呪縛
「俺、佐藤のトゥリルやターン、好きだなあ」
防音室が並ぶ廊下の先、談話室の自販機で飲み物を買おうとして、偶然出会った、宮島が言った。
「宮島くん、あなたねえ……そんなの、みんな同じでしょ」
バツが悪いような気がして、私は財布から出した百三十円を、手早く自販機に突っ込んだ。
「一緒じゃねえよ。おまえのはさ、蝶々が飛んでくみたいっつーか、……いや、違うな」
宮島が、右手に持っていたコーヒー缶を左手に持ち替えた。自由になった右手で、ピースを作り、下へ向ける。
「こう羽根の生えた妖精がよ、水面をぴょんぴょんって飛び石みたく飛んでいく、みたいな?」
ピースサインの人差し指と中指を、妖精の足に見立てて、それを交互に動かしていく。
「なにそれ、ぜんぜんわかんないんだけど」
私は自販機の取り出し口からペットボトルを出そうとしたが、どこかが引っかかっていて、なかなか抜けない。
くそっ。
「すげえ、軽いっていうか、重力を感じねえんだよ」
「トゥリルやターンに重力関係ある?」
「あの、ティラティラティラトゥラランっってとこ、すっげえ軽いよな。おまえの指、いったいどうなってんだよ」
私はようやく引き抜いたペットボトルを胸に抱くと、「そんなの誰がやっても同じでしょっ」と言って、楽譜がぎっちり入ったカバンを肩にかけた。
談話室を急いで出る。
驚いた。
まさか、宮島の方から、声を掛けてくるなんて。
レッスンの時間は、私が14時で宮島が15時だから、前後だからってこともあるけれど。
けれど。
「佐藤、君、本当にちゃんと練習してきたのか?」
教授に言われて、私は力なく頷いた。
「なら、おまえにはやる気もないし、才能もない」
「……すみません」
「八小節目、ターリララーラララっ……のところ、宮島ならもっとダイナミックに弾くぞ。力が足りないんだよ。アジタートをもっと理解してからレッスンに来いっ」
宮島。と何度、比較されたことか。
実際、宮島の演奏を聴いて、私だってその実力差に何度、呆気に取られたか。
敵わない。
宮島の演奏は、学生時代からすでにピアニストのそれだった。緩急自由自在の上、超絶技巧もこなす。私が苦手とするリストだって、あっという間にモノにしてしまう。
宮島は、雲の上。私はいつも、そんな彼に嫉妬せざるを得なかった。
『嫉妬』
私も宮島も大学時代に師事した教授に、卒業後も続けてレッスンを受けさせてもらっている。ピアノは練習を一日サボっただけで、その技術はあっという間に衰えていく。指が動かなくなり、運指の滑らかさも、これまでの努力はなんだったのかと思うほど、あっさりと消えていくのだ。
新たな先生を探し出すのも面倒で、同じ教授に師事することとなった。
そんな教授が、宮島と私とを比べて、ひとこと余計なことを言う。私はコンチクショウと思いながら、ひたすら練習に励む。
いつからか、宮島に勝つためにピアノを弾いていると言っても過言ではなくなってしまったほどだ。
けれど。
生まれつきの硬い関節の指は、思うようには開かない。無理矢理開けた指では、オクターブ以上の和音になると、途端に力が入らなくなる。
いつまで経っても実力も技術も上へと歩まず、いつまで経っても宮島には届かない。
そして最悪なことに、私はそれをいつも、身体的不利のせいにしているのだ。
それが、私のハンデ。もはやそれは変えられない現実なのだから、仕方がない、と。
音大を卒業する二年前くらいだったと思う。私は小さい頃から持ち続けてきた『夢』の終わりを、ずっと応援してくれていた母に、告げた。
「……ごめなさい。私もうここで限界みたい。ピアニストは諦めて、ピアノの講師になるね」
夕日が沈んで暗くなった部屋。そうね、と母のひとこと。諦めるような顔で、頷いた。
私の胸にはそんな母の顔が、棘のように刺さっていて、いつまで経っても抜けることはないのだろう。
✳︎✳︎✳︎
「『嫉妬』を撲滅、ですか」
「まあそうですね、『嫉妬』を抹殺、です」
京子さんが、テーブルの上にドスンと置いた、重そうな買い物袋の口を開け、中から買ったものをひとつひとつ取り出していく。
「私が用事で出掛けてる隙に、まさかピアニストの方と」
「いえ、ピアニストではないと言っていました。ピアノ講師です」
「そこではありませんよっ……むむむ、私が用事で出掛けている隙にー‼︎ 美人ピアノ講師とっっ」
「美人だなんて僕、言いました?」
「とにかく、はいこれっっ」
「ん⁇ なんですかこれ」
僕が手を伸ばして、受け取る。手の中には、砂時計。コロンと丸いフォルム。ピンクに色づけされた砂が、サラサラと流れていく。
「えーーっと……これはいったい?」
怪訝な目で京子さんを見る。すると、京子さんの険しかった顔が、途端に緩んでいった。
「アケミマートで売っていました。なんだか可愛いでしょ。もうお店で一目惚れしちゃって。でもちょっとお値段がはりますから、それでどうしようかって、迷いに迷って。一時間、居座っていました」
「うわ、これだけのためにですか? 花月くん、怒ったでしょう?」
「ええ、まあ……。そんなに矢島さんのお給料、少ないんですかっ……とは言っていましたが」
「うわああ、男としての威厳がああ」
「大丈夫。ちゃんとフォローしておきましたから」
「な、なんて?」
「これは、先生へのお誕生日プレゼントなんです、と」
「はあ、そうですか……えっっ、僕のっ⁉︎」
「はい。お誕生日おめでとうございます」
京子さんが笑いながら、買い物袋の中から、ケーキの箱を出してくれる。
「わー、嬉しいなあ」
「ハッピバースデーディアせんせーい」
「ありがとうございます」
京子さんがケーキの箱を開ける。中には、ショートケーキが二つ、入っていた。
「丸いケーキは、全部食べきれませんものね。そんな理由でこれになりました」
「いえ、これで十分ですよ」
「さあ、食べながら、『嫉妬』について語り合いましょう」
京子さんが、ばちっとウィンクをする。
「えええええ、これから誕生日パーティーだと思ったのに、仕事するんですかあ?」
僕はブツブツと文句を言いながら、ショートケーキに予備でついていたロウソクを刺して、マッチで火をつけた。
「さあ、先生。願い事をしてくださいな」
京子さんがケーキを前に頬づえをつく。良かった、機嫌は戻ったようだ。
ああ、この幸せがいつまでも続きますように、そう思ってから、慌てて願い事を改める。
(京子さんの病気が治りますように……)
完治しないことはわかっている。けれど、願わずにはいられない。
僕は心で祈りながら、ロウソクの火をそっと吹き消した。
✳︎✳︎✳︎
「ごめんなさい、夢を見ているかどうかも全然、覚えていないくて……」
私は、申し訳ないという顔で、俯いた。
すると、矢島さんは直ぐにも顔を上げてくださいと、穏やかに言う。
「大丈夫ですよ、僕が確認しておきますから」
「それで『嫉妬』の方は、なんとかなるのでしょうか」
「それも少し様子を見たく。お時間をいただきたいと思います」
矢島さんは私の前で、無遠慮に頭を抱えた。
「あああ、それにしても難しい問題ですねえ。夢の中に入って、解決できそうならもちろんやらせてもらいますけど、『嫉妬』ってのは、心の奥深くにあるものですから」
矢島さんの言葉にクスッと笑った。
矢島さんが、鳥の巣のようにクルクルになっている髪を、ポリポリと指で掻く。
「どうしたんですか?」
「いえ、すみません。無理難題を押しつけてしまって。私のヤキモチはとても根深いですよ。ご苦労をお掛けするかもしれません」
「そんなに、ですか、」
矢島さんが言葉を失っていくのを見ても、私はこの依頼を撤回するつもりはなかった。心療内科にもかかったし、心が軽くなる本という類の本もたくさん読んだ。けれど、どれも効き目がないのだ。みなが、匙を投げたと言ってもいいくらいに。
「……一度、宮島さんとお話しするという方法も、あるかと思うんですけど」
探した言葉を、今度は遠慮がちに言ってくる。私は、これ以上矢島さんをいじめたらいけないなあと心で苦笑し、そして『眠り屋』を離れた。
泥沼だ。
『宮島』の名前を耳にするだけで、胸の中がどす黒い雲で覆われていく。
「ここまで来ると、もう病気だなあ」
一つ、ぽろっと言葉が出た。
そう呟いた言葉が聞こえたのだろう、すれ違うボブカットの中年女性が、私の顔をちらっと見ていく。
「……もう辞めようかな」
『佐藤カンナ』を辞めるのか、それとも……。
じわっと目頭が熱くなる。
私は泣くまいと、慌てて今弾いているピアノ曲の楽譜を、頭に思い起こした。
すると、どうだ。
指が、自然と動き始め、宙を踊る。黒と白の鍵盤は、幼い頃からすでに頭の中にあって、私は想像上のピアノの上では、ミスタッチもしないし、和音も重厚に押さえられるから、迫力ある演奏をすることができる。
滑らかな運指。踊る、指。
すると、頭の中を音楽が流れ、音符までもが踊り出す。
辞めることなど、とうていできない。
できないのだ。
ピアノを心底、愛してしまっているから。
「……こういうの、呪縛って言うんだな」
私は、曲を終わらせるために、手を握りこんで、中に指を隠す。
すっぽりと隠れてしまう、私のコンプレックス。
ぐっと握って、家へと帰るまで、私はそれを隠し続けた。