百メートル戦争
百メートル戦争 オオタケハルカ
水道水で割った薄めのウイスキーを飲みながら、ふと大人になるまでを振り返ったとき、僕の人生は連続性のない物語のようだと思った。
僕はとある街の小学校を卒業したあとに引っ越して別の町の中学に入学したので、中学進学時には知り合いがひとりもいなかった。高校は電車を三本乗り継いで一時間半かけて通うような遠くの高校に進学したのだが、同じ中学からその高校へ入学したのは僕の他にたったひとりで、このときも人間関係がほぼリセットされた状態だった。ここまで書けばあえて言う必要もないだろうが、上京したため、大学生活もひとりも知り合いがいない状況でスタートさせた。東京駅までは新幹線でたった一時間半の距離だけど、上京したての僕にはまったくの別世界に思えた。
人生の節目を迎えるたびにそれまでの登場人物やヒロインは物語から去り、新たな登場人物とヒロインが代わりに舞台に立った。当然、環境も大きく変わった。
だから僕が昔の出来事を思い出すときは記憶のページを遡るのではなく、別の本を取り出す感覚に近いのだ。
そしてふと小学生編を手にしたとき、物語の大部分を占める出来事があったことを思い出した。六年にも及ぶ『百メートル戦争』のことだ。
PTA役員の親を持つ少年に抗い続けた小学生時代の僕たち。引っ越してしまった僕はあの戦争がどうやって終結を迎えたのか知らないし、そもそも終結したのかどうかもわからない。だけど、あの頃の僕は確かにひとりの兵士だった。
1 リュウイチくん
僕の通っていた小学校は登校時は集団登校を行っていたが、下校時は半ドンの日を除いて自由下校だった。しかしひとりで帰る児童はほぼおらず、それぞれが仲のよくて家の近い友達と一緒に下校するのが普通だった。僕もそのひとりで、家が近所で幼稚園の頃から友達だったリュウイチくんといつも一緒に帰っていた。
リュウイチくんはかなりの曲者だった。
彼は授業を抜け出してどこか校外へ出ていってしまうような子で、家が近く仲のよかった僕が決まって探しにいく係だった。好き嫌いが多いせいで給食を食べるのも一番遅くて、掃除の時間になってもひとり給食を食べていた。
小学六年の頃、給食を食べたあと歯を磨き終わった児童は、教室の扉にかけてあるチェック表に丸をつけるというルールがあって、最初に歯磨きをした児童は表の冒頭に日付を記入することになっていた。給食を食べるのが早くいつも一番に歯磨きをしていた僕は、毎日その係ができるのを誇らしく思っていた。しかしそれをリュウイチくんに自慢したところ、リュウイチくんは給食に手をつける前に日付を記入してしまうという禁忌を犯し、僕は本気で悔しくて泣いた。
ただ、そんなリュウイチくんは勉強が得意で、特に算数はいつも満点だった。二個上のお姉ちゃんがいたおかげか流行にも敏感で、キンキキッズやSPEEDが流行っていると教えてくれたのはリュウイチくんだった。
小学校低学年にして夜十時放送の『夜もヒッパレ』を観ていたのはクラスでリュウイチくんだけだった。その影響で僕も観てみようと夜ふかししたことがあるが、芸能人がカラオケを歌うという内容は当時の僕には面白さが理解できなくて、こんな番組を観るためにわざわざ遅くまで起きているリュウイチくんがなんだか大人に思えたものだ。
コロコロコミックを卒業して週刊少年ジャンプを読み始めたのも友達の中でリュウイチくんが一番早かった。しかも当時ジャンプは火曜発売だったのに、月曜日に発売されるコンビニを彼は知っていた。情報通でもあったのだ。
思い返してみると、リュウイチくんは物知りだった。変化球の投げ方、ザリガニの釣り方、ミニ四駆の改造にパワプロのサクセスモードで強い選手を作る方法。僕はそれらすべてをリュウイチくんから教えてもらった。話も面白くて、僕は毎日彼に笑わされていた。毎年クラス替えがあった僕の小学校で、リュウイチくんと五年も同じクラスになれたのは、僕とリュウイチくんの仲の良さを知っていた先生が、もしかしたら気を回してくれたからかもしれない。
ただ、リュウイチくんは気が短く、クラスメイトとケンカすることも多かった。中でも小学校一年生のとき同じクラスになったブトウくんとは折り合いが悪く、リュウイチくんと彼はその後六年にも及ぶ戦争を繰り広げることとなる。
2 宣戦布告
対して僕はブトウくんとそこそこ仲がよかった。ブトウくんの親に連れられて一緒に動物園に行ったこともあるし、休憩時間には教室のカーテンに隠れてよく内緒話をしていた。ブトウくんは水道で前髪を濡らし、一つに束ねて額に垂らすという奇妙な髪型をしていたが、カーテンの中で僕もその髪型にセットしてもらったときは嬉しく思った。
ブトウくんにも年の離れたお姉ちゃんがいて、みんなよりもマセていた。親が教育熱心だったらしく勉強もよくできて、テストの成績はいつもリュウイチくんと二人で競っていた。
ところがブトウくんもなかなかの曲者だった。短気で、しかもチクリ癖があったのだ。
どれだけケンカをしても自分たちの中だけで収めようとする僕やリュウイチくんとは違い、ブトウくんはすぐに先生や親に言いつけ、しかも親がPTAのお偉いさんだったらしく、先生は決まって僕たちだけを叱った。いつかうちの母親から「ブトウくんと遊ぶときは気をつけて」と注意されたことがあったから、たぶん保護者の間にも彼の親が口うるさい人だという認識があったのだろう。
僕たちの小学校は大きく分けて、校門から帰宅する、いわゆる北ルートを通学路とする児童と、プール横の裏口から帰宅する南ルートを通学路とする児童がいて、僕たちは南ルートだった。更に細かく分けると、南ルートを百メートルほど進んだ突き当り、右に折れる子どもと左に曲がる子どもに分類され、僕とリュウイチくんは『右』に行った先、ブトウくんは『左』に行った先に自宅があった。小学校を出て突き当りまでのこの百メートルこそが、後に僕たちの主戦場となるのだった。
小学一年生のある日、下校後に担任の先生から自宅へと電話がかかってきて、学校に呼び戻されたことがあった。ブトウくんとのケンカ中、僕が彼に怪我を負わせてしまったため謝罪しに戻ってこいとのことだった。ただ、確かにケンカはしたけれど僕たちがしたのは口ゲンカで、しかも口火を切ったのは向こうの方だったから、僕は釈然としなかった。
納得できないまま学校に戻り、保健室に行くと、担任のおばあちゃん先生とブトウくんが向かい合って座っていた。僕はブトウくんの隣に座り、先生と向き合って、自分側の事実を正直に伝えた。
ところが、どういう流れでそうなったかまでは覚えていないが、最終的に僕だけが謝ることになった。但し、悔しいという感情は湧いてこず、「まあ、こうすれば丸く収まるんだろうな」とどこか諦めたような感想を抱いたのを覚えている。帰宅後、ありのままを母親に報告したところ、「それで正解だよ」とこれまた妙に達観した言葉で諭されたのだった。
しかし、この一連を聞いて黙ってなかったのがリュウイチくんだ。僕としてはもう済んだことだし事を大きくしたくはなかったが、普段から腹に溜まったものがあったらしいリュウイチくんはブトウくんと徹底的に戦うことを覚悟したようだった。
こうなると、僕はいよいよ自分の身の振り方を決めなければならなくなった。リュウイチくんとブトウくん、どちらの陣営につくかだ。
ブトウくんと敵対すれば、ことあるごとに呼び出しをくらい面倒なことになるのは目に見えていたから、僕はできれば穏健派でいたかったが、親友であるリュウイチくんを見捨てるなんて選択肢はあるわけがなかった。その頃僕はリュウイチくんからスライダーの投げ方を教わっている最中だったし、スーファミのドンキーコングをクリアしてもらう約束も残っていた。ポケモン赤を持っていた僕が、緑を持っていたリュウイチくんの協力なしにポケモン図鑑を埋めることは不可能に近かったし、リュウイチくんのお父さんに浜名湖パルパルという遊園地まで連れていってもらう話もあった。
こうして小学校一年の終わりに、僕たち『右』の少年は、ブトウくん率いる『左』の連中に宣戦布告したのだった。
幸いにも僕の母親とリュウイチくんの母親は仲がよく、ブトウくんがどういう子どもであるか共通の認識があった。相手側の言い分を鵜呑みにするような親ではなかったことは、この戦争において大きな意味を持っていた。
3 不利すぎるルールと仲間たちの裏切り
開戦当初、僕たち『右』の陣営は、リュウイチくんを筆頭にそれなりにバランスが取れていた。リュウイチくんは毎週少林寺拳法を習っていて、格闘術には覚えがあるようだった。大人になってから少林寺拳法は武道というより演舞の色が強いと知ったが、当時少年だった僕はショーリンジというどこか歴史を感じる名前と、ケンポーというオリエンタルな響きに憧れを抱いていた。肉弾戦になればリュウイチくんがショーリンジケンポーで相手を叩きのめしてくれると信じていた。
更に『右』には、僕と同じマンションに住んでいたトシくんと向かいのマンションに住んでいたショータくん、更に坂を下ったところにケンジくんという子がいた。トシくんは頭脳明晰で足が速く、特に長距離走が得意で小学校一年・二年時に校内のマラソン大会で連覇を果たすほどだった。長距離を走れるのなら陽動作戦で活躍できるはずだ。
ショータくんはサッカー少年で毎週サッカー教室に通っていた。何かを蹴るのが得意なら、遠距離から奴らにダメージを与えることができるだろう。
ケンジくんは僕らの界隈でいち早くニンテンドー64を買ってもらった少年で、それがきっかけでヒーローとなり、しばらくの間ケンジくんの家が我々のアジトとなった。彼のおばあちゃんが作ったというオリジナルのジュースが何味なのかは最後までわからなかった。
そして僕は小学校一年から五年までソフトボール投げが学年一位だった。ショータくんは脚、僕は肩で、長篠の戦いの鉄砲隊のように遠距離からの波状攻撃が期待できた。
加えて、リュウイチくんのおじいちゃんは手先が器用で、割り箸で輪ゴム鉄砲をよく作ってくれた。ケンカで使うことを隠せば、『右』の優秀なメカニックマンとして数々の武器を量産してくれることは間違いなかった。
対して『左』陣営にはロクな連中がいなかった。ボスのブトウくんはともかく、子分のヒサオくんはいつも青っぱなを垂らしているような子どもだったし、途中から転校してきたエイジンくんは身長が低く、取っ組み合いになればまず負けることはないだろう。
完璧に思えた『右』陣営だったが、すぐにひとつの問題が発生した。ブトウくんのチクリ癖だ。擦り傷ひとつでも作ってしまえばブトウくんはすぐに先生と親にチクった。PTAのお偉いさん擁するブトウ陣営を敵に回すことは、子どものケンカにおいて絶対的なルールである喧嘩両成敗の原則を捨てることを意味していた。
そうして理不尽な条件のもとケンカを続けているうちに、自然と歪なルールが生まれてしまったのだった。
子ども同士のケンカは子ども同士で収めるというポリシーを持っていた僕とリュウイチくんに対して、何度も言うとおり奴らはすぐにチクった。つまり、奴らが僕たちをどれだけ痛めつけようと大人が出てくることはないのに対して、僕たちが奴らに擦り傷ひとつ作ってしまえば、たちまち大人がしゃしゃり出てくるというわけだ。『左』の連中は道端に落ちていた細い木の枝や蔓状の植物を鞭のようにしならせて思い切り叩いてくるが、僕らが取れた対抗手段は柔らかい体操着袋や給食袋を振り回して、相手を傷つけないようにぶん殴ることだけだった。だから体育の授業がなく、給食当番でもない日は完全な丸腰になる。しかも小学三年になると、竹定規という殴ってもよし、しならせて弾いてもよしの最強の剣が相手だけに加わったのだった。
竹定規攻撃は特に冬場に有効だった。僕らの小学校は私服登校ではあったけれど、ほとんどの男子が年中半ズボンを履いていたから、露出した脚はいつも冬の冷たい空気に晒されていた。張り詰めたような肌に、デコピンの要領で竹定規をしならせて弾かれると悶絶するほどの激痛が走った。僕たちはこっそりふくらはぎや裏ももに竹定規攻撃をくらわないように、いつも背後を警戒しながら下校しなければならなかった。油断してくらってしまえば、赤い痕がくっきりと残った。
そんな偏ったゲームバランスだったから、僕たちは基本的には一方的にやられっぱなしだった。その頃リュウイチくんは学校を授業中に抜け出すクセがあり、そうして早退してしまった日はまさに地獄だった。リュウイチくんがいなければ、残された僕たちはただの烏合の衆にすぎず、ひたすら逃げ惑うことしかできなかったのだ。
こんな不利な戦争を強いられているうちに、段々と『右』のメンバーが減っていった。
まず最初の離脱者はトシくんだった。彼は小学校二年の終わりに、親の都合で岐阜県へと引っ越してしまったのだ。トシくんの家は貧乏ではなかったが、親の教育方針なのか鉛筆削りを持っておらず、芯が短くなってくるとお母さんがナイフで鉛筆を削っていて、その少年心くすぐる光景が二度と見れなくなると思うとなんだか寂しかった。但しトシくんは泣き虫だったからそもそもあまり狙われず、たまに狙われてもその自慢の脚力を活かしてあっという間に逃亡してしまうので、いなくなったところで我が陣営の戦力はそんなに落ちなかった。
次に陣営を離れたのはサッカー少年のショウタくんだ。
ショウタくんは小学校三年のときに初めて同じクラスになり、そこで知ったのだが、彼は女子によくモテた。ショウタくんはスポーツ少年で英会話教室にも通っていて、メジャーに行く前のイチローに似ているイケメンだった。背が低く可愛い感じだったから、女子からは『チャッピー』とキモいあだ名で呼ばれていつも持て囃されていた。そんな軟弱な姿が僕たちの反感を買い、戦力ダウンは免れないとわかってはいたものの、僕たちは断腸の思いで彼に戦力外通告を出すに至った。それでも百メートル戦争に関係ないところではずっと仲がよく、僕が鼻からCCレモンを飲んだことを知っている生き証人でもある。
こうして見る見るうちに戦力が落ちていくさなか、とある事件が起こった。
百メートルの突き当り、右に折れてすぐのところに一軒の家が建っていて、トタンの屋根から地面へと伝う雨樋の終わりには、魚市場で使うような発泡スチロールの箱が置いてあった。家主の太った婆さんがなぜかそこに雨水を貯めていたのだ。
登校時の通学班が一緒だった僕とケンジくんは、一時期、その箱に小石をぽちゃんと沈めるのにハマっていて、その朝もいつもどおり小石を投げ入れた、そのときだった。
玄関がガラガラと開いて、太った婆さんが鬼の形相で飛び出してきたのだ。通学班の前に立ちはだかったデブ婆さんはしゃがれた声で「毎日石を入れていくのは誰だ?」と聞いてきた。どうやら、五、六人の通学班のうち、誰が石を入れたかまでは特定できていないらしかった。
僕はデブ婆さんに悟られないよう、横目でケンジくんを見やった。
その頃にはもう僕を含めたほとんどの子がニンテンドー64を持っていて、最新のゲーム機を持っていただけでヒーローと謳われたかつての栄華は、このときのケンジくんからはもう完全に失われていた。
ケンジくんとは幼稚園から一緒だったから多少の情はあったものの、それでもデブ婆さんに叱られる恐怖には勝てずに、僕は恐る恐るではあるけれどはっきりとケンジくんを指さした。あとはケンジくんを残して登校すれば終わる話のはずだった。
ところがひとつの誤算が起こった。ケンジの野郎も同時に僕を指さしたのである。結局僕たちは他の班員から遠巻きに見られながら、雨水を貯めている発泡スチロールの箱に毎朝小石を入れた罪で、二人してデブ婆さんに雷を落とされたのだった。今思い返してみれば、はたしてそこまで怒ることだったのか疑問ではあるけれど、とにかく落雷のあとの焼け野原にはケンジに対する遺恨だけが残っていた。
ケンジが引っ越したのはそれからしばらく経った頃だ。といっても転校してしまったわけではなく、学区内での引っ越しだった。ただ、厄介なことにケンジの引っ越し先は『左』ルートの先で、デブ婆さんの一件でお互い明確に敵視していたのもあって、ケンジはすぐに『左』の連中の戦闘員として猛威を振るいはじめた。それはいつも青っぱなを垂らしていたヒサオが北海道かどこかへ転校していき、『左』の戦力が落ちたのを喜んだ矢先の出来事で、自分が助かるためならば仲間を売ることに一切の躊躇がない冷徹な男と敵対するのは、もう僕とリュウイチくんだけとなってしまった『右』からすれば明らかによろしくない事態だった。
4 新たなる戦士
ブトウくん率いる『左』の連中はいくつかの共通点があった。
まずひとつは、なぜか構成員の全員がオネエ言葉を喋ること。「やっておしまい!」という号令で突撃してくる姿は異様で、「痛めつけなさい」という命令でボコボコにされて、「これで懲りたかしら」という捨て台詞を吐かれる頃には僕はもう立ち上がる元気すらなくなっていた。裏切り者のケンジもすぐにオネエ言葉を喋るようになった。
そしてもうひとつ、奴らはなぜか前髪を水で濡らしてひとつに束ね、額に垂らすというエキセントリックな髪型をしていた。今思えば馬鹿みたいな髪型だが、当時は薄気味悪くて仕方なかった。ちなみにケンジは短髪だったため、その髪型を作るまでに時間がかかっていた。
このように、いくら理解不能な特徴とはいえ彼らには統率力があった。対して二人だけになった僕たち『右』陣営は、中日と巨人のどちらが強いかいつも論争していて、統率力など皆無だった。因みに僕の地元の愛知県では中日ファンが圧倒的多数であり、リュウイチくんのような巨人ファンはごく少数だ。僕たちは一時期、ガルベスをクビにするべきかどうかで毎日のように言い争っていた。
兵力差を明らかに空けられてしまった僕たちだったが、新たなる戦士がやってくることもあった。その中でも最も心強かったのは中国人戦士だ。
僕たちの小学校の学区には国立研究所があり、職員を親に持つ中国人の子どもが毎年ひとり転校してきて、一年ほどで転校していき、また別の中国人が転校してくるというサイクルがあった。
僕はどの中国人の子とも仲がよく、しかも彼らは皆、遊びにいく際は一度自宅に帰らなければならないという不文律を平気で無視するタフガイばかりだったので、ボディーガードがわりに一緒に下校してもらうことがあった。その際、『左』の連中は僕に手出しすることができなかった。一年程度で転校することが運命づけられている中国人の子たちにとっては、相手の親がPTAだろうがなんだろうが関係ない話だったのだ。
加えて、中国人の子たちは誰しもが喧嘩っ早かった。ブチ切れると唾を飛ばしながら中国語で相手をまくし立てて、その様子は味方ながら恐ろしかった。
ただ、そんな強力な援軍も長くは頼れなかった。五年生のときに来日した中国人が女の子で、ケンカとは無縁の大人しい子だったのだ。結句、その子は僕たちが卒業するまで日本にいて、別の中国人がやってくることはなかった。
そういえば三年生かそれくらいの頃に、僕の家の向かい、ショウタくんと同じマンションに女子が転向してきたことがあった。その女子――ナツコは男子に混じって遊ぶタイプの子で、男子とも平気で取っ組み合いのケンカをする子だった。たくさんのテレビゲームを持っていて、特にミッキーマウスが主人公のゲームソフトを何本も持っていた。僕はそれをプレイしたくて一時期ナツコの家に入り浸りになった。
ナツコが『右』に入れば戦力アップが確実に見込める。そうリュウイチくんに進言してみたことがあったが、リュウイチくんは決して首を縦に振らなかった。いくら男子とばかり遊んでいたとはいえ、やはりナツコは女子であり、女子と仲良くするべからずという絶対的な掟を掲げる我ら『右』に彼女が加入することは許されなかったのだ。
ただ、百メートル戦争と関係ないところでは、僕はナツコとよく遊んでいたし、リュウイチくんも僕の知らないところでナツコと遊んでいたようだった。リュウイチくんがナツコの加入を認めなかったのは、僕たちがナツコを取り合った結果、『右』が崩壊するのを恐れていたのかもしれない。そんなナツコも一年ほどでどこかへ転校してしまった。
ブトウ率いる『左』の木の枝攻撃や竹定規攻撃を完璧に防ぎ切る少年と仲良くなったのは、二年生になってからだった。
お父さんが休みで家にいる土日、リュウイチくんは友達と遊ぶことができなかった。対して、僕の父親は土曜日も仕事だったため、友達と遊ぶことができ、中でもよく遊んでいたのが同じ南ルートを通学路とするネホリンとウッチーだ。
ネホリンは骨のようにガリガリだったからネホリンとあだ名された少年で、ウッチーはお兄ちゃんがいるからか、スニーカーだったりエアガンだったり、いわゆる男の子が好きなものに精通している少年だった。みんながニンテンドー64やゲームボーイに夢中になっているなか、ウッチーはひとりだけセガサターンやプレイステーションをプレイしているようなゲーマーで、僕の周りでドリームキャストを買った唯一の少年でもある。
しかもウッチーは父親が元自衛官だと噂されるほどにサバイバル知識を持っていて、道端に生えている雑草を食べられるかどうかよく教えてくれた。特にミントは生でも食べられると豪語して、自生しているミントを見つけてはよく食べていた。「ハルカも食べてみなよ」と勧められることもあったが、そこで犬が小便をしているのを見かけたことがある僕は、その事実を隠しながら固辞していた。
ウッチーは恐れ知らずの少年として僕たち南ルートの男子から一目置かれていた。彼はみんなが忌み嫌う犬の糞を躊躇せず蹴飛ばすことができたのである。僕たちの小学校は女子のほうが活発で僕もよくからかわれていたので、ウッチーが蹴散らした犬の糞から逃げ惑う女子を見るのはとても痛快だった。
ウッチーもネホリンも通学路でいえば僕らとは逆の『左』に家があったけれど、ブトウ軍団に反感を抱いている数少ない味方だった。特にウッチーは鉄壁の防御を誇り、『左』の連中から木の枝でどれだけしばかれようと平気な顔をしていた。
その秘密はウッチーの服装にあった。当時の小学生としては珍しく、ウッチーは夏も冬も関係なく年がら年中長ズボン、しかもジーパンを履いていたのだ。ジーパンの生地は厚く、木の枝での猛攻などものともしなかった。ウッチーはすぐに『長パンのウッチー』と異名を取り、『左』の連中も眉をしかめるほどに厄介な存在となっていた。
僕もそれが羨ましくて、親にジーパンをねだったことがある。初めて履いたジーパンはゴワゴワしていて動きづらく、休憩時間にやるサッカーに全身全霊をかけていた僕はすぐに履くのをやめてしまった。運動ができればある程度モテる小学生社会において、機動力を捨てて防御力にステータスを全振りしたウッチーは、正真正銘のサバイバーだった。
そしてもうひとり、僕たちが小学三年生になると同時に、シゲという強力な味方が現れた。
シゲはリュウイチくんの弟で、二歳年下なのにも関わらず僕たちの同級生の女子をからかったり、蟻を生きたまま食べてみせたり、無鉄砲で命知らずの子どもだった。
シゲはそんな性分だったから、二歳上にあたる『左』の連中にも果敢に立ち向かった。特に目を見張ったのが奇襲戦法だ。シゲは下級生であることを利用して奴らの警戒を解きつつ、その小さな身体で素早く背後に近づいて、バレないようにランドセルのロックを開けるのがべらぼうに上手かった。その状態で『左』の連中が暴れはじめると、僕たちは今か今かとその時を待った。そして何かの拍子にランドセルの中身が道路にぶちまけられると、僕たちは手を叩いて喜んだのだった。
ただ、やはり小学生における二歳のアドバンテージは埋められず、シゲは『左』の連中に捕まってよく泣かされていた。そのたびに弟の仇を取ると息巻いてひとり立ち向かっていくリュウイチくんの姿を、僕は今でも思い出すことがある。
5 成長と終焉
僕らの小学校は部活動があり、小学四年生になると好きな部に入れるようになる。僕とリュウイチくんは根っからの野球好きだったけれど、野球部がなかったので代わりにソフトボール部に入部した。ソフトボールといえば女子のイメージがあるかもしれないが、僕らが住んでいた市の小学校ではソフトボール部といえば普通男子が入部する部活だった。
対してブトウくん一派のほとんどは水泳部に入部した。水泳部は男女混合の部活であり、しかもプールの使えない冬場は女子と一緒にレクリエーションをやるような部活だったから、僕の闘争心を大いに駆り立てた。更に都合が悪いことに、当時僕が気になっていた合唱部所属の女子が、レクリエーションが楽しそうという理由で水泳部に移籍したのだ。その後を追うように、ケンジの野郎も合唱部から水泳部へと転部した。
水泳部は夏場は校庭から少し高くなった位置にあるプールで練習するため、校庭で練習するソフト部からは見えないが、冬になるとドッジボールやらケンケンパのような、体力づくりと称したただのお遊びを校庭の隅で、しかも男女混合で和気あいあいと行うため癪で仕方なかった。逆に僕が練習でエラーや三振をすれば、女子に見られてしまうリスクがあった。
悶々とした冬が過ぎ、五年生になったある日の休み時間。
僕がひとり校庭で一輪車に乗る練習をしていると、ブトウくん一派と僕が気になっていた女子を含めた女子数人とが、縦半分埋められたタイヤに座って何か話しているのを遠くに見つけた。僕は一輪車を飛ばして彼らに接近し、気づかれないよう背後に回り込んだ。一輪車には前進とバックを繰り返すことでバランスを取り、その場に留まるテクニックがある。僕はそのアイドリングというテクニックを駆使して少し離れたところから会話を盗み聞きすることにした。
聞き耳を立てながら、僕の心は徐々に締め付けられていった。片思いしていた女子がしていたのは恋愛相談だったのだ。
聞きたくはないが聞かずにはいられないジレンマに精神を削られながらも、その中で僕を苛つかせる男がいた。『左』のひとり、エイジンだ。エイジンは背が小さく同級生の女子から弟のように可愛がられていたが、僕は彼が女子からモテたいがためにキャラを演じているのを見抜いていた。証拠となる決定的瞬間を目撃したわけではないものの、男の勘がそう告げていた。
アイドリングを続ける僕に気づかないまま、エイジンは僕が片思いしていた女子の恋愛相談を親身になって聞いていた。しかし、僕はそれがあくまでも親身になっているフリだということがわかっていた。エイジンがしていたのはドラマで見るようなアドバイスで、およそ小学生の恋愛に当てはまるものではなかったからだ。
やがて女子たちはすっきりしたのか、エイジンの頭を撫でたりほっぺたをつっついたりし始めた。正直、この頃の僕はケンカになっても手出しできないブトウくんにほとんど興味を失っていたが、にわかに滾りはじめた嫉妬心で、やはり『左』とはいつか決着をつけなければならないと再認識したのだった。いずれリュウイチくんとブトウくんが大将戦を行うのなら、僕はその前座としてエイジンを仕留めよう。
その頃になると『左』の連中は妨害工作を行ってくるようになった。僕たちは帰宅するまで小石をなくさないように蹴り続けられるかという、壮大なチャレンジにハマっていたことがあったのだが、それを聞きつけた『左』は、スキを見て僕たちの小石を草むらへ蹴り飛ばすという嫌がらせをしてくるようになったのだ。
接近されてからでは手の打ちようがなく、対処するなら距離を詰められる前しかないが、怪我をさせる可能性のある石を投げて追っ払うわけにもいかず、僕たちは手を焼いていた。そんななか、僕が見つけたのは軟式テニスのボールだった。
左右に分かれる突き当りまでの百メートル。その右手には高校が建っていて、テニスコートが道路に面していた。放課後になると軟式テニス部がそこで練習をしており、時折フェンスを越えてしまったボールが百メートルには落ちていた。
軟式テニスボールは全球技の中でもっとも柔らかいボールだと僕は思う。弾力こそあるものの薄いゴムでできていて中は空洞だから、思い切りぶつけられてもほとんど痛くないし、怪我もしない。僕はフェンスを越えたボールを拾って、迫りくる『左』連中の顔面めがけてぶん投げる戦法をとることにした。
その日も僕はひとりせっせとボールを探していた。やがて草むらからひとつのボールを拾い上げたとき、テニスコートの方から「ありがとー」と女子の声が聴こえてきた。体を起こして見てみれば、体操服を着た女子高生のお姉さんが僕に向かってラケットを振っていた。たぶん、僕がボールを拾ってくれたのだと思ったのだろう。
初めて高校生の女子と喋ったことで僕の心臓は高鳴った。格好いいところを見せようと、僕はボールをフェンスの向こうめがけて本気で投げた。
ボールはお姉さんの頭上を優に越えた。そして何度か弾んで転がって、反対側のフェンスにぶつかって止まった。お姉さんはボールの行方を最後まで目で追ったあと、こちらを振り返り、「ありがとー。すごい飛んだね」と、またラケットを振った。僕は、そしてすぐにボールを拾いにいったお姉さんの後ろ姿を、しばらく眺めていた。
その後、僕はボールを拾っても『左』の連中に投げつけることはなくなり、フェンスの向こうに投げ返すようになった。フェンスに近寄ってふわりと真上に投げてもボールをテニスコートに返すことはできたが、僕は毎回道路の反対側の際から思い切り助走をつけて、全力で投げ返した。僕の遠投をお姉さんが褒めてくれることはもうなかった。
小学六年になって僕は少しだけリュウイチくんと疎遠になった。理由は二つあって、ひとつは進級してすぐに僕の引っ越しが決まったことだ。みんな同じ中学に進学するなかで、僕ひとりだけ別の中学に進学すると知った他の子たちが、放課後、僕を遊びに誘うようになった。それまでほとんど遊んだことのないようなクラスメイトからも家に招かれるようになり、中にはリュウイチくんと折り合いの悪い子もいたので、そういうときは僕ひとりでその子の家に行っていた。
もうひとつの理由は、僕に第二成長期が訪れたことである。僕は小学六年生の二学期辺りから急激に身長が伸びた。それも関係あるのか、休憩時間は外で遊ぶより教室に残って女子と喋るほうが楽しくなっていた。それまで女子と話している男子を散々からかってきたから多少の気まずさはあったものの、かといって躊躇もしなかった。
女子と仲良くなっていくのと反比例するように、まだ第二成長期が来ていない男子の言動がやたらと子どもっぽく感じるようになっていた。それまでほとんど観たことがないドラマを観るようになったのもこの頃で、確か月9で内村光良さん主演の『バスストップ』というドラマが放送されていた。その頃、僕はリュウイチくんよりも十センチほど背が高くなっていた。
引っ越し先は父親の実家がある小さな港町だった。父親の実家のすぐ隣には祖父の町工場が建っていたが、祖父は既に引退していて父親も後を継がなかったので、取り壊してそこに一軒家を新築することになっていた。それまで住んでいたマンションでは弟と同部屋だったから、自分ひとりの部屋ができると聞いたときは嬉しかった。
引っ越すといってもそこまで遠いところではなく、僕たち家族は、毎週日曜日になると車で三十分そこそこかけて建築中の我が家を見にいっていた。更地にできた土台のコンクリートを見たときは、とても小さく感じた。
リュウイチくんとは学校では疎遠になっていたが、下校したあとはよくお互いの家で遊んでいた。たぶん、リュウイチくんも僕が引っ越してしまうことを意識していたと思う。自動車で三十分の距離と、例えば新幹線で一時間半の距離は、僕たち小学生にとってみれば同じ遠さだった。
6 ネホリンの架けた虹
骨のようにガリガリなネホリンは物知りで、テストが早く終わっても外には遊びにいかずに図書室で借りてきた雑学の本を読んでいるような少年だった。ボールペンの誕生秘話や、昔の電車は電線ではなく線路に電気を通していたこと、玄米のほうが白米より栄養があることなんかを教えてくれた。そんなネホリンを僕はいつしか尊敬の念を込めてネホリング先生と呼ぶようになっていた。
僕が小学五年の頃、ノストラダムスの大予言が流行していて、その七月は恐怖の大王『アンゴルモア』が地球滅亡をもたらすと予言された月だった。僕はその予言を割と信じていて、だから七月が何もなく終わったことに安堵していたのだが、夏休みの登校日にネホリンとあった際、彼は神妙な面持ちで言ったのだ。ノストラダムスが生きていた時代は太陰暦を使っていて、太陰暦でいう七月は現在使われている太陽暦でいうところの八月に当たるから、実はアンゴルモアがやってくるのは今月だ、と。
太陰暦やら太陽暦のことは当時の僕にはよくわからなかったけれど、ただひとつ理解できたのはまだ安心するのは早いということで、結局、僕は物知りなネホリンのせいで二ヶ月もの間アンゴルモアに怯え続けることになってしまった。
そして、その八月が無事に終わるやいなや、今度は『二千年問題』という問題をネホリンから聞いた。コンピューターの誤作動で核兵器が発射されて、世界が滅亡する可能性があるという。僕が小学五年だった一九九九年は、ほぼ一年中世界の終焉に怯えていた。
ネホリンは忍耐力のある少年でもあった。ネホリンの左手の中指の第一関節と第二関節の間にはイボがあったのだが、小学三年生のとき、彼はそれをシャーペンでつついて自力で取ってしまった。ネホリンは「痛かったよ」と顔を歪めつつ取れたイボを自慢げに見せようとしてきたが、僕は気味悪くて絶対に見なかった。
ネホリンの家は『左』にあったが、僕と仲がよかったから『右』の陣営に所属していた。相手を傷つけてしまう可能性のある攻撃を封じられて苦戦を強いられていた僕たちに突破口を示してみせたのは、このネホリンだった。
ネホリンは下校時まで水筒のお茶を飲まないでおいて、『左』の連中が襲撃してくると満を持して口に含み、相手にぶっかけるという戦法を開発したのだ。打撃も斬撃もダメなら濡らせばいいという発想は頭のいいネホリンならではだし、お茶を放課後まで残しておけるのもネホリンの強靭な忍耐力があってこそだった。
お茶攻撃の威力は絶大だった。『左』の連中は濡れるのを嫌がって近づいてこなくなり、むしろ僕たちを警戒するようになった。残る問題は奴らのチクり癖だけとなったが、お茶は家につく頃には乾くため証拠が残らず、証拠がなければチクりようがない、まさに完全犯罪だった。
連中はそのうちネホリンがお茶を口に装填するスキを狙って攻撃してきたが、ネホリンは学校を出る前から予めお茶を口に含んでおくという斬新な発想で、すぐに克服してしまった。毎年冬になると緑のウインドブレーカーを着ていたネホリンは僕たちにとってはネホリング先生だったが、相手にとっては緑の悪魔だった。
秋頃に上棟式を行った。新居を取り囲む足場に登って二階部分から餅を撒く式だ。餅の他に小銭が入ったぽち袋も投げるので、それ目当てに地元の子どもたちも集まってきていた。僕は見たことのない小学生たちのところへ小銭を撒くのがなんだか癪で、あえて大人たちがいるほうを狙って投げていた。
年が明ける頃には新居はほとんどできていた。玄関を開ければまだ新しい木の匂いがして、和室の畳は青々としていた。僕の部屋になる予定の部屋はまだ家具のひとつも置いていないのもあって、とても広く感じた。
ネホリンが新技を開発したのもこの頃だ。『左』の連中はお茶を浴びないよう背後からネホリンに近づいて奇襲を仕掛けるという戦法をとっていたが、それを打破すべくネホリンは『ネホネホバックファイヤー』を編み出した。イナバウアーの要領で上体を後ろに思い切り反らし、その勢いのまま後方へ噴射されたお茶は、空中に綺麗な弧を描いた。
リュウイチくんの挙動がおかしくなったのもこの頃だった。ある日、一緒に下校していると、リュウイチくんは何を思ったのか通りがかった中学生にケンカを売った。突然、中学生の正面に立ちはだかって中指を立てたのだ。まだ第二成長期が来ていないリュウイチくんは百四十センチそこそこしかなく、対して相手の体格は少年期の終わりを迎えていた。
幸いにもその中学生が僕たちの一個上で、しかも同じソフト部に所属していた顔見知りだったから苦笑いされるだけで済んだが、もしケンカになっていたら間違いなくボコボコにされていただろう。たぶんリュウイチくんもそんなことはわかっていて、それでも腹の奥に溜まっていくモヤモヤした何かを、どうにかして放出したかったのだと思う。実際にあのときのスリルは、今まで味わったことのないものだった。
日曜日、家族とともに新居の見学に訪れた僕は、近所の人と会話する親を横目に駐車場で壁当てキャッチボールをしていた。
引っ越し先の学区の小学校には部活がないかわりに軟式野球チームがあって、毎週末に練習をしていると父親から聞かされていた。対して僕はソフトボールの経験こそあれど野球の試合はしたことがなく、野球といえば父親相手にピッチング練習をするか、リュウイチくんとキャッチボールをする程度しかしたことがなかった。
それでも僕は中学生になったら軟式野球部に入部しようと決めていて、引っ越し先の子たちとの差を少しでも埋めようと焦っていた。それに、小学五年生くらいまでは「将来の夢はプロ野球選手です」と臆面もなく言い放つほどには漠然とした自信もあった。
新居は国道に面していて、国道は地元の中学生の通学路だった。新しく建った家が珍しいらしく横を通りがかった中学生はみな、新居を眺めながら自転車で通過していった。
そんななかで壁当てを続けていると、ひとりの中学生が新しい家に近づいてきた。自転車に跨ってはいるものの、ペダルは漕がずにゆっくりと。
どくん、と心臓が鳴った。そして僕は、名前も学年もわからない彼に中指を立てた。
中学生は一瞬目を丸くしたものの、リュウイチくんがケンカを売った中学生と同じように苦笑いを見せたあと、何も言うことなく自転車を漕いで去っていった。僕はしばらく胸の動悸が収まらなかった。
小学校の卒業式まであと数日。言い換えれば僕が引っ越すまであと数日。
その日も『左』の連中が襲ってきた。ところがリュウイチくんはこの戦争を中学編へと持ち越す覚悟ができているのか、過剰には反応しなかった。それがなんだか寂しくて、僕は『左』の連中を挑発して引きつけて、からかいながら逃げた。距離が離れると少し待って、奴らが振り回す木の枝が当たるか当たらないかまで引きつけたところで、また逃げた。ロッカーの片付けは既に済んでいたから、体操着袋も給食袋ももう持っていなかった。だからひたすら逃げて、引きつけて、また逃げた。
そうして逃げていると百メートルはあっという間の距離だった。途中で振り返れば『左』の連中の後ろからリュウイチくんも走って追いかけてくれていた。
百メートルの終わりの『右』と『左』が分かれる突き当り、緑のジャンパーの少年が立っていた。水筒からコップにお茶を注いでいるらしかった。『左』のひとりがその一瞬のスキをついて彼のランドセルのロックを外して、すぐさま離脱した。シゲが得意としていた戦法だ。
それに気づかないままお茶の装填が完了したネホリンは思い切り上体を反らして、その勢いのまま後方へとお茶を噴き出した。同時、逆さまになったネホリンのランドセルから教科書が全部地面に落ちた。
ネホネホバックファイヤーは空中に綺麗な弧を描き、ネホリンの教科書すべてを濡らしたのだった。
了