27 社畜は仕事中も彼女の言葉を思い出す…
それから数日経った夜。大智は最近では珍しく、夜遅くまで会社に残っていた。
クライアントとの打ち合わせが長引いたこと、帰社する直前に人身事故が起こった影響で移動に時間がかかったことなどが重なり、明日クライアントに見せることになっている資料作りがまだ終わっていなかったのだ。
「えーっとインプレッションとコンバージョンが低下しているのは……全体収益の改善のためにはここのバナー枠を……あ、違うここミスってる……」
今日何度目かのケアレスミスが発覚し、大智はうなだれるようにイスにもたれかかった。
結果、資料を作る手が止まる。自然と左手は頬杖をつくために移動し、先程までEnterキーを押していた右手人差し指――大智は不器用なので、ブラインドタッチではあるが左右2本の人差し指ですべてのキーを担うという、かなり独自の、社会人としてはあまり褒められない方法を取っている――がデスクとトン、トン、トン……と叩く。
「大智さんって……どうしてそんなに私の気持ちがわかるんですか?」
ブラック企業とは言え、22時になれば社員の数は半数近くにはなっているし、朝から業務した結果、疲労も相応に溜まって活動も鈍化しているので、自然とオフィスは静かになっている。ゆえに、人差し指が生み出す規則正しい音は、聴覚にまつわる神経を刺激し、大智の脳内で葉豆の声を再生させた。
湿り気を帯びた、甘ったるい声に、大智は思わず背筋がゾワッとしそうになる……が、大智のオトナな部分が、つまり理性がそれを止める。失礼だと、言い聞かせた。
(どう考えても……あのときの葉豆ちゃんはそういう感じだったよな……)
恋愛経験などほとんどない大智だったが、自分を偽ることすら知らない高校生の女の子の気持ちに気づかないほど野暮な男ではなかった。というか、葉豆はわかりやすすぎるのだ。
(でも、なんでよりによって俺なんだよ……)
そんなことを思ううちに、大智は自然と、葉豆と相対していたときに感じた『虚しさ』にも似た感情について想いを馳せた。
数日前――大智は葉豆から進路について相談を受け、そこで彼女の背中を押してあげた。時間をかけて話を聞き、自分のことも適度に開示し、そのうえで「本当はもう気持ちは固まっているんじゃないのかな?」と告げる……ということをした。
あのときした対応は、オトナとして至極オーソドックスな行動だったし、少なくとも、大智はそうだと思っている。結果、葉豆はその行動に至極感激し、大智のことを「エスパー」だと称賛したくらいなのだから、間違ってはなかっただろう。
だが、大智はそこに虚しさを覚えたワケで……モヤモヤした気持ちはなにが原因なのか、数日考えたのだが、結論は案外簡単なものだった。大智は、
――オトナとして当然の行動だからこそ、俺は虚しくなったんだろうな――
とあのとき、感じていたのだ。
葉豆から進路に関する相談を受け始めた直後こそ、大智も自分の頭で考え、必死に咀嚼しようとしていたが、蓋を開けてみれば出てきたのは、世のオトナたちが普通にやっている行動だった。必死で考えた結果、普通の行動に着地したことに、自分という人間のちっぽけさを感じ、褒められたり感謝されたりするほどの行動ではない……と思ってしまったのだ。話しながら漠然とそう感じたし、葉豆が見せた感激も、その気持ちを大きくした。
また、背中を押すという行動が、言ってしまえば「なんの責任のない立場の人間が取るべき最適解」であることに気づいたというのも、虚しさの一因だった。
当たり前だが、大智は葉豆にとって他人だ。だからこそ、肉親である両親とは言うことも当然変わってくるワケで、自分の本心を告げる必要などこれっぽっちもない。むしろ、厳しいことを言えば嫌われたり、関係に支障をきたす可能性もあるワケで、相談される側にとってメリットはない。
そう考えると、背中を押すという行動は便利だ。人間の感情なんて曖昧なモノなので、「本当はもうどうしたいか決まってるんじゃない?」と言ってしまえば相手も自然と「そうかもしれない」と思うに決まってるし、そもそも我々は背中を押すという行為をなぜかポジティブなモノだと捉えている。実際は、地獄に向かって背中を押しているだけの可能性もあるのに、そんなことは疑わないのだ。
(言ってしまえば、背中を押すなんて思考停止なんだよな。相手が葉豆ちゃんじゃなくても対応できるというか……)
オトナになると言えば、昔はポジティブな捉え方しかしていなかった。しかし、実際に年齢を重ねてみると、それは決して良い面ばかりではない。むしろ、表面的な協調とか波風立てないとか責任を巧みに回避するとかそれでいて自分の評価は下げないようにするとか、なんというかそういう行為が多いことを知ったのだ。本気で人とぶつかることなど、もう長らくしていない気がする。
「その点、まっすぐだよな、彼女は……」
葉豆の真っ直ぐな、熱を帯びた目を思い出す。美人ランナーとしてアイドル的な人気を誇った富久南帆子譲りの、美しい二重の瞳。薄めの、整った唇がギュッと閉じたあと、開いて、大智の名前をどこか特別な感じで呼ぶ……
「久しぶりだな、こんな遅くまで残ってるのは」
背後から陽気な声が聞こえ、大智は小さくハッとする。
反射的に右側から振り向くが、もう声の主の姿はそこにはなく、左隣のイスがきしむ音が聞こえた。見ると、高田がニヤッとしている。
「まだ22時だろ。定時まであと2時間もある」
「だいだいの中では24時が定時なんだな」
「で、なにか用か?」
「用? 用なんかないよ。ただ仕事一段落ついたから遊びに来ただけ」
「あのな。お前の休憩が俺にとって邪魔になる可能性は考えなかったのか?」
「考えたよ。考えた結果、よし邪魔しようって思って来た」
高田がにんまりと笑う。悪意しかないその表情を見ていると、逆に大智は清々しい気分になった。それに今はちょうど、仕事の手が止まっていたところだ。本当に邪魔かと言うとそんなこともないし、高田もそれを見計らったうえでやって来ているのだろう。
そして、高田はこう続ける。
「ま、仕事が普通に多い感じなら俺も声かけないよ。でも今日のだいだい、なんかあんま集中できてない感じだったから」
「……集中できてないワケじゃない……と思うけど」
「女だったよな?」
「そこもう『女か?』って聞かないんだな」
「それはこないだ確定しただろ?」
「そうだっけ」
「そうだよ」
高田は悪い男ではない。むしろ信頼できる相手だと言える。
だけど、大智の場合、事情が込み入りすぎている。ただでさえ、葉豆とはおかしな始まり方をしているのに、なんの因果か、どうやら自分は彼女に想いを……。
「……まあちょっと、色々ありそうな感じで」
高田に対し、また自分に対してもお茶を濁すような返答をする。
「そこは色々あった、じゃないんだ」
「まあな。なにもないかもだけど」
「そっか。じゃあなんかあったら優先して教えてもらうってことで」
そう言うと、高田は席を立って去っていく。大智はんーっと背中を伸ばすと、パソコンへと向かい始めた。
○○○
大智に対して、女の子ではない、女としての表情を見せた葉豆だったが、あの日以降、とくに変わったことは起こらなかった。以前と同じようになにかとLINEが来るだけで――まあそれが十分変わっていると言わればそれまでなのだが――、とくに踏み込んだ話題もなく、進路に関する相談をふたたびされることもなく、他愛のないやり取りが続いた。
……と思いきやである。一週間の勤務が終わり、電車という閉鎖空間の中で開放的な気分になっていた金曜日の夜、葉豆からこんなメッセージが届いた。
『だいちさん、もし良かったらこれから少し会えませんか……?』




