嘘売りの老婆
青の買い物篭。アルフォートの大袋各種をこれでもかと投げ入れていく私は、ドラッグストアにいた。
続けてPBカップ麺。更には冷凍食品の常温解凍可能な奴を選り好みし、買い物かごを満杯にしていく。ついにはレジへ。
風の噂を耳にしたのは、レジを打つ貴婦人の甲斐甲斐しい手つきに見惚れている時分であった。
曰く、「橋のたもとに浮浪老婆あり。老婆は対価に応じた得も言われぬ嘘を売る。嘘売りの老婆なりけり」……との事。振り向けば声の主は煙の如く消え失せていた。あるいは幻聴に過ぎなかったのやも知れぬ。
ともかく私の内心は狂喜のうちに乱舞した。
嘘売りの老婆とは何ともバリエモではないか。
現実など嘘くさい。嘘は現実では無い。よって嘘幻にこそ現実がある。……かような破綻した三段論法に準拠し、私は老婆を目指す事とした。
近場のコンビニATMで9万と9千円を物質化して財布にねじ込み(その間も逸る心をズット抑えていた)私は件の橋のたもとへと向かった。
しかして夢うつつの国道散歩。足を棒にし、心にむち打ち、走っては歩き走っては歩き、二里余を走り歩いて遂に姿を現す一級河川。市街地へ続く二車線大橋。河川敷を降り橋のたもと影へ。
そこにはくたびれたテント。実存を賭して資本主義社会を相対化しようと目論むように、薄赤くくすんでいるテント。
薄赤を睨む。
9万9千円という名の最終兵器を握りしめ、青筋に沿って流れゆく大粒の汗の生ぬるさ。そして心地よい腹痛に気付く。
緊張のあまり便意を催してしまったらしい。私は河川敷公園を中間目標に選び、女子トイレもしくは男子トイレ(どちらに行ったかは現時点では公開できない)で事を済ませる。
しかして今度こそと薄赤を睨む。
9万9千円という名の最終兵器を握りしめ、青筋に沿って流れゆく一滴の汗の生ぬるさ。その既視感。その緊縛。……開眼!
現刻しかない! 現刻だッ!
「頼もうッ!」
十秒だか十劫だかの後、捲り広がりける天幕。
その姿に私は――絶句していた。
……彼女はあまりにも……あまりにも美しかったのだ。瞼に覆われ僅か除く漆黒の瞳の妖艶さ! 頬に眉間に顎に行き渡る伊豆小笠原海溝より深き数々のシワ! 処女のように優しく、あるいは老獪にも微笑みうるような深い口元! 重力をありありと含蓄しきった皮膚の弛み! 太陽の恵みの権化たる、慈雨をもたらす雨雲のようなシミ! 瞳の漆黒を際立たせる純白に垂れ広がる白髪! すべてが調和して、完全なる美そのものとしての老婆を形成していた!
「んむう……なんかじゃん」
眠そうに目をこすりながら、小鳥の様な低い擦れ声を呻る老婆。
彼女はテントの薄赤を背景に、鼠色のクマさんがこれでもかと印字されたパジャマを纏い、皺だらけの白レジ袋を踏みつけにして半身を起こしていた。その尊大な態度の一挙一動の艶めかしさ……。
老婆が目をこする度に白レジ袋が擦れ、甘美なるカビの香りが私の鼻腔をくすぐる。
「……黙っとってもなーんもならんばい! さっきからなんかじゃんち言いよろうが!」
二次関数的に拡大していく声のボリュームに老婆の苛立ちを察知し、私はすぐさま握りしめたる9万9千円を付き出す。瞳に炎を滾らせるつもりで、老婆の瞳に献火するつもりで、じっと目を見張りながら差し出す。丹念な皺の装飾を受けた老婆の細長い指が、私の拳骨を押し広げていく!
「手ば離さんかじゃん!」
その力強さ! 圧倒的な意志の力に打ちのめされながら、私の9万9千円は鋭い簒奪を受けた。老婆は満足げに黄色く朽ちた歯の残滓をチラつかせる。9万9千円のうちの一枚は老婆のぬかるんだ唾液を受け(当然ながら私は野口英世への嫉妬を禁じえなかった!)捲り数えられてゆく。
「ちょいと足りなかばってんくさ、まあよか」
老婆は薄い唇を結び、そして解く。忘れもしない……歌うような9万9千円分の嘘が始まった。
曰く……あそこの(老婆は西の方を指さした)山の中腹に立っている灰色の送電線には、太古より受け継がれてきたセックス教団の社があったという。そこでは老若男女問わず無数の人々が神と一体化し淫靡に踊り狂い、神秘的で堕落的で土着的な乱交パーリィを執り行って来たという。
時代は移り変わり、明治政府が各地の風俗壊乱行為の取り締まり強化の一環として社を解体してからも、秘密裡にパーリィは繰り返された。困り果てた政府は、パーリィ会場に鉄塔を建立する事によってけったいな機械化文明を破廉恥にも露出し、土地の神秘性を奪う方策を取る。
この方策は結果的に成功してしまい、乱交パーリィの場は潰えてしまった。……かに見えたが(!)しかし現代でも鉄塔の周辺は神域であり続けた。令和の現下となっても、パーリィ会場の放つ縁故神妙なる神性色香に引き寄せられ、突発的に乱交パーリィが開始まってしまう事があるとかないとか……
「それは素晴らしい! もしよかったら、是が非でもご一緒したいです! 今からでよろしいでしょうか?! 都合の方は!?」なんて言えるなら、この年になって童貞OR処女をやっている私では無い。だが、言わねば。言わねば始まらない。
「あ……あの……」
「なんかじゃん」
「えっと……」
「金ば返せとかち、アホんごたる言うたらくらすばい」
「いえ……そういうわけじゃ」
「ならはよ帰らんかじゃん。いっちょん帰らす気なかごたるばってん、もうしまいじゃん。もうウチん話すこつばなんなかけんがったい」
「でも……」
「そげんえらい馬鹿んごたる突っ立っとらんと、はよ帰らんかじゃん」
迷惑そうに歪む老婆のシワに、札束《9万9千円》を握りしめる細い指の圧倒的排他性に、私は思い知っていた。
――これは、どう考えても脈ナシだな。
恋愛沙汰に疎い私でも本能で分かる。少しでも脈がある相手に、こんな表情はしない。やはり老婆は私に毛ほどの興味も持っていない。眼中にすらない。間違いなく。
背を丸め翻し、枯草の河川敷の坂を上る。
涙を堪えようとして結局溢れ出るままにしながら、男子トイレだか女子トイレだかに駆け込み、立位だか座位だかで放尿した私は、放尿による性欲の減衰を見た。
それでも失恋の傷は、心の大部分を抉りぬいていた。実際に胸の辺りが締め付けられるように鈍く傷んだ。
私は駐車場に駆け込み、ドブネズミのように古びた軽に飛び乗る。(徒歩で橋に向かったというのは嘘だった。私はドブネズミで来たのだ)ともかく人機一体、国道の風となり、例の鉄塔へとアクセルを踏み込む。
「チクショウ……もう恋なんてコリゴリだ!」
私は走った。乱交鉄塔へと走った。
私の精神は頽廃的な耽美と破滅的な淫蕩と土着的な神性に取りつかれているようで、乱交鉄塔を目指さしていなければ実存を保てない気がしてならなかった。
しかし、山道をうねっているうちに私は乱交鉄塔の方向を見失ってしまう。そもそも当たり前に道路を進んで乱交鉄塔に辿り着けるかどうかは疑問だ。遠くから見たら山に鉄塔が刺さっている様が見えたりするが、あれって普通に道なりに進んで辿り着けるものなのだろうか? というか、究極的なそもそもとして、乱交鉄塔は老婆の空想上の存在ではなかったか? 嘘ではなかったか? もしかしたら、私は今ものすごく馬鹿げた事をやっているのではないか? もしかしたら、私は馬鹿なのではないか?
憂鬱と自己嫌悪のただなかで、私は鉄塔の周囲で繰り広げられる乱交パーティを夢想する。
老若男女が生まれたままの姿で奇怪な踊りを踊り、神を称え神と融し神の子となりやがて肉体が溶けていく。土と混ざり合い、空と混ざり合い、人と混ざり合い、全てと混ざり合い、一つになって行く。そこにはあらゆる差別も区別も差異も無く、全てに神が宿る。だからこそすべてが神々しくも美しくも愛しいのだ。真の平等と博愛の完成である。ウム……それはよいものだ。……フウム……これこそが原初より受け継がれし、東洋の理想とするもっとも自然な社会の在り方ではないか……
「気持ち悪かじゃん」
皺枯れ声の幻聴に唇を噛む。嚙み過ぎて唇から血が出た。血が滲んで、喉奥を鉄の味が潤して行く。
そうだ……貴女の仰る通りだ。私は気持ち悪い。私は馬鹿だし、私はアホだ。そんな私が神秘鉄塔に辿り着けるはずがない。
神秘鉄塔はこの世界にはない。彼岸にある。彼岸にあり続けるだろう。彼岸にあり続けなくてはならない。理想の達成は必ず、失望に向かっているのだから。
どのみち私は恋破れた。老婆とは脈が無い。全く脈が無い。そもそも私の様な低劣な人間に、彼女は全く不釣り合いである。当然、乱交鉄塔にもたどり着けない。永遠にたどり着けない。何も、何一つ叶わない。鉄塔の下に一人、夏草に想いを馳せる事すらも叶わない。
ともすれば、私はどうすればいいのだろう? 何かできることがあるのだろうか? いや、どうする事もできない。
レジ袋に入った冷凍食品は、とうに溶け切っているだろう。
それも、どうする事もできない。
「宇宙にでも行くか」
私は鉄塔を諦めた。老婆も諦めた。全てを諦めた。踏ん切りはつかなかったが、とにかく諦めた事にしておいた。
そして空いた四車線県道にランボルギーニのエンジンを勇ましく吹かし、遥か彼方へと走り続けるのであった。