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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
嫉妬 −ガーベラ
7/63

ピアノ



『嫉妬』



この世で、抹殺したいもの。ひとつだけ挙げろと言われたら、私は真っ先に『嫉妬』を挙げるだろう。

私がどれだけ、この『嫉妬』という厄介極まりないものに、翻弄され、踏みにじられ、そして心を殺されたかを考えると、鳥肌が立つほどの憎しみが蘇ってくる。

苦しい。苦しい。こんな思いは、もう二度としたくない。

どうか神さま、『嫉妬』という醜い感情を、この世から抹殺してください。そして、『嫉妬』にとち狂ってしうまう、私の心も。

どうか、殺してください。



✳︎✳︎✳︎



「はああ、もう何度言ったらわかるんだね、佐藤」


組んでいた腕組みを力なく解き、悲壮な顔を浮かべる。教授はいつもこんな時、顔の筋肉を歪ませて、左右非対称な顔を作る。


「……すみません」


私は、動かしていた指を止め、そして鍵盤からすうっと離した。 開いていた指を、そのままゆるっと握ると、自分の太ももに置く。

握り込めてしまう、自分の短い指を恨めしく思いながら、目の前の楽譜に視線を走らせた。


「四小節目から……ここは何度も言ってるが、……ラララ ラララ ララーララ、だよ」


私が慌ててピアノの鍵盤を叩く。ラララ ラララ ララーララ。


けれど、教授は「違うっっ」と言うと、合わせていた両手をパンっと叩いた。そして、すっと立ち上がると、防音室の分厚いドアを力任せに開けて、部屋から出ていってしまった。


私は、そんな先生の後ろ姿の、残像を見つめる。


はあっと大きくため息をつきながら、次には自分の指を見る。

短い。


目一杯親指と小指を広げても、ツェーからツェーへの一オクターブが、ようやく届く、長さ。生まれつきの素材に文句は言いたくないけれど、これだけ指が短いとミスタッチも多くなるし、オクターブが限界だなんてことは結果、和音の重音に力が乗りきらないから、どうしても迫力に欠ける中途半端な音になってしまう。


ピアノ演奏に適さない手。神さまがくれた手は、私の夢を決して叶えない。


時々、これ意地悪で作曲したのかなと思うような、オクターブ連発の曲もある。私はその曲を、楽譜通りに弾こうにも、指が鍵盤に届かないのだから諦めるしかないのだ。


それが私。

私自身。

夢にも鍵盤にも届かない、私自身。


先生に指摘された四小節目を、涙目で追う。そして、その楽譜の通り、何度も何度も、繰り返し弾いた。


✳︎✳︎✳︎


「ピアニストですか? それは凄いですっ」


丸眼鏡の中の瞳を爛々と輝かせ、眠り屋の矢島さんは言った。持っている手帳とペンを、テーブルの上に放り投げ、そしてその手を太ももに打ちつけながら、「凄いっ」を連呼している。


「音楽家の方からの依頼は初めてです。あ、ここにサインをいただければ……」


私は慌てて、両手を挙げた。


「ま、待ってください。私、そんな凄いピアニストとかじゃなくって……えっと、神城音大ってわかります? ランクで言うと、県芸大の下の下なんです。しかも音楽教育専攻なので、ピアニストというわけでもありません」


「音楽教育。……ということは、音楽の先生ですか?」


矢島さんが少し、トーンダウンした声で、言った。


「はい。途中で専攻を変えたんです。時々、仲間とリサイタルはやりますが、あとはまあピアノ教室で、ピアノを教えています」


「そうですか。でも、それでも素晴らしいことです。僕は楽器や歌の方面はからっきしダメですから、羨ましいですよ」


羨ましい。


私が今まで生きてきた中で、もっとも心の中で思った言葉ランキングで、ナンバーワンの言葉だ。


たくさんのピアノの才能たちを、こうも間近で見ているのだから。


目の前に座る矢島さんを見る。いや、見るのはいつも指。矢島さんの指は、細く長く、いかにも丸眼鏡のその顔に似合うなあと妙に納得してしまうような指だ。


ニコニコとして温厚な話し方。事務所兼自宅という部屋の中は、大きなソファがひとつと、一人がけの小ぶりなソファが二つ、どんと置いてある。

電話はでかくて黒いし(見たことのない形、あの受話器に繋がっているクルクルと巻いてあるのは何だろう……)、驚いたことにテレビもパソコンもない。


(まあ、いまどきテレビなんか要らないか……スマホで見れるしな)


すると、スマホも持っていないと言う。それはもう、呆気にとられてしまった。


私はそうやって、眠り屋の事務所の中を、ぐるっと一瞥すると、テーブルの上のティーカップに視線を落ち着けた。白いティーカップを手に取ると、口を近づけて、ずずっと啜った。息を吐く。


そして。


「いけ好かないヤツがいるんです」

私が言う。


矢島さんがギョッとした顔を寄越してきた。


「さっき言ってた、ピアノの恩師ですか?」

「いえ、それもまあそうですけど、もう一人います。同じ教授に師事している、生徒の一人です」

「それは、どんな方なんですか?」


ティーカップを置く。カチャリと音がして、カップの高台がソーサーの窪みに落ち着いたことを知る。


「同じ学年で、卒業前も同じ大学で学んでいました。名前は宮島と言います」

「宮島さんも、ピアノの先生を?」

「いえ、宮島くんはピアニストです。演奏家一本で生計を立てています。非常に、……」


少しの間があってから、私は普通の様子で、続けた。


「非常に優秀です」

「そうですか」

淡月たんげつ教授のレッスンを同じ日に受けているんです。私が先で、彼が後」

「はい」

「抹殺したいんです」

「はあ⁉︎」


さすがに驚いたようだ。丸眼鏡がキラッと光ったような気がしたけれど、顔は腑抜けていて、私はちょっと笑った。


「すみません、そうじゃないんです。そんな物騒な話じゃなくてですね」


「はあ、まあ、そうでしょうとも。……ってか、そうじゃなきゃ困ります。うち、『眠り屋』であって、殺し屋じゃないですからね」

「ははっ、矢島さんって面白い方ですね」

「…………」


私は慌てて言い直した。


「『嫉妬』です。私が抱える『嫉妬』の念を、抹殺して欲しいということですよ」

「『嫉妬』⁇」


私は、長年鬱積していたものを、こうして言葉にして満足だったこともあり、キョトンとしている矢島さんを置いて、私は笑った。

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