第二話「六月、それは梅雨の季節」その5
――その日は一日中晴れだった。
いつもの通り露店を出している祥子の元に、突然カイがやってきた。
「大変たいへん!」
常に落ち着いているカイにしては珍しく、その日はどこか興奮していた。
「何が大変なの?」
「いいから、こっち来て」
ぐいっと祥子の手をひき、物陰へとひっぱっていく。不審感はあったが、幼い少年の姿――それが祥子を油断させたのだろう。
「一体どうしたっていうの?」
祥子はカイに尋ねる。
そこは物陰となっていて、人並みからはちょうど死角になっている場所。しかも辺りより大分暗いため、祥子が気づいた時にはもう遅かった。
「――あれ? 霧……?」
まわりにたちこめる白いもや。それはすでに目の前の建物の壁さえ見えない程たちこめていた。
だがそんな中、不思議とカイの姿だけがはっきりと見える。
祥子は息苦しくなり、のどを抑えてせきこみ、体をくの字におりまげる。
やがて彼女は意識を失い、がくりと地面に倒れこんだ。
白いもやは倒れた祥子にまとわりつき、次第に晴れていく。
完全に元の静けさに戻った頃、祥子はむくりと立ち上がった。その瞳からは生気が感じられない。
「――そう、大変なの」
祥子の言葉にカイはにっこりと微笑む。それはまるで天使の微笑みのようだ。
「今日は久々の晴れ。――もしボクの推理が当たっているとしたら、絶対現れるはず……」
もうあたりに白いもやはない。
カイの笑みが年相応の可愛らしいものから、不思議と大人びた笑みへと変わっていく。嘲笑、と表すのが一番だろう。
「――『魔法屋』がね」
祥子の周りには、白いもやの残骸――灰が落ちていた。
「あ、れ――……今日はカイどころか祥子さんまでいないじゃん」
何度めかの訪問で名前を聞き、すっかり名前呼びをするまでになったギャル風のおねえさんの姿が見えない。
「本当だ。でも露店あるし、すぐ戻ってくるんじゃ――」
俊樹の言葉が終わる前に、祥子が戻ってきた。
どことなく目がうつろである。
寝不足か何かか? そう俊樹は思った。
「あ、祥子さん! ねぇ、あの子今日も来てないの?」
由乃の言葉に祥子はくすくすと笑った。
「さぁ、どうだったかな?」
「…………?」
俊樹はいぶかしむ。彼女はこんな反応をする人だったろうか?
そして由乃は目を見開く。
彼女が口を開いた途端、とても匂ったからだ。
(―――この香りは……)
由乃はにっこりと微笑み、祥子に近づく。通学用のカバンに手を入れ、
「ねぇ、祥子さん」
瞬間カバンから手を出し、それを吹きつける。
場の雰囲気が凍りつく。
由乃の手には悠の創った「例の物」が入ったアトマイザーがあった。
「お、おい……、何やってんだ、お前」
いきなりの行為に俊樹は完璧あっけにとられていた。
「シッ。黙って――」
場を凍らせた張本人、由乃は腕時計に目を走らせていた。
「8、7、6……」
口の中でカウントしている。
「…………?」
いぶかしげに由乃を見る俊樹。
「3、2、1――」
顔を上げ、由乃は視線を祥子に移す。
視線の先の祥子は、はじめあっけにとられた表情をしていたのだが、由乃が「0」とカウントゼロをとったところでその様子が豹変した。
「――くっ」
いきなり苦しみだしたかと思うと、祥子は身をひるがえし、その場から駆け出した。
「追うよ、俊樹!」
「お、おうっ」
由乃は逃がすまいと追い、俊樹もあわてて走り出す。
そして、離れた物陰からそれを見ていたカイは、ずるりとその場に倒れこんだ。
そこは「売り地」と書かれた看板のある、空き地だった。
彼女は体をくの字に曲げ、苦しそうに手をついている。体中から煙が出ていた。
「おい、どうなってんだよ?」
俊樹は汗をぬぐいながら由乃に尋ねる。だが由乃はぜーはー、と息も絶え絶えであった。
結構な距離を追ってきたのだ。息が切れるのも当然であって、このへんはやはり男子と女子の基礎体力の差、といったところだろう。
「しっ、……知っての通り、こ…この、悠兄ちゃん作マル秘アイテムを……使った……のよ」
「おい、大丈夫か?」
未だに肩を上下に揺らしている由乃を案じ、声をかける俊樹。だが落ち着いてきたのか、由乃はしゃんと背筋を伸ばす。
「『魔力分離分散液』って言ってね、悠兄ちゃんのオリジナルなんだけど、平たく言えば、〈魔〉にとりつかれた者にかけて、その〈魔〉を表面に出させる薬ね」
「〈魔〉にとりつかれた者?」
由乃は祥子を見すえる。その目は魔法屋のものだ。
「そう、あの人は〈魔〉にとりつかれているわ。巧妙に隠しているけどね。〈魔〉の匂いがするもの」
由乃の視線の先で、ゆっくりと祥子は立ち上がった。
くすくすと子どものように笑う。
「すっかり失念してたよ。魔法屋が魔力を感じとることができるってこと」
祥子の口から発せられた声は、彼女のものではなかった。それはまだ声変わり前の少年の声。
「ケド匂いを嗅ぎ分けるなんて、まるで犬だね。魔法屋って」
にこにこと無邪気に笑う様は本当に子どものようだ。
こうしている間にも、しゅーという音とともに煙が立っている。
「な、なーんですって―――!!」
由乃は思わず手にしたハリセンを投げつけようとしたが、
「ま、待て待て! ハリセンは投げるもんじゃない……じゃなくて、ここで怒ったらあいつの思うツボだろ?」
俊樹になだめられぐっと怒りをこらえる。
「―――……そうね」
祥子の体からは煙が後をたたない。
ひとつ深呼吸し、由乃はまっすぐ祥子を見すえた。
「ひとつだけ聞くわ。あなたは何の目的があって呪いのグッズを売りさばいているの?」
煙が出るのは何かが蒸発しているからだろう。由乃はそれと同時に思う。
――一体何が蒸発しているの?
「さぁね」
祥子――いや、カイは実にそっけなく答えた。由乃はマジギレ寸前である。
カイは大人びた口調で続けた。
「そこにボクの意志はないよ。ただ御主人サマの命令に従っているだけであってね」
「!!」
「すると、そいつが魔法使いってわけか」
俊樹の言葉にカイはふと首をかしげる。
「そういえば、どっちが魔法屋なの?」
俊樹と由乃は顔を見合わせた。
そう、二人がカイのことをあまり知らないように、カイもこちらのことを良く知らないのだ。
「ま、どっちでもいいか。調べれば判ることだし」
口に手をやるその仕草も子どもっぽかった。
「それにしても、この薬はすごいね。〈魔〉に操られた者に使うことによって、操っている方の〈魔〉の意識をひきずりだす。しかも、操られた者の魔力を媒介にしている……。この薬を創った人はさぞすごいんだろうね。ま、君達二人じゃないみたいだケド――失敗したね」
不敵な笑みを浮かべるカイ。
「え?」
いぶかしがる由乃。
「この薬を『液体』にしたのは失敗だったってことさ」
そう、蒸発しているのは彼女の体中にとりついた灰。
灰は水をかけると流れ、分離していく。
そう、灰は薬によってみるみる分離していっているのだ。〈魔〉の力が含まれたものが蒸発し、同時にカイの意識もまた宙に消えていく。灰はカイの魔力の一部――いや、そのものと言っていい。
消えてしまえば、それ以上話を続けることはできない。だが、もし『魔力分離分散液』が固体であったなら――いや、液体でも飲ませさえすればカイの意識はその場に残ったハズだった。
そのことに気づき、由乃は明らかに顔色を変えた。そんな由乃をあざ笑うかのように、カイは微笑む。
「ちょ、まっ――」
「じゃあね。バイバイ」
手を振ってばたりと倒れるカイ。もう煙は出ていない。カイの魔力は消えたのだ。
由乃はうつむいている。
その手には行き場を失っていたハリセン。
ふいにその手が俊樹の目の前で振り上げられる。
「えっ!?」
俊樹はハリセンの餌食となり、由乃は地団駄を踏んだ。
「ムーカーツーク――!! 何アレ、何アレ!? あの、人を見下したかのような態度!! き――――――ッ!」
完璧に八つ当たりの対象となってしまった俊樹は、しみじみと思った。
(……オレって、こういう役回りばっかだよな――……)
***
カイは目を覚ました。
ゆっくりと起き上がり、首や腕を回して身体の調子をみる。どこも不調はないようだ。
服についたほこりを払いながら、危なかったなー、としみじみ思う。
とりあえず魔法屋がマヌケだったことに感謝である。
「どうしよっかなー」
ふむ、と考えこんだカイは、
「もうちょっと調べてからにしよっと。報告するのは」
と、結論づけた。
カイが立ち去り、空が夜色に染まりきった頃、また小雨が降りだした。
そしてその年の梅雨明け宣言が出されたのは、それから三日後のことだった。
第二話 Fin.