼女の声には、微かな震えがあった。


 アルバムを見せてもらった。


 病院のベッドで痩せ細った女性が、必死に笑顔を作っている写真。


「末期の肺がんだった」


 美咲は淡々と語る。


「最期まで『もっと生きたい』って言ってた」


 彼女の指が、写真の上を撫でた。


「苦しそうだった。でも死ぬのが怖いって」


 僕は何も言えなかった。


「だから私は思ったの」


 美咲が僕を見た。


「一番幸せな時に終われたら、後悔しないんじゃないかって」


 理解できるような、できないような。


 でも彼女の中で、それは確固たる信念になっているのだろう。


 季節は巡り、桜が咲いて散った。


 夏祭りで金魚すくいをした。


 美咲は一匹も取れなくて、悔しそうに頬を膨らませた。


「子供みたい」


 肩をぺちりと叩かれた。


 浴衣姿の彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。


 これが一番だろうか。


 いや、まだだ。


 秋になると、二人で京都に行った。


 紅葉の嵐山を歩きながら、美咲が突然立ち止まる。


「ねえ」


 振り返った彼女の瞳に、紅葉が映り込んでいる。


「今、すごく幸せ」


 心臓が止まりそうになった。


 これが、その時なのか。


「でも」


 美咲は続けた。


「明日はもっと幸せかもしれないよね」


 そう言って、また歩き始める。


 僕は安堵と恐怖の入り混じった感情を抱えたまま、彼女の後を追った。


 冬が来た。


 就職活動が本格化し、お互い忙しくなる。


 それでも週に一度は必ず会った。


「内定もらった」


 美咲が嬉しそうに報告してくる。


 地元の病院だった。


「お母さんみたいになれるかな」


 初めて未来の話をする彼女を見て、僕は希望を感じた。


 もしかしたら、あの約束は単なる一時の気の迷いだったのかもしれない。


 でも、そんな楽観は長く続かなかった。


 卒業を二ヶ月後に控えた二月。


 いつものカフェで、僕は指輪を取り出した。


 安物だけど、バイト代を三ヶ月分貯めて買った。


「美咲」


 声が震える。


「結婚してください」


 美咲は指輪を見つめていた。


 長い沈黙。


 窓の外で、雪が舞い始める。


「……うん」


 小さな声だった。


「ありがとう」


 涙が一粒、テーブルに落ちた。


 指輪をはめる彼女の手が、小刻みに震えている。


「これが」


 美咲が顔を上げた。


「私の一番幸せな時よ」


 背筋が凍った。


 まさか、今なのか。


 ここで終わりなのか。


「美咲……」


「冗談」


 彼女は泣き笑いを浮かべた。


「でも、本当にそう思った」


 僕は彼女の手を握った。


 温かかった。


 生きている証だった。


「違うよ」


 僕は言った。


「これが一番じゃない」


 美咲が目を見開く。


「結婚式の時、もっと幸せだよ」


「子供が生まれたら、もっともっと幸せだ」


「一緒に年を取って、孫ができて」


「毎日が一番を更新していくんだ」


 美咲は黙って聞いていた。


「だから」


 僕は続けた。


「一番なんて、決められない」


「死ぬ時まで分からない」


「いや、死んでも分からないかもしれない」


 美咲の目から、涙がこぼれ続ける。


「ずるい」


 彼女は言った。


「そんなの、ずるいよ」


 でも、その声には安堵が混じっていた。


 雪はいつの間にか止んでいた。


 カフェの窓から、冬の青空が見える。


「じゃあ」


 美咲が言った。


「約束、先延ばしね」


「百年後くらい?」


 僕は笑った。


「二百年後でもいい」


 美咲も笑った。


 本当に幸せそうに。


 それから三年が経った。


 結婚式は小さいけど温かいものだった。


 美咲は今、病院で働いている。


 時々、疲れた顔で帰ってくる。


「今日、患者さんが亡くなった」


 そんな日は黙って抱きしめる。


 彼女はもう死について軽々しく口にしなくなった。


 毎日たくさんの生と死を見ているからだろう。


 昨日、美咲が言った。


「お腹に赤ちゃんがいるの」


 僕たちの一番はまた更新された。


 でもきっとこれも通過点だ。


 この子が生まれて、歩いて、言葉を話して。


 その全てが新しい一番になっていく。


 一番幸せな時は、きっとずっと先にある。


 あるいは永遠に来ないかもしれない。


 今日も美咲は、病院に向かった。


「行ってきます」


 玄関で振り返る美咲の笑み。


 外が寒いからだろうか、頬が薄っすらと赤く色づいている。


 赤い微笑み。


「行ってらっしゃい」


 そう言って、僕も仕事に向かう。


(了)

 

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