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ツルクサ  作者:
5/5

5 お母さんとお父さんと、わたし

 ごちそうさまを言って、食器の後片付けを手伝わせてもらい、帰りたくないけれど帰らなくちゃ……と重い腰を上げようとしていたとき、晃代さんが電話番号を書いたメモをわたしに差し出した。


「実咲ちゃん。もしおうちのことでつらくなったら、いつでも連絡して」


 お母さんはずうっと怒鳴ってばかりかもしれない。お父さんもわたしに興味がないままかもしれない。

 もしそうだとしても、わたしには支えてくれる人がいるんだ。

 わたしはメモをしっかりと両手で受け取った。


「ありがとうございます……」

「実咲ちゃん、明日また学校でね!」

 と元気に言ってくれたとき、わたしはまた泣いてしまった。


「えっ、どうしたの? 大丈夫?」

「わたしね、さっき沙和ちゃんに怒鳴っちゃったとき、もう友だちでいてくれなくなるって思ってたの。だから、だからうれしくて……」

「まさか、明日からもずっと友だちだよ。たとえケンカしたって、仲直りすればいいじゃない」


 当たり前のように沙和ちゃんが言う。

 そのまっすぐな目は、不安なわたしをひょいと引っぱり上げてくれるような力強さがあった。


「そっか、そうなんだね……」

 知らなかった。一度誰かを切り捨てたら、もう元に戻らないのだと思っていた。

 お母さんは私を振り払うように叱りつづけて、そのあと私の心を拾い上げてくれたことはなかったから。


 だけど、わたしは今日、知ったんだ。

 一度振り払ってもまた手を差し伸べて包み込んでくれる、あたたかい手があるってことを。


「うん、沙和ちゃん、また明日ね」

 アパートの外まで見送りに来てくれた沙和ちゃんと晃代さんに大きく手を降った。

 家に帰るのはやっぱり気が重いけれど、足は不思議と軽かった。それは、頭のモヤモヤとイライラが少なくなったからだと思う。


 わたしは胸の前でぎゅっと手を握りながら歩いた。

 沙和ちゃんと晃代さんからもらった笑顔や言葉を、ずっと離さずに抱えていられるように。


 玄関で靴を脱ぎながらただいまを言っても、返事はなかった。

 お父さんは定位置でうたたねをしていて、お母さんはぼんやりとテレビを見ている。わたしが帰ってきたことに気づいたお母さんは、ちょっとだけうなずいてみせた。

 よかった、怒っていない、と安心したのもつかの間、突然お母さんは目をつり上げた。


「あっ、なにそれ?」

 わたしのバッグを指さす。よく見ると、小さなシミがついていた。

 沙和ちゃんがジュースを倒したとき、荷物は無事だと思っていたけれど、ちょっぴりついてしまったんだな。


「またなにかこぼしたのか。本当になにやってんの、あんた!」

 来た。

 わたしは必死で心を落ちつかせながら、晃代さんから聞いたことを思いだす。特に「作戦会議」のときの話を。


『怒鳴られたとき、強気になって言い返しても、結局いい関係にはなれないんだよね。溝が深まるばっかりで』

 こっちが怒鳴り返してもダメなんだ。今よりもっとひどくなる。

 うつむいているわたしに、お母さんはさらにとがった言葉をぶつけてくる。


「人の話聞いてるのか!」

「……聞いてる。バッグを汚してごめんなさい。ちゃんと洗います。だけどもうちょっと、優しく言って欲しい。大きな声は出さないで欲しいよ。すごく怖いし、悲しくなっちゃうから」


『感情的にならずに、自分がしてほしくないこと、怒鳴られたらどんな気持ちになるか、を伝えてみて』

 晃代さんのアドバイス通りに、なんとか意見を言えた。声は震えていたけれど、泣かなかった。


「……は? なに言ってんの、あんた……」

 お母さんは口をポカンと開けたまま、固まってしまった。なにか奇妙なものを見るような目で、わたしを見ている。

「バッグ、洗ってくるね」

 いつまでたっても動かないお母さん。わたしは居たたまれなくて逃げだした。


『伝えることで、もしお母さんがもっと怒っちゃったら、すぐにやめてね。また別の方法を考えよう』

 と、さっき晃代さんは言ってくれた。

 だけどお母さんは怒らなかった。これは、いい状態に向かってるってことなのかな。


 そんな期待ははずれることになった。夕ご飯の時間になると、やっぱりいつものお母さんだった。お箸を机に落としただけで怒鳴り声がやってくる。


「ごめんなさい。だけど、その言い方は怖いから、もっと優しく言ってほしい」

 もう一度、勇気を出して伝えてみた。

 お母さんはしばらく口をパクパクさせていた。そして小声で「おかしいんじゃないの、この子」とつぶやいた。

 お父さんがお箸を動かすのを止めて、じっとわたしを見ていたけれど、やっぱりなにも言わなかった。


 月曜日、学校に行くとすぐに、「作戦」の結果を沙和ちゃんに伝えた。

「……って言ったらね、お母さん、目をまん丸にしてた。それ以上は怒鳴られなかったよ」

「怒られなくてよかったねえ。実咲ちゃんのお母さん、変わっていってくれるといいね」

「うーん……でもやっぱりご飯のときには怒鳴られちゃったからなあ」


 続けていたら、本当にお母さんは変わってくれるんだろうか? 不安に思う。

 だけど、以前のような自分ではいたくない。自分の中のモヤモヤをどうにかするだけで疲れ果てていた自分に、戻りたくない。


 それからも、お母さんがわたしを馬鹿にするたびに、「傷ついて悲しくなるから、馬鹿にしないでほしい」と言ってみた。

「しつこいな」と言い返されることもあったけれど、なにか考えこむような顔で、顔を背けてしまうことがほとんどだった。


 沙和ちゃんの家に遊びに行ったとき、晃代さんにも「作戦」のことを報告した。


「実咲ちゃんのお父さんもお母さんも、家族で意見を言い合ったりすることに慣れていないから、戸惑ってるんだろうね。でもつらいことはつらいって、わたしたちに教えてね。もしどうにもできなくなったら、相談できるところに一緒に行こう」

 晃代さんはそう言って、肩を抱き寄せてくれた。


「はい」

 大きくうなずいた拍子に涙がこぼれた。沙和ちゃんが素早くティッシュを差し出してくれる。

「ありがとう。ごめん、この間から泣いてばっかりで……」

 涙をふきながら言うと、沙和ちゃんは首を振って笑った。


「いいんだよ。変かもしれないけど、泣いた顔見せてくれるって、なんかうれしいよ。大切にしてる心の内側も見せてくれてる気がするから」

「そ、そうかな……?」

「うん。わたし、実咲ちゃんと友だちになって、他の人には言いにくかった話たくさん聞いてもらって、一緒に笑えて、本当にうれしかったけど、実咲ちゃんは、わーって盛り上がるタイプじゃないから、うれしいのわたしだけかなって、ちょっとだけ心配してたんだ。だから今回のことで、実咲ちゃんの気持ちが聞けて感動してる!」


 そうか。わたしは自分の気持ちを取り出す方法を知らなかったから、沙和ちゃんにわたしの気持ち、きちんと伝わってなかったんだ。


「沙和ちゃん……。わたしこそ、聞いてもらえて話を聞いてもらえて、気持ちを受け止めてくれて、すごくうれしいよ。気持ちを出すのが下手だっただけで、友だちになってからずうっと、うれしかったよ」


 わたしは沙和ちゃんに一生懸命に伝えた。

 気持ちを言葉にするって、こんなにも心を軽くしてくれるんだ。


 家族のことはつらいけれど、今までぎゅっと丸めて押し込められていた気持ちを広げると、どこかすっきりした気持ちにもなる。心の中に風が通った感じだ。

 沙和ちゃん、晃代さん、わたしの中に優しい風を起こしてくれてありがとう。

 わたしはもっと頑張れるよ。ひとりじゃないから。


 すっきりした気持ちで家に帰ったわたしは、親に対して、いやなことに意見を言うだけじゃなくて、いいことにも反応をしてみようと思った。


 ご飯を食べ終わったら、ごちそうさまのあとに「おいしかった」と言ってみた。

 お母さんやお父さんが疲れて帰ってきたときは、「お仕事お疲れさま」と出迎えた。

 感謝の気持ちを伝えたあと、お母さんはお父さんにこっそり、「あの子、おかしいよね。変なものでも食べたんじゃないの」と耳打ちしていたけれど、気にせず続けた。


 ある日お父さんが、またゲームを買ってやろうか、と言ってきたときも、わたしはちょっと考えてから、こう答えた。

「お父さん、ありがとう。うれしいけど……あのね、わたしね、高校行きたいの。だから高校に入学するとき、制服とか教科書をプレゼントしてくれたら、もっとうれしい」

 お父さんはやっぱり、だまってしまった。


 お母さんが私を怒鳴ることは減ってきたものの、わたしと両親はどこか気まずい雰囲気だった。

 無視をするとまではいかないけれど、わたしをどう扱っていいか分からない、という視線を向けられる。

 このうちでは、わたしは異物なのかな……なんて思ってしまう。

 沙和ちゃんや晃代さんと話しているときは楽しいけれど、家にいると心が沈む。そんな日々がずっと続くのかと思っていたとき、ある変化が起こった。


 それは、日曜日の朝だった。お父さんがこれまで置きっぱなしにしていた自転車の整備をはじめたのだ。

 つるはきれいに取り払われ、サビが付いていた部分もピカピカになっている。


「どうだ、まだきれいなもんだろ」とお父さんは、輝きを取り戻した自転車に肘を乗せて笑った。

「うん、すごい、新品みたい」

「ゲームじゃなかったら……」

 そう言いだしたお父さんの声は、道具を片づける音にまぎれるくらい小さかった。


「えっ?」

「ゲームが好きじゃなかったら、なにが好きなんだ? 実咲は」

「あ、本……。難しいのは読めないけど、図書館でいろいろ借りてるよ」

「本か、そうか」


 お父さんはちょっと遠くを見るような目になった。

 いつのまにかお母さんがわたしたちの近くにやってきていた。


「お父さんも、わたしも、本とか、ちゃんと読んだことないよね。図書館行くって発想がまずなかったし、家はあいつがうるさくて集中できなかったし」

「……おじいちゃん、のこと?」

 怒られないかな、と思いながらそうっと尋ねてみる。お母さんは「そう」と肩をすくめて笑った。


「じいちゃんは黙ってるってことができない人だったよ。ずっと歌ったり怒ったりしてた」

 昔のことをくわしく話してくれるのははじめてだったので、わたしは食い入るように聞いた。


「俺もだ。家で教科書広げてたら、仕事も行かずゴロゴロしてたじいさんが近くに来て、『なにえらそうなことしてんだ』って教科書取り上げられて、破られた。授業のとき困るだろって文句言っても、殴られて終わりだった。それから勉強なんかやる気なくなったな」


 続けて話したお父さんは人ごとのように笑っていたけれど、教科書を破って、しかも暴力を振るうなんてひどすぎる。お酒を飲んで怒鳴るだけじゃなかったんだ。


「うちはお父さんよりはましだった。うちのじいちゃんは、お酒買ってきたときは、まあまあ機嫌よかったよ。お酒だけ持って帰ったら、ばあちゃんに怒られると思ってたんだろうね。お菓子やら使わない調味料やら、一緒に買ってきてた。飲み始めたら大声出してたけどね。ちょっと騒いだだけで怒鳴って、泣いたら家から追い出されてた」


 お母さんがお父さんに続いて話した。

 お菓子を買って、怒鳴っていたおじいちゃん……。それって、お母さんと一緒だ。

 お父さんもおじいちゃんと同じところがあるのかな。昔、おじいちゃんに勉強を邪魔されたから、進学に無関心なのかもしれない。


 晃代さんが『昔、親にされたことを子どもにもしてしまう』と言っていた。

 それを聞いたときは、大人のくせに自分の感情をコントロールできないなんておかしいって思っていたけれど……。


 お父さんとお母さんは、最初から「親」じゃない。「子ども」だったときがあったんだ。

 当たり前のことが胸にストンと落ちてきた。やっと納得できた気がする。


 ふたりとも、小さいころには家族のひどい仕打ちに耐えていたんだ。イライラやもやもやが胸に詰まったまま、ずうっと生きてきたんだ。


 わたしは、沙和ちゃんや晃代さんがわたしの気持ちを聞き出してくれるまで、自分の意見を言う方法を知らなかった。

 だからたぶん、お母さんもお父さんも、人と「意見」を言い合う方法を知らなかったんだ、と気づいた。

 文句を言っても怒鳴られたり殴られたりするのなら、口をふさいで、言いたいことを飲み込んだままでいるしかなかった。


「それって、つらい。つらすぎるよ……」


 わたしが口の端からこぼした声は小さかったけれど、お父さんとお母さんはハッとしたようにわたしを見た。


「お父さんとお母さんは、お酒、全然飲まないし、ちゃんとお仕事してるもん。わたしのこと叩いたりしないし、家を追い出したりしないもん……」


 わたしの悲しかった気持ちが、お父さんとお母さんの中にも流れていたのだと思うとたまらなくて、涙と一緒に言葉があふれだした。自分でもなにを言いたいか分からない。

 両親のフォローをするつもりだけれど、おじいちゃんの悪口を言っているみたいになってしまった。だけど、お父さんもお母さんが受けてきた扱いがつらくて、言わずにはいられなかった。


 お母さんがじっとわたしを見ている。わたしはあわてて顔を隠して目をこすった。

 きっと怒鳴られるんだろうと思っていたのに、予想とは違って、お母さんはなにも言わなかった。


 それどころか、わたしの頬を親指で軽くなでた。一瞬のことだったから、気のせいかと思った。

 お母さんがわたしに触れようとすることは、今までほとんどなかったから。

 だけど、わたしの思いこみではないと示すように、お母さんはわたしの服の衿を直し、髪をなでてくれた。


 お母さんの手は、こんなに優しいことができるんだ。

 はじめてのことにわたしが驚いていると、お母さんは泣きそうな、それでいて口元がほほえんでいるような、不思議な表情でわたしを見た。


 お父さんもなにも言わない。わたしたちを見たり、足もとを見たり、空を見たり、忙しく視線をさまよわせている。

 しばらくして、お父さんはふうっと息を吐き、こう言った。


「じゃあ、これから本屋行くか」

 ……本屋? いきなりどうしたんだろう。

「パチンコ行くんじゃないの?」

 お母さんも不思議そうに声をかしげる。

「たまには違うところもいいだろ。実咲は本が好きらしいから」


 わたしがさっき言ったこと、お父さんはちゃんと聞いてくれてたんだ。適当に相づちを打つだけじゃなくて、心にとどめてくれていたんだ。


「……そうだね」

 お母さんはそう答えたあと、わたしを振り返った。

「ほら、早く行こう、実咲。あんたの本、選びに行くんだから」

 手だけじゃない。声も、優しい。

 今までとは違うお母さんの声に、心が震えた。


 涙がこぼれそうになったので、わたしはあわてて上を向く。今日の空は、レースのカーテンのような雲がかかっていて、どこかはっきりとしない天気だった。


 お父さんやお母さん、わたしの心にあるモヤモヤと同じだ、と思った。


 お母さんの優しい手や声はうれしくて、きれいな青空のような気持ちが胸に広がっているけれど、今まで怒鳴られてきたつらさを全部消し去ることはできない。

 お父さんとお母さんの心に、いつまでもお酒を飲んでいたおじいちゃんが住んでいるのと同じように。


 これから先、わたしたち家族が仲良くなったとしても、みんなの心に住み着いたモヤが全部消えることはないのかもしれない。


 だけど、見るたびに息苦しかった、自転車に巻き付いていたツルは、もうない。


 あのツルはわたしにとってなんだったんだろう。

 ツルに巻き付かれていた自転車は、わたしだったのかな。お父さんにもお母さんにも捨て置かれているくせに、この家から逃げたくても逃げられない、わたし自身。


 きちんと手入れをされて、ツルもなくなって自由になったら、自転車はきっと逃げたいなんて思わないはずだ。外で楽しく走って、そしてまた、この家に戻ってくる。


 わたしとお父さんとお母さん、これからは少しずつ、つながり方を変えていけるかもしれない。

 お父さんとお母さんの話をもっと聞きたい。わたしも自分の気持ちをもっと聞いてほしい。そうすることで、「一緒にいると息苦しい家族」じゃない、「自分からつながりたい家族」に、きっとなれるはず。


「実咲、行こう」

 お父さんがわたしの名前を呼んだ。お母さんもわたしに手招きをする。

「うん、今行く」

 わたしは思い切り深呼吸をすると、ふたりの背中を追いかけた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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