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妄想の代償  作者: 楠木風画
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第1話

 彼女は真っ白なシーツの上で、すっかり安心しきった表情で眠っていた。彼女の息遣いや温もりは、子守唄のように僕の心を包み込み、心地良い眠りへと誘おうとしているかのようだ。

 そっと彼女を抱き寄せると、柔らかい肌に包まれた体の中には、まるで暖めたミルクでも入っているかのように甘い香りが漂い、自分の体がその中に優しく包まれていくように感じた。

 彼女の漏らした子犬のような声は、僕の腕に抱かれている体が、あまりにも華奢であることを僕に気付かせた。彼女の無事を確かめようと、そっと体を離すと、少しずつ、彼女の表情が見えてきた。

 それが紛れもなく由紀であることを確かめると、僕の心臓は切なさと喜びでしくしくと痛んだ。彼女を求めて身代わりに抱いた枕は、もう必要なかった。


 高校時代の憧れだった由紀の表情は今や大人の女性のそれだった。丸みをおびていた輪郭は余分なものが削ぎ落とされ、涼しげな印象に変わっていた。

 セーラー服の大きな襟に広がって、背中の曲線が光の輪を作り、午後の教室の斜光に亜麻色に輝いていた彼女の髪は、今もそのままだった。肩にかかるかかからないかぐらいの短くスマートな髪型に変えていたが、大人びてきた彼女の輪郭にぴたりと合っていて、どこか寂しさを感じさせる神秘的な印象を与えていた。

 彼女の髪を指に絡めながらそっと撫でると、うっとりとしたように目を閉じて優しい笑みを浮かべている。

 その微笑を見て僕は思い出した。高校の美術の授業だった。


「浩次君。あなたのその絵、私のとちょっと違うみたいなんだけど」

 先生のお手本を無視して、果物と陶器を自分の好きなように配置した僕の絵を見ると、由紀は唐突に話しかけてきた。僕はその日まで由紀とほとんど口をきいたことがなかったが、その時の彼女の声や、長い髪から漂っていた優しい匂いは、今もくすぐったい感じとともに鮮明に思い出すことができる。

 入学式で出会ったその日から、僕の高校時代は彼女に捧げたも同然だった。授業の時間割表は、そのまま彼女と会うための予定表となった。だが一目惚れ同然で好きになってしまったことが、皮肉にも僕を彼女から遠ざけることになった。彼女の前では石のように固まってしまう自分をどうすることもできなかった。友達と楽しそうに話している彼女の声を聞くだけで、彼女と会話した気になっている、そんな内気な少年だった。

 そんな訳だから、彼女にしてみれば何気なくかけたその言葉も、僕にとっては直下型地震に襲われたも同然の出来事だった。

 僕は哀れなほど身を震わせながら、慣れない筆使いで慎重に描いていた油絵からはっと顔を上げた。

「えっ?」

 話しかけた相手が思いのほかびっくりし、ポカンとした表情で自分を見上げたので、最初申しわけなさそうな表情を浮かべた彼女だったが、そんな僕の反応が可笑しくなったのだろう。もう我慢できないといった様子で吹き出してしまった。

 想像の中でしか親しく会話をしたことのない彼女が、今楽しそうに僕に笑いかけている。

夢よりも夢のような瞬間だった。

「な、何かな?」

 僕は誰が見てもぎこちない様子でそう答えると、自分の顔がみるみる上気していくのを感じた。僕に向かって話しかけてくれた彼女の笑顔を見ていると、これまで何度決心しても彼女に話しかけられなかった昨日までの自分が嘘のようだった。会話のきっかけをつかんだ今、僕は彼女と一秒でも長く話したいという思いでいっぱいだったが、何か言わなければと焦れば焦るほど、頭の中で言葉が逃げ出してしまうみたいだった。

 落ち着きなく視線を泳がしていると、彼女の首すじに虫刺されのような赤い腫れがあるのに気付いた。僕はそれを救いの手のように感じ、すぐにその話題に飛びついた。

「それ、どうしたの?」

「え?あー、これ?」

 まるで、顎の下に隠れている自分の首すじが見えるかのように、彼女は視線を下に向けながら答えた。

「なんか、寝ている間にできちゃったみたいなの。別に痒くないから蚊じゃないと思うんだけど。今朝はこのせいで、ちょっと憂鬱だったの。もー!恥ずかしいな。やっぱり目立つ?」

 一息にそう答えると、彼女は答えを待つように僕に視線を戻した。クルクルと変わる彼女の表情に見惚れていた僕は、急に答えを求められてまたドキリとしたが、

「いや、別に憂鬱になるほど目立たないよ」 となんとか答えた。

「そんなこと言って。私を見るなり、すぐ見つけたじゃない!」

 答えに困ってただ笑っていた僕に、彼女は優しく微笑みかけてくれた。


 あの時と同じ笑顔が、今、自分の目の前にあった。

「うーん」肌触りの良い白いシーツの上で居心地の良さそうな伸びをすると、彼女は言った。「どこ見てるの?」

「どこって?もちろん君に決まってるよ」

「あー、嘘ついてる!どっか遠くへいっちゃってる目だったぞ。浩次君の考えてることだったら私ぜーんぶ分かるんだから、嘘ついたってダメ」

 彼女はそれを、どうやったら飼い主を喜ばせるかを承知している子猫のように、甘えた猫なで声で言ったのだった。僕は胸が一杯になって、何も言うことができなかった。

 僕の鼻を人差し指で押さえることで言葉を締めくくると、彼女は僕に顔を近づけてきた。僕の視界は彼女の顔で埋め尽くされ、彼女はゆっくりと視線を落とした。そして目を閉じた。

 そこに漂っていた甘い期待は、隙間風のように僕の体を吹き抜けた何か冷たいもので破られた。それは失くしていた記憶の切れ端だった。

 由紀と親しく話したのは、あの美術の授業が最初で最後だったはずだ。たった一度微笑みかけてくれた天使を失望させるのが怖くて、僕は自分を変えることができなかった。卒業式の日、彼女に声をかけられず、蒼白の顔で帰宅した自分の姿が、昨日のことのように思い出された。

 そんな救いようのない高校時代を過ごした僕が、どうして今、彼女を抱いているのだろう?

 

 ここに彼女がいる訳がない。

 彼女は偽者だ!

 

 僕は突然押しかけてきたその記憶から彼女を奪われまいと、華奢な彼女の肢体を、強く、折れるほど強く、抱きしめていた。僕が抱いているのは由紀だ。だってこんなに温かいんだから。

 祈るような気持ちで目を開けると、由紀は少し赤らんだ顔で僕を見つめていた。彼女の全身の火照りは、僕の狂おしいまでの愛情の炎が、彼女に伝わったからに違いなかった。さっきまでの悪戯っぽい表情は消え、艶っぽい女のそれになっていた。

 そして唇を重ねた。もう何も考えられなかった。皮から取り出したばかりの甘い果実を口移しで受け取るかのように、優しく口付けを交わした。

 やがて時間の感覚もなくなり、二人の気持ちはひとつになった。

 けれど、彼女が長い口付けから柔らかな唇を離し、僕の顔を両手で優しく包みながらささやいた名前は、僕の心を引き裂いた。

「あなたのキス好きよ、真人」

 その言葉を最後に、僕は奈落の底へと突き落とされた。

 そして目が覚めた。

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