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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
たゆたう時間 −リンドウ
63/63

解放


✳︎✳︎✳︎


朝晩になると少し肌寒くなり、秋という季節を身近に感じる日を三日ほど過ごしたある日のこと。


僕は、夢の中にいた。


それは仕事の依頼主の夢ではなく、僕という一個人の夢。


あれから僕は結局、夢魔によって見せられた夢に対して、こんこんと湧き上がってくる疑問を、ひとつとして拭うことができなかった。散々考えあぐねた末ようやく、再度あの夢魔に接触を試みることを決意したのだ。


いくつか訊きたいことがある。それによって心の平穏がかき乱されるかもしれない。

覚悟が必要だと思った。

リエコさんの死と向き合うこと。


「僕に……できますかねえ」


恐る恐る、僕は秋の花の代表であるコスモスの白い花びらを使って、自らの夢へと向かっていった。


腕時計を見つめる。秒針に合わせカウントを始める。


いち、にい、さん、しい……


自分の夢に入るという初めての試みではあったが、この方法で入れば間違いなく夢魔に逢える。向こうにその意思があるなら。


そして数分ののち。


自分の夢の中へと入り込んだ僕は目の前の光景を見て、愕然とする。


夢魔が言っていた通りの光景。

僕とリエコさん、そして……


「七緒くん、」


楽しそうに皆、笑っている。

親子、三人で仲良く手を繋ぎながら公園を歩いている。


生まれるはずだった赤ん坊。夢魔が創ったものだと思い込んでいたが、僕が(・・)七緒くんのイメージで創り上げていたのだ。


紛れもなく、僕自身の息子、『七緒』。


ああ。


『リエコ』さんも『七緒』も幸せそうに笑っていて。そしてその隣で『僕』が微笑むようにして立ち、二人を見守っている。


何という幸福感なのだろう。『家族』という確かな絆で結ばれた三人。その光景は愛に溢れていた。酔いしれるような感覚の極致。滑り台を上手に滑った『七緒』を、よく出来たね怖くなかった? と抱きしめ、『僕』は『七緒』を高い高いして、その柔らかな頬にキスをする。そして『リエコ』さんの頬にも唇を滑らせて。


そうなのか。

僕はこんなことを、毎晩のように、繰り返していたのか。

目覚めた時、毎朝こんな夢を覚えていたのなら、僕は二人のいない現実世界を地獄として捉えてしまい、いつしか心を病んでいたかもしれない。


だから防御本能が働いて、目覚めると同時に忘れ去ってしまうように、自らインプットしていたのだろう。


毎朝、目覚ましでもかけるように。


『……あなたの中にある罪の意識が、これを創っているのです』


隠れるようにこの光景を見ていた僕の背中に、小さく声がかかった。


僕は、そっと振り向いた。


夢魔だ。

けれど姿が違う。今回は七緒くんの姿ではなく、耳の垂れた茶色の犬の姿だった。

僕は、この犬の顔形に覚えがあった。


✳︎✳︎✳︎


リエコさんと初めて会った日。

それまでの梅雨の長雨が続いていたのが突然に終わりを告げ、太陽がここぞとばかりに世界中を照らしていた、あの日。


発端は、リエコさんがうっかりそのリードを離してしまったことにあった。ナナと呼ばれたビーグル犬は、僕に向かって突進してきて、僕の周りをぐるぐると回り始めた。


ごめんなさい! とパステルカラーのオレンジ色のスカートをひらひらとさせながら、散らばる髪を耳元で押さえて、慌てて走ってくる女性。


地をするすると這うリードを追いかける。まるで鬼ごっこのようだ。なかなか掴めない。

僕は彼女と一緒になってリードをなんとか掴もうとした。僕らはぐるぐると回ったりぶつかったり、座り込んで笑いあったりした。


余りに愛らしいその笑顔に、僕は一目で恋に落ちた。


「ナナ、今度はナナを選んでくれたのですね、ありがとう」


ようやくナナを捕まえて、連れていこうとする彼女を慌てて引き止めた。僕の連絡先を押しつけて。名前と電話番号だけでなく、住所まで書いてあるメモを見て、君は少しだけ瞳を揺らして、ふふっと笑ったんだ。


『リエコにあなたのことを頼まれたのです』


夢魔がその鼻先をふんふんと上げたまま、話し始めた。


『あの日、あの運命の日。リエコが心臓に違和感を覚えて死を悟った日。私は彼女の夢の中に誘い込まれて彼女に会ったのです。

彼女は自分の中にある、あなたとの思い出を私に託すと同時に、こう言いました。彼はきっと絶望して自分を責める。だから、これは二人の選択だったのだと伝えて欲しい、その後彼が生きていけるように、どうか手助けをしてあげて欲しいと』


ナナの一件で僕が君に恋をして、君からの連絡を毎日そわそわしながら待っているのに、一週間経っても音沙汰なく諦めかけていた時。


君から手紙が来たんだったね。手紙にはデートの約束がされていた。僕は天にも昇る気持ちで待ち合わせの場所へと走っていった。


君が電話でなく、多少の手間がかかる手紙という方法を選んでくれたことが、なぜかとても嬉しくて嬉しくて。待ち合わせ場所に君の姿を見つけた時には、小躍りしながら手紙を握りしめた手で、大きくおういおういと手を振った。


君に会ってすぐにプロポーズ。

自己紹介もまだなんですけどって、君をとても驚かせたんだったね。


夢魔がナナに変えた顔をこちらに向ける。


『時間がなかった。死はそこまで迫っていた。だからこそのシンプルな願いだった。でも私は最初、願いを叶える義理などない、そう思いました。けれど彼女が息絶えて、私は彼女の夢から追い出されると、また新たな夢へと吸い込まれました』


涙が頬を伝っていった。


『そして、そこで私は約束を交わしたのです。リエコのお腹の中でぐっすりと眠っていた、あなたの息子と』


僕の身体がビクッと揺れる。


『赤ん坊は夢を見ながら眠っていました。けれど、その夢は完全なる無でした。当たり前ですが、まだ赤ん坊はこの現実の世界の何一つも知らずに、ただ眠っているだけなのですから』


僕は、あふれた涙を拭わなかった。


突然プロポーズした僕をいぶかしむこともせず、リエコさんはじゃあまずはごはん食べましょう! と言って、僕の腕を引っ張って、近くのカフェに連れていってくれた。

サンドイッチを美味しそうに頬張ってから、そこでやっと名前を教えてくれたんだ。


信じられないかも知れない。そんなことあるの? と思うかもしれない。

けれど、僕はその時にはもう、君を深く深く愛してしまっていた。


君が照れながら作る料理はどんな味だろう、君がすやすやと僕の横で丸くなって眠る寝顔はどんなだろう、君から産まれる赤ちゃんはどれだけ可愛いだろう、どれだけ愛しい存在になるだろう。


『けれど、無であるはずのその赤ん坊の夢から伝わってきたのです。リエコがおなかをさすりながら赤ん坊に伝えていたメッセージ。そして、赤ん坊から伝わってきたメッセージ。二人でパパを幸せにしようって、二人でパパを大切に守っていこうって。母子お互いに心を通わせ合っていました』


夢魔が、鼻先をぷるぷると振った。


『私は心動かされ、約束をしました。あなたのことを見守ると、七緒に』


そうだった、主治医におなかの中の赤ん坊が、男の子と教えてもらった日。

名前は「七緒」にしようと決めたんだっけ。


ナナの「七」でもあり、七つの命とも言う。

たくさんの命に囲まれて生きて欲しいと願って。

じゃあ、七つじゃなくて、百とか千とかいっぱいあった方がいいかなと、君は笑っていた。

忘れていたよ。名前の話は、その時に一度きりしか話せなかったから。


僕が涙を止めるまで、夢魔は何も言わず黙り込んで、じっと僕を見ていた。

僕が立っていられずに座り込んでからも、ずっと見つめていた。


『あなたは……自分を痛め過ぎました。自分では気づいていなかったかも知れません。目覚めの時には全て忘れ去っていたから。でも、何度も繰り返し見る幸せな夢と現実の世界との間の大きなずれや矛盾によって、心の一部が最近になって壊死しかけていたのを、私は見過ごせなかった。まるであなたの心は、ゴシゴシと擦り合わせ、削られて、小さくなっていくかのようでした。

二人との約束を守りたかった。あなた自身がこのことに自分で気が付いて何とかして欲しくて、あなたの夢をすり替えてみたのですが、』


夢魔は今はビーグル犬のそれである茶色の短い尻尾をふりふりと振ると、ぐるりと一周してから言った。


『失敗でした。あなたのお腹を、無駄に空かせてしまっただけでしたね』


夢魔はそう言って、またぐるりと一周してから、踵を返した。


けれど、もう分かっている。

僕が夢魔を介してもらったのは、二人からの充分過ぎる愛情。


嬉しかった、とても嬉しくて。


心の底から、涙とともに喜びが満ち溢れてくる。

嬉しかった。今はそれしか言葉が出ないけれど。


「ありがとうございました」


僕は夢魔の背中に向かって、そう呟いた。

夢魔は一瞬動きを止め、それから振り返りもせずに、去っていった。


僕はその後ろ姿を見送ると、今一度、幸福な時間を続けている三人を見た。


家族という確固たる本当の愛情を知った今。

三人の姿は薄らぼんやりとしてきて、形のはっきりしないものになっていった。


きっと僕は、こうやって幸福な夢を創り上げることに心を費やし、またそれを忘却の彼方へ押しやることにも一生懸命だったに違いない。

本来見つめなければならないものから逃げることで、自分を少しずつ壊していたに違いない。


けれどこれからは。


二人にもらった愛情がある。


なにがあっても揺るがないものが、僕の中へと沈み込んでいった。

この胸の中に大切に仕舞い込んだのは、人を愛する気持ち。


愛情は形のないものだけれど、確かに僕はそれを抱き締めている。


だからもう、この夢は必要ないのだ。

僕はゆらりと傾いていく世界からの覚醒を待ちながら、夢魔と、二人に礼を言ってから自分の夢を辞した。


✳︎✳︎✳︎


眠りから覚め、かすみのかかったような僕の頭がようやく覚めてくると、僕の頬を何度も涙が伝った感触があることに気がつく。

横たわっているベッドから片足が転げ落ちている感覚もあった。


僕はいつまでもそのまま横になってぼんやりとしていた。が、陽が傾き始めたのを機にのっそりと身体を起こした。


すると。


花びらが一枚、ひらりと床に落ちた。


僕ははっとしてそれを拾い上げ、手のひらに乗せてみる。青い花びらが一枚。


それは僕が近所の空き地で貰い受けた、白いコスモスの花びらであったはずなのに?



あなたの悲しみに寄り添う



手のひらにある青いリンドウの花びらを、僕はずいぶんと長い間、見つめていた。

しばらくすると、読みかけの状態でベッド脇のサイドテーブルに放ってあった本に挟み込み、そのままそっと閉じた。



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