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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
嫉妬 −ガーベラ
9/63

トゥリル


「今日で終わりにしたいと思います」


意外な言葉が出て、私はえっと顔を上げた。


矢島さんは、たくさんのオレンジ色のガーベラを、腕に抱えている。

ああ、男の人でも。こうして矢島さんのように、花が似合う人がいるんだなあ。


そんな風に考え込んでいたので、その返事に詰まってしまった。


「え、あの、」


『嫉妬』は未だに、私の中で燻っており、先日教授から聞かされたことがまだ頭を占めていて、その事実が私の血液をゆっくりと巡りながら、私を侵していく。


『祝ピアニスト 宮島 えいさん 県民栄誉賞受賞』


「宮島な、いくつものコンクールで受賞歴があるのは、みなの知るところだが、最近では文化施設とのコラボコンサートを精力的にこなしているそうだぞ。ほら、ここ」


教授はガサガサと音をさせながら、新聞の切り抜きを指差し、見せてくる。


「県の芸術界に貢献と書いてある。ははは、まあ私も鼻が高いというものだ」


そして、その切り抜きのコピーを渡してくる。ファイルには何枚もコピーがしてあって、誰彼構わずに渡しているようだ。


私は。

受け取れなかった。


具合が悪いのでと言って、レッスンを途中で抜け出してしまった。


その日、初めて。

私は、ピアノの練習を放棄した。


それで心が軽くなれば良かったのだろうけど、私の中の鉛のような心は、重さを増して、もっともっと深い海溝の底へと沈められていく。


「佐藤さん? 始めても大丈夫ですか?」


矢島さんの声に、はっとする。


「ハーブティーでもお持ちしましょうか?」


優しげな声は、京子さん。初めて、この『眠り屋』を訪ねた時は不在だったが、ここ数回は同席している。前に一度、すれ違ったことのある、ボブカットの女性。あの時、私を気にしていてくれたのは、やはりこの『眠り屋』の人。わかる。ここは、親身になってくれる人ばかりなのだ。


「大丈夫です」

「気分がすぐれないようなら、遠慮なく言ってくださいね」

「はい」


矢島さんが、抱えていたガーベラのひとつを選んで、すうっと引き抜く。花束を近くのテーブルに置くと、それはそれは優しい手つきで、持っているガーベラの花びらを千切っていった。


「オレンジのガーベラの花言葉は、『我慢強さ』です。あなたはずいぶんと、我慢をされましたから、それでピアノがとてもお上手なのですね」


矢島さんが、優しく微笑みながら、握ったこぶしを向けてくる。その握っている手の指が、一本、一本、開かれていくのを、ただ見つめた。


「私なんて才能もないし、そんなに上手ってほどじゃないですよ」と言おうとした口が重くなり、そして次第にまぶたまで、重くなっていった。


まぶたの裏側には、残像。

矢島さんの指が、長くて綺麗で羨ましい。そう思ったような気がした。



✳︎✳︎✳︎


「こんにちは、ようこそ夢の中へ」


矢島さんが立っている。手をかけているのは、大きなグランドピアノ。譜面台には楽譜が立てかけてあり、どこかから吹く風に、さわっ、さわっと揺れている。ページがめくられそうになり、矢島さんが慌てて、手で押さえた。


「すみませんが、こちらでここ、押さえていてくれませんか?」


気がつくと、ピアノのイスも二つ、用意してある。

そろっと近づいていき、一つの方のイスに座り、楽譜を手で押さえる。


『モーツァルト : きらきら星変奏曲』


誰もが知る、「きらきらひかる おそらのほしよ」を、いろんなパターンのリズムやメロディーにアレンジした曲だ。作曲家モーツァルトは恋の歌を基にこの曲を作った時、後にこの曲がきらきら星の原曲となることを知ってはいない。


「や、矢島さんが弾かれるのですか?」


信じられない、というような面持ちで問う。

私の隣にそっと座った矢島さんが、手を鍵盤の上に乗せた。


「はい、そうですよ。どうぞ、リラックスしてお聞きくださいね」


ツェー ツェー ゲー ゲー アー アー ゲー ゲー / エフ エフ エー エー デー デー エー ツェー

きらきらひかる / おそらのほしよ


(あ、ちゃんと、弾けてる)


しかも、両手で。


私は矢島さんの横顔をそっと窺い見た。とても真剣な眼差し、唇を引き結んだ、男らしい顔。丸眼鏡の中の瞳には、今。白と黒の鍵盤と、そして目の前の音符の羅列だけが映っている。


あ、でも装飾音符が。そこは、トュルルラーラ。


私は吹き出しそうになった。

当の本人、矢島さんはそこで、何度も弾き直している。


「ここが難しいんですよね」

「矢島さんは、素人ですよね? いきなりそれは難しいですよ」


このモーツァルトの、『きらきら星変奏曲』は、最初の第一部分は簡単なのだが、第二部分からは、ぐんっと難しくなり、演奏者を翻弄する。


曲としての難易度は、簡単そうに見えて、実はとても難しいのだ。


私が、装飾音符の部分を弾いてあげると、矢島さんはにこっと笑って、その真似をする。


「佐藤さんっ、ゆ、指が絡まりそうですよ」


矢島さんの長い指が、鍵盤の上を右往左往する。長い指は、それだけで官能的だ。私の短い指は、それすら合格点に及ばない。


もう一度、装飾音符の演奏方法の見本を弾いてみせる。すると、それを真似しようとする矢島さんの指と私の指が、そっと触れ合った。


「あはは、そうですね。絡まっちゃいますね」


悪戯心がむくむくと湧いてきて、するっとその長い官能の指に、私の指を絡ませる。

そして、してやったりという顔を作り、流し目で見ると。


矢島さんがこちらを見ていた。丸眼鏡のグラスの向こう。熱を帯びた、黒い瞳。目を細めて、私をじっと見つめてくる。

どっと、心臓が鳴った。そうなって初めて、喉の渇きを知った。


私がその熱に圧倒され、絡めていた指を引くと、矢島さんはいつものニコニコ顔に戻り、そして前を向いた。


「それではもう一度」


両手を鍵盤に戻す。

そして。


ドー ドー ソー ソー ラー ラー ソー ソー /ファー ファー ミー ミー レー レーミ ドー

きらきらひかる / おそらのほしよ


そして、簡単な第一部分が終わり、矢島さんが手を引いた。

立ち上がって、イスを譲る。手で、そっと私を呼び、促す。


私はそれに応えて、矢島さんのイスに座った。


目の前には、黒と白の鍵盤。夢の中ならいいや。ミスタッチも強弱も関係ない。好きなように弾こう。

両手を置く。相変わらず、指は短い。


(夢なんだから、ちょっとぐらい長くしてくれたって、いいのになあ)


そう思うと、少し可笑しくなった。


矢島さんが弾いた第一部分。その続きの、第二部分から弾き始める。指は、気持ちとは裏腹に、軽く軽く、鍵盤を叩いていく。気持ちがいい。中学生の頃、この曲は何度も練習したから、指がどの鍵盤かを覚えている。


指が、鍵盤に吸いつくようにして、走っていく。私とピアノは一体になった。

軽く、軽く、そして楽しく。

最後の鍵盤を叩き終える。私はいつのまにか笑っていた。


ピアノにもたれかかって聞いていた矢島さんが、その居住まいを正して、拍手をしてくれる。


「素晴らしい演奏でした‼︎」

「矢島さん、」


笑顔で、私は言った。


「楽しかった。とても、楽しかったです。ありがとうございます、ありがとう」


すると、矢島さんが笑って言った。


「さっきの装飾音符とやらの部分もそうですが、あなたの演奏は、まるで蝶々が飛ぶように軽やかですね」


その言葉に。


もう一度、心臓が鳴った。


笑顔が、すうっと引いていく。その引き潮の痛みに、唇を噛んだ。


それでも矢島さんは構わず、続けた。


「いえ、ちょっと待ってくださいよ。蝶々とはまた、違いますね……えっと、言葉にして言い表すのが、難しいのですが」


私が、噛んでいた唇を開ける。


「……もしかして、羽根のある妖精が水面を飛び石のように軽くジャンプしていく感じですか?」


私は以前、宮島がそうやったふうに、ピースにした指を下に向け、人がジャンプしていくように、動かした。

矢島さんが大きく手を打って、ああ、そんな感じですっ、と言った。


「その表現、ピッタリですね」


私が苦笑すると、矢島さんが不思議そうな顔をしてから、笑った。


「あなたにしかできない、演奏技法ですね」


……私にしかできない、演奏技法?


はっとした。


確かに宮島は、私とはレッスンの前と後。私が弾くピアノを、ずっと廊下に置いてある待ち合いのイスに座り、聞いていたはずだ。防音室とは言えど、音は漏れ聞こえる。


(じゃああれは、……私の、私の演奏から……)


そうなんだ。

宮島が。


私の演奏の良いところを、見つけ出してくれたんだ。

聞いてくれていたんだ、耳を澄ますようにして。広大な樹海の中、たったひとつの『私』を探してくれた。


私の中に唯一、光るもの———。


そして、私は夢から目覚めた。

目覚める時。

頬を伝う涙の感触とともに、宮島のはにかんだ笑顔を、思い出した気がした。



✳︎✳︎✳︎


「『夢の中じゃないと、ピアノなんて弾けませんよ』……なーんて、なに男前なことを言っちゃってるんですか」


京子さんが、いったい何を怒っているのかわからないけれど、僕はなんとなくここは自分が折れた方が良いんじゃないか、そう感じるものがあって、言葉を選んでみる。


「だって、現実でピアノを弾くだなんて、恥ずかしいの極みですから。夢の中なら、多少下手でも許されるのかなあって」

「でも佐藤さん、先生はピアノなんて弾けないって思ってるでしょ?」

「そりゃそうですよっ。僕のどこに芸術の要素が見られます? 京子さん、僕のこと、小馬鹿にしてますね」

「違いますよっっ、まったく先生は鈍感なんだからっっ」

「鈍感って言われたって……なんのことかさっぱりですよ」

「本当はピアノ、あんなに練習したじゃないですか‼︎」

「あれは、京子さんがスパルタだったってだけで……まあ確かに京子さんにピアノをお借りして、僕も頑張りましたけどねっ」


京子さんが、ぷんっとそっぽを向いて、キッチンへと入っていく。

僕は、佐藤さんからいただいた菓子の箱を手に取ると、包装を破り始めた。


「なんなんですかねえ、京子さんのあの態度と言ったら」


僕もプリプリしながら、ビリっと破っていく。蓋を開けると、ふわっとカステラの甘い香りが漂った。

キッチンからは、ガチャンガチャンと大仰な音が立つ。


「コーヒーメーカー壊さないでくださいよ。まったくもう」


けれど、キッチンからは「まったくもうはこっちのセリフですよっっ‼︎ 先生ったら、全然わかってない‼︎ もう私が留守の時に、ピアニストを事務所に入れちゃダメですからねっっ‼︎」


だから、ピアニストじゃないって言ってるのに。

僕は呆れて大きなため息をついてから、カステラをトレーに乗せていった。


けれど、良かった。

僕は今、ホッと胸を撫で下ろしているのだ。


(グランドピアノなんて大きいもの、夢の中で用意したことがなかったので、ちゃんとできて良かったです)


僕は仕事で入る『夢』においては、あまり積極的に登場人物への接触はしないようにしている。ただ、今回は、その『夢』が直接の原因ではなかったので、これはと思い、そして彼女に、夢の中で思う存分ピアノを弾いてもらおうと考えたのだ。


「楽しそうに弾いていたなあ」


僕が、あの佐藤さんの笑顔を思い出しながら呟くと、キッチンから戻ってきた京子さんが、僕の前のテーブルに、ガチャンっと音をさせて、コーヒーカップを置いた。その瞬間、ぶしゃあっと黒い液体が飛び散る。


「ちょ、京子さんっ、なにす、」

「先・生」


僕の抗議を遮るドスの効いた声。


「ピアノの特訓、もう一度やります?」


京子さんのあの鬼教官ぶりを思い出すと、ぞわっと背中が寒くなる。


「も、もう結構です……」

「そうですか、残念」


すると、誕生日プレゼントの砂時計をくるっと回して、僕の前に置く。


「先生、三分が限度です」

「はえ?」

「美人と二人っきりになる時は、これをお使いください」


僕は、カステラをすうっと京子さんの前に差し出してから、「……わかりました」と小さく答えて、自分もカステラの切れ端を口の中に放り込んだ。




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