ぶつかってくる
それは、ある夏の、台風の夜のことだった。
台風接近に伴って、都内を走る各鉄道会社の路線の殆どが終電を繰り上げることが夕方頃急遽決まった。大学生のAさんは、午後の2コマ目以降の講義が休講になったので、繰り上げられた終電前になんとか電車で家に帰れるようにと家路を急いでいた。Aさんの実家は郊外の住宅街にあったため、都内の大学に1時間半かけて毎日通っていた。順調に乗り換えが上手くいけば問題ないのだが、その日は早められた終電に誰もが乗り遅れまいと、地下鉄のホームに来るどの電車も満員で、そこにすし詰めとは誰が上手いことを言ったのか、文字通りさらに人が雪崩れ込む始末だった。
むせるような濡れたヒトの匂いと、ひっきりなしに鳴り響く電車の発着音、それを上書きしようとでも言うような駅員の怒号で、ホームは半ばパニック状態だった。Aさんも負けじと人混みに体を捻じ込み、列を割り込まれぬように鞄を胸の前で抱き締めて身を固くしていた。この路線の電車にさえ乗れてしまえば、最寄駅まで辿り着ける。最寄駅に着いたら、そこから先は、最悪バスが終わっていても、親に駅まで車で迎えに来てもらうか、タクシーでも拾えばいい。そんなことを考えていると、腕に込めた力と人混みで薄まった酸素が相まってAさんの気を少しずつ遠くし始めた。しかし、Aさんの腕から鞄がするりと逃げかけたその時、誰かがAさんの背中にドンとぶつかった。一気にAさんの意識は覚醒して、すぐに肩越しに振り返った。しかしそこには、じわじわとホームの奥に向かって動く人の列があるだけで、誰がぶつかったかなど皆目見当もつかなかった。Aさんは少し頭に来て、誰にとはなく前を向いたまま少し後ろに押し返した。大したことはない、Aさんひとりの圧は、すぐに人の層に吸収されていった。そこに、電車がホームに入ってきた。これまでに来たどの電車とも変わらず車内は満員だったが、随分Aさんの前の列も前の電車で消化されていたので、Aさんも今度の電車には乗り込めそうだった。ほんの数人が降りた車内の隙間に、その数倍の人数が押し寄せる。Aさんも腹を決め、一歩前に踏み出した。が、そこにまた、Aさんの背中に誰かがぶつかってきた。またか、とAさんは思ったが、この電車に乗り遅れたとして、次の電車に乗れるかどうかも危ういこの状況では、後ろを確認する余裕もなく、押された勢いそのままにAさんは電車の中へ突進した。
Aさんはそのまま人の波に流され、車両の反対側のドアの中央に収まった。よかった、車内でも割と余裕のあるスペースが確保できた。人は多いが、椅子の前に比べれば大したことはない。Aさんは少し安堵して、車両のドアに左肩と頭を預けて目を瞑った。
するとまた、ドン、と誰かが右肩にぶつかった。ドン。ドン。ドン。電車の揺れのせいかとも思ったが、それにしてもどこかしら捕まり直すとか、どうにかしろよ、何度も何度もなんなんだよ、と思い、ぶつかってきた人がいるであろう方を薄目を開けて横目に睨みつけた。しかしそこには、長身でがたいの良いサラリーマンのスーツの首元があるだけだった。サラリーマンが視線に気付いてAさんを見下ろす。元来気の強い方ではなかったAさんは、気まずくなって目線を足元に外した。
そこでAさんは気付いた。違うのだ。ぶつかった時の感触は、サラリーマンの胸板のような広範囲な圧ではなかった。もっと、面積の狭い、そう、それはまるで、Aさんより少し背の低い誰かの頭突きのような。
その時、Aさんの視界の左端で何かが動いた。と同時にまた、ドン、とひときわ大きな衝撃的がAさんの右肩を襲った。Aさんがゆっくりとドアについている窓を横目で見るとそこには、自分とサラリーマンの間に誰か立っていた。人が立てるような隙間が自分とサラリーマンの間にはないことは、今しがた自分の目で確認してしてしまっていた。その誰かは今、ガラスの中でAさんの右肩に頭をもたれるようにして立っている。Aさんは呼吸さえできずにその頭を見つめていた。少し乱れた長髪の生えた頭は、やがてゆっくりともたげ始めた。少しずつ、顔があらわなってくる。その顔を見て、Aさんはまた息を呑んだ。おそらく女性であろうその頭についている顔には凹凸と言えるようなものが何もなく、目や鼻の穴があるはずのところはクレヨンで塗りつぶされたように真っ黒な穴が開いていた。口も、同じようにただの黒い穴が開いているのみだが、その口はずっと何かを呟くようにパクパクと動いている。その間にも女は少しずつだがどんどんは顔を上げてくる。そして、目があればAさんと目が合っていたであろう角度まで顔が上げられた時、Aさんの耳に、はっきりと女が何を言っているのかが聞こえてしまった。
「お前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろお前が落ちろ」
Aさんは、最寄駅への到着を待たずに次の停車駅で電車を飛び降り、駅前の24時間営業のファミレスで夜を明かしたそうだ。