悲劇の少女鶴姫
大分県、国道10号線を中津のあたりまで走ると、道の駅しんよしとみがある。
それほど大きな道の駅ではないのだが、季節が良ければ一面に咲き誇るコスモス畑を眺めながら、ソフトクリームを食べることができる。
中世、このあたりの旧国名を豊前と言った。
この道の駅しんよしとみのほど近く、宇賀神社の石祠に、今回の主役、鶴姫が眠っている。
◇◇◇
鶴姫の父は宇都宮鎮房。
彼の先祖の出身は、ギョーザで有名な栃木県は宇都宮である。
豊前は城井谷城を中心に400年近くその地を平定していた。
戦国時代の初期は大内氏に属していたが、大寧寺の変により、大内義隆が陶隆房の謀反で自害させられたあとは、豊前を支配した大友宗麟に服従した。
その際に大友宗麟の妹を正室に迎えている。
その後、大友宗麟は、島津義久との耳川の戦いで大敗を喫すると、豊臣秀吉に援助を求める。
このとき、鎮房は、島津義久に属するという処世術も見せている。
鎮房は、豊臣秀吉の九州平定時に大きな功績を残したため、愛媛県は伊予の国、今治12万石を与えられることになる。
しかし彼は先祖代々の土地である、城井谷城を離れることを拒否。
それにより、秀吉の怒りを買い、今治は没収、城井谷城からの退去を命じられる。
さまざまな武将に服従するように見せかけて内心では反抗しているのだろう。その腹背が秀吉は許せない。
本領安堵は許さない。
しかし安国寺恵瓊の口利きがあって、家宝である「小倉色紙」を引き渡すことで切腹は免れた。
鎮房は、小倉城主となった毛利勝信の提案があり、豊前から英彦山という霊山をひとつ越えた、田川郡赤村に拠点を移す。
そんな彼のかわりに豊前に入った武将。
それは本能寺の変の知らせを聞いた際に「ご運が開けましたな」と秀吉に耳打ちした、智将、黒田官兵衛である。
◇◇◇
秀吉が農民だったころから秀吉を助け、その出世の手助けをしてきた黒田官兵衛だったが、兵庫県は姫路に3万石を持つ程度の立場だった。
そこにきて九州平定後の豊前12万石である。大出世だといえるだろう。
豊前に馬ヶ岳城を築城すると、3つだけの法律を作り守らせた。
以下のものを罰する
・主人、親、夫に背くもの
・殺人、強盗を働くもの
・隠田、田の面積を偽るもの
黒田官兵衛は、「わかりやすい殿様」として民衆に歓迎された。
しかし情勢としては、肥後、熊本で、佐々成政が強引に検知を行ったため一揆が起きる。
黒田官兵衛は、熊本の援護のために国元を離れ、鎮圧の加勢に向かったのである。
九州平定したばかり、誰もかれもが豊臣政権になびくわけではない。
しかし戦乱の世を終わらせる。武士の反乱がおきることがあってはならない。
なんとしても一揆をおこさせてはならないのである。
しかし、豊前の豪族はほぼすべてが宇都宮氏からわかれた分家である。
民衆はさておいて、豪族である武士たちはほとんどが、宇都宮氏から土地を奪った豊臣秀吉、そして黒田官兵衛を憎んだ。
◇◇◇
天正15年<1587年>10月1日。
豊前国 上毛郡の豪族・如法寺輝則は、黒田官兵衛に臣従した、同じ豪族・広津 鎮種の広津城を攻撃。これに端を発し、上毛郡一揆が始まる。
黒田家の主力部隊の留守を突いて、挙兵したのである。
日熊小次郎は、日熊城に立てこもり、黒田官兵衛の息子、黒田長政と対峙。
そこに 上毛衆と呼ばれる武士集団が集結する。
緒方城城主 緒方帯刀、緒方刑部允
雁股城城主 友枝 大膳丞
叶松城城主 内尾兼元
鬼木城城主 鬼木惟宗
山田城城主 山田 輝家 山田 親実
八屋城城主 八屋 刑部
如法寺城城主 如法寺輝則
川底城城主 城井知房
小畑城城主 小畑 長重
冒頭の道の駅、しんよしとみの周辺がまさにこの日熊城の一揆、日熊城の合戦が起きた場所である。
現在の上毛中学校周辺では桑野原の合戦があった。
しかし、彼らは槍の名手 後藤 又兵衛に深手を負わせるなど奮戦したが、
百戦錬磨の黒田軍に太刀打ちできず如法寺輝則を討ち取られ敗北。
先に黒田に降服していた百富城城主 百富河内守を頼って降服した。
これにより一揆は沈静化した。
かに見えた。
◇◇◇
この動きに呼応するように、10月2日、
彼らの本来の主君である、宇都宮鎮房は、自らの城 城井谷城を黒田から奪還すべく挙兵していた。
すると、城井谷の領民は従来のお殿様に協力したため、彼らは居城・城井谷城の奪還に成功し、一揆は豊前全土に広がっていったのである。
ゲリラ戦を駆使し、上毛衆は山にこもり、黒田官兵衛、長政親子を強く苦しめた。
◇◇◇
『猿飛佐助』という忍者がいる。
明治末期から大正年間にかけて創作されたキャラクターであるとされている。
そしてそれは真田幸村に仕える、真田十勇士の筆頭としてのメンバーである。
その実在について筆者は、この上毛衆のゲリラ戦を江戸期に語り継ぐ中で産まれたダークヒーローであろうと考えている。
上毛衆を育てた中津の自然には、紅葉で有名な耶馬渓がある。
菊池寛 「恩讐の彼方に」の舞台となった青の洞門など、切り立った岩に囲まれた過酷な山々は忍者を育てるには最適な場所であっただろう。
耶馬渓の景勝地のひとつに「猿飛千壺峡」という場所がある。
山国川の清流と川床一帯に広がる奇岩は天然自然の不思議な造形物である。
ここはその昔、山猿が現れて岩から岩を飛び回ったことにより「猿飛」の名前がついた。
江戸期に流行した軍記物語は、中にはファンタジー色の強い創作物も多々あった。
例えば、島原の乱の首謀者[天草四郎]は、病を治し、海を歩いて渡る。
そういった書籍は読み物として非常に流行したという。
これらは漢文の文献が残っているからといって史実ではない。創作、ファンタジーだ。
これを原典として研究をする者は……歴史研究家ではなくファンタジー研究家だろう。
これらをふまえた上で、筆者は「猿飛佐助は上毛衆出身である」と考えている。
ファンタジーとして。
◇◇◇
さて、城井谷城を奪われた黒田長政。
黒田官兵衛からの出陣許可が下りないなか、彼はたった2000の兵だけで鎮圧に向かい、辛酸を舐めた。
そして、火急の知らせに大急ぎで熊本から帰国した黒田官兵衛は、すぐに豊臣秀吉に援軍を求めると、毛利輝元らの派遣が決定した。
官兵衛、長政親子の奮闘で、有力な反乱軍はほぼ鎮圧され、12月下旬になると、残されたのは城井谷城の宇都宮鎮房だけとなった。
ここから戦局は膠着する。
そんな中、黒田官兵衛は中津城の築城を開始、そして城井谷城は食糧不足に陥る。
宇都宮鎮房は安国寺恵瓊を通じて黒田官兵衛に和議を願い出た。
天正16年正月。
黒田官兵衛は鎮房の処分について、子の宇都宮朝房と、娘・鶴姫(13歳)の2人を人質に差し出すことを条件に、鎮房の領地安堵する和議を認め、1588年1月末、豊前での一揆は完全に鎮圧された。
鶴姫は、長政の嫁にと決定されるのである。
◇◇◇
『豊前治覧』によれば鎮房には娘が二人あり、
上の娘を黒田長政の嫁としたようだ。
両家は互いに楽しみ、天下に謀反の思いがなければ所領は安堵される。
そんな約束を、黒田官兵衛は行った。
秀吉自らの朱印状<公文書>を発行してそれを信じさせた。
鎮房は言う。
「私は天下に弓を引くものではありません。先祖代々の土地を理由なく奪われたため、後世のそしりを恥じて籠城したまでです。この上はすべて黒田殿にお任せいたしたい」
こうして、鶴姫は中津城の黒田長政に嫁いだ。
◇◇◇
鶴姫はどのような性格なのだろうか。
13歳でこれほどの重荷。
武士の娘ならわきまえておけと父は言っただろうか。
あまり情報が無いため、ほとんどのことは想像である。
創作の余地がとてもある。
以下は「いわゆる武家の女」の、筆者が思う重要なセンテンスである。
これらのことから、鶴姫のイメージを固める手助けにしたい。
・さむらいは、感情を表に出さない。
・武家の娘は貞操観念が強い。女のたしなむ武道は貞操を守るためにあったと言って良い。
・武家の娘は、他の多くの作品で語られる「女性像」とは違い矛盾を好まない。
同時に、詩的な感性を育み本を読むことは軽んじられなかった。
・歌や踊りを積極的に学んだが、それは立ち居振る舞いを学ぶためであり、それで身を立てるためではない。
それらは夫や家族、あるいは来客を楽しませるためだけにひそかに身に着けるものなのである。
・家を治めることが彼女たちに課せられる最大の教育の理念であった。
・男が自分への恋慕で本来の役目を果たさない場合、自分の手でその美貌を傷つけることがある。
・夫が主君の奴隷でないと同じように、妻も夫の奴隷ではない。妻が自分を捨て夫に尽くす。夫が自分を捨て主君に尽くす。それにより主君は天命を全うすることができるのである。
・戦場において女は重視されないが、家庭において女は最高の尊敬と深い情愛を得る。
女性の弱さから解き放たれるのが「武家の女」なのだろうか。
武器を持って戦う「巴御前」、首実検のために首に化粧をする「おあむ」、女城主「井伊直虎」。
武家の女は様々な作品に登場し、様々なキャラクターで語られる。
創作物では、彼女たちは上記の武士道的価値観を忘れて、現代の価値観で語られてもかまわない。
この鶴姫は大河ドラマ「軍師官兵衛」で市川由衣さんが演じた際は、毅然とした女傑として描かれた。
また、結末もマイルドに描かれている。
あなたは彼女を、どのような性格と想像するだろうか。
◇◇◇
天正16年7月
大阪城で時の関白、豊臣秀吉と対面した黒田官兵衛は
「陰謀を巡らせてでも宇都宮を討て」
と、厳命される。
鎮圧できなければ切腹を言い渡される可能性もある。
佐々成政は一揆の責任をとるために切腹を命じられていた。
黒田官兵衛の立場は苦しい。
一度は安堵を約束している宇都宮氏である。一方的に討ち果たすことなどできない。
拝領された一つの土地を一所懸命に守る彼の姿は鎌倉武士の美徳でもある。
それは姫路から豊前に国替えとなった黒田家にとっても痛いほど、重いほどにわかる。
そのようにして古くから豊前を守って来た武将であり、尊敬できる武将だ。
長政と鶴姫は結婚している。可能であればこのまま手をとりあって生きていけるならば。
彼はきっと豊臣秀吉という人物が関白という位にあることがどういうことか理解していないのだ。
400年前に源頼朝から任ぜられた、九州4奉行のうちの一家。だとしても。
だとしても、だからこそ、諸行無常を理解し、新しい世界を認識できない男ではないはずだ。
事実、官兵衛にとって、鎮房が良い相談相手という資料もあるという。
中津城では、官兵衛の息子である長政と、13歳の鶴姫が暮らしている。
官兵衛は、息子と娘に会いに中津城に来ないかと、鎮房を誘っている。
しかし彼は警戒して中津城には来ない。
官兵衛は、自分がいるために鎮房が来ないと考えた。
関白秀吉からの厳命が、彼に漏れた可能性もある。
なんとして、鎮房の警戒を解くべきだろうか。
◇◇◇
翌、天正17年4月、その時は訪れる。
官兵衛は鎮房の息子 朝房を伴って戦のために他国に出た。
黒田長政が宇都宮鎮房に、何を言えば警戒を解くだろうか。
鎮房は、当時流行していた抹茶を好まず煎茶を好んだ。
領民にも茶の栽培を積極的にさせたという。
2年前の移封の際に秀吉に家宝である「小倉色紙」を奪われている。
この藤原 定家の自筆色紙。現代の小倉百人一首のもとになった貴重な色紙である。
鎮房がそのうち何枚を所有していたかはわからないが、現存しているものは藤田美術館などで目にすることができる。
黒田長政は、鎮房に嘘をついておびき出すことにした。
黒田と宇都宮、互いの末永いお付き合いのために、関白殿下から小倉色紙をお返しされた。
そう申せば、いかな宇都宮鎮房といえども警戒を解くだろう。
関白殿下から仲良くしろと命じられたことにするのだ。
鎮房はその嘘の知らせを喜ぶ。
関白殿下から仲良くしろと命じられたのであれば害することはないだろうと判断した。
警戒を解き、黒田長政の酒宴の誘いを受け、40名ほどの部下とともに城井谷城を出発する。
黒田の誘いのままに、部下は城下の合元寺にて酒宴をとらせる。
本人は、小姓たった一人をつれて中津城に赴いた。
小倉色紙を部下の目に触れさせたくなかったのだろう。
ここで、供をもっと連れていれば未来も変わった可能性がある。
中津城で長政と謁見した鎮房
積もる話は酒を飲んでから。そう長政は言うので、黒田家の小姓に盃に酒を注がれる。
・・・酒はなみなみと、こぼれるばかりに注がれる。それは長政の指示である。
鎮房の右手は常に刀に添えられてある。そのため盃は左手だけで受ける。
やがて酒がこぼれると、申し訳ありませんと言いながら小姓は長政の身体が隠れるように立ち、長政が太刀を取る姿が鎮房に見えないようにした。
長政は、「肴を持ってまいれ!」と部屋の外を呼ばわると、高坏に盛られた肴が運ばれる。
襖が開き、高坏を持つ近習は、鎮房に静かに近づく。
鎮房の前まで進んだ近習は、その高坏を鎮房に投げつけ、そのまま小太刀で目元を斬る。
歴戦の勇士である鎮房はそれに動じず、刀を抜こうとする。
しかし刀を抜く間もなく、黒田長政は鎮房を真向に斬る。
刀は左肩から、両乳房の間を通り、右腰にまで届いたという。
肴を持ってきた近習が
「日頃の無念を晴らされたこと誠にめでたく。本懐を遂げられたまえ」
というと、長政は宇都宮鎮房の後ろから胴を切り離した。
◇◇◇
合元寺で饗応を受けている、40名の鎮房の部下。
彼らもほぼ同時に襲われた。
彼らが酒宴に食べたものは、この地でよく獲れる、旬よりやや前のワタリガニ。
それを味噌で煮たものである。
ワタリガニは豊前で獲れる。
普段、彼らは麦みそを使用して味噌汁を作っていた。黒田がもたらした味噌は
米麹の多い、味噌の風味が濃く感じられる赤い味噌。
黒田の武士は、ふたつの家が混ざり合うこの料理こそが、我らの友好の印であるという。
宇都宮の部下たちはそれを食べる。多くのものは何も言わずにそれを食べ、粛々(しゅくしゅく)と、主君の帰りを待つ。
しかし、塩気の濃い味噌はワタリガニの玄妙な味わいを損なう。
「こんなものが友好のしるしになるか?食べてみろ!これではみその味しかしない!」
卑劣なだまし討ちによる、壮絶な、一方的な惨殺劇とされているが、その惨劇の発端は、地元を汚された宇都宮の怒りがあったのではないか。
合元寺は、その時の武士たちの血で壁が赤く染まったのである。
その日のうちに長政の手勢は城井谷城を攻め、残る一族を自刃に追い込んだ。
◇◇◇
鶴姫は結局、父に会う事かなわず、その日から軟禁生活となったという。
ある日部屋の隣からなにやら大きな音がするので、侍従のものに問いかけた。
「あれは何の音ですか?」
「あれは機物を作っているのです」
機物というのは、布地を織るための機械という意味と同時に、磔用の木材のことを言うらしい。
もともと、布地を織るための機械で、磔用の刑具を作ったところからきているという。
それを聞いた鶴姫は
なかなかに きいてはてなん唐衣 たがために織るはたものの音
このように句を詠んだ。
うつろな気持ちで聞くはたものの音、聞けば立派な着物を織っているとのこと。誰のものなのだろうか。
道のなかばで 城井の滅びる音がカラコロと 誰のために磔台を作るというのか
なんとも悲しくぞっとする歌である。
その後、
鶴姫は長政によって13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされ殺害された。
鶴姫の死後2日ほどで、兄である朝房も、旅館を襲撃されて殺された。
これにより、黒田親子の、宇都宮との戦いは幕を閉じた。
しかし、この辞世の句を聞いた豊臣秀吉が、彼女を助命したという説も残されている。
親を殺されたまま、黒田長政の妻として宇都宮家の血を守った可能性も、あるかもしれないのだ。
◇◇◇
後日
鶴姫を磔にした場所に、現在も残る、宇賀神社を建て、その霊を慰めるように石祠を建てた。
40名を襲撃した合元寺。
彼らの無念のために、何度拭きあげても壁に血が浮いてくるようになった。
そのため、仕方なく壁を赤い弁柄色に染めることにした。
今でもこの寺に行けばその赤い壁を見ることができる。
黒田親子にとっても、この暗殺は後味の悪いものだったのだろう。
中津城の中に紀府大明神、城井神社を祀って、宇都宮氏の霊を慰めようとした。
黒田家はその後、福岡藩に転封される。
福岡藩でも警固大明神を祀って、引き続き宇都宮氏の霊を鎮め続けた。
彼らにとっても、懺悔の心がいつまでも消えなかった事件だったのかもしれない。
旅館を襲撃されて殺された朝房には妻があり、事件の時懐妊していた。
妻は生き延びて英彦山に逃れ、朝末を産む。
彼女は秋月種実の娘であったため彼を頼り子を育てる。
やがて朝末は宇都宮の姓を復し、徳川家康に拝謁する。
「いずれ家臣をともなって参戦すれば、関東にて所領を与えよう」と家康に約束されたので、城井谷の旧臣を頼り大阪冬の陣に参戦しようとする。
しかし大阪冬の陣を前に病に倒れ夢半ばにして病没する。
その子の春房は御家再興の運動を引き継ぎながら旧臣と交流する。
さらにその子である信隆は、越前松平家福井藩に召抱えられ、その後同家に仕えて明治維新を迎えた。
城井谷では、鎮房を慕う住民が命日に城跡に集って野ばらを地に刺して、黒田家を呪い続けたという伝承があるようだ。
中津出身の福澤諭吉から聞いたとして、福本日南が著書『黒田如水』で紹介している。
現在それが行われているかは不明であるが、福岡藩は明治期に偽札事件を起こし、藩知事、黒田長知が免職・閉門されている。廃藩置県の三日前に断罪され、事実上廃藩となったのだ。
もう充分だ。と考えて現在行われていないとしてもおかしくはない。
お読みいただきありがとうございました。
ブログに書けばいいのに。という内容だったかもしれません。
地元の高校生の方などが、このテーマで長編にチャレンジしてくれたらいいなあと期待しているふしもあります。断りなく使ってかまいません。ぜひ読ませていただきたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。