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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
たゆたう時間 −リンドウ
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疑うものは


花のような人だった。


大口を開けて笑うリエコさんの顔は、太陽を一身に浴びて凛々しく立つ向日葵のようであり、怒って口をとんがらせている表情は菫のように可憐だった。


あまり表に出しはしなかったけれど、僕は心底、心底、彼女に惚れていた。

彼女もまたそう思ってくれていただろうと思う。


けれど、それを確認する術はもうない。


彼女は生まれつき心臓に欠陥があって、一緒に手を繋いで走ることも、喜びや嬉しさで踊り回ることもできなかった。

そのことを早くに知らされていた僕は、物静かな彼女の隣を歩く時、いつもゆっくりなその歩調に合わせたりしていたし、決して無理をさせなかった。


けれど、そんな心臓に爆弾を抱える彼女が。

ある日突然、自分たちの子どもが欲しいと言い出した。


医者は身体が妊娠や出産に耐えられないだろうからと反対し、もちろん僕も右に倣えに決まっていた。けれど僕より歳上だった彼女は、毎日のように、その熱意を持って僕を説得してみせた。


「私、ずっと家族という存在に憧れていたの。夢だったの。矢島くんと暖かい家庭をつくりたい。矢島くんなら、きっと優しいパパになってくれるから」


何度も言い合いになった。けれど、そう言って最後には花のように笑ってみせる彼女が愛しくて眩しくて。


目が眩んでしまった。

不覚にも僕は、了承してしまったのだ。


それから僕と彼女との、薄氷の上を歩くような、命綱をつけずに綱渡りをするような、そんな毎日が始まった。


僕らが一緒に渡ろうと選んだ、二人の橋だった。いや、三人の橋だった。

その橋があっという間に音を立てて崩れ去ってしまった時、僕は愛する人だけではなく、これから愛を注ぎ込むであろう存在も同時に失ってしまったのだ。


そう、僕の愛しい人は、至福の存在をお腹の中に大事に抱えたまま、眠るように眠るように逝ってしまった。


僕は人生の選択を間違えたのだ。

いや、生きること自体を間違えてしまった。


愛しい存在を失った瞬間。同じように自分の心臓もその動きを止めるだろうと信じて疑わなかった自分が、とにかく愚かで浅ましい。

それなのに、悲しみのどん底でどれだけもがき苦しんでも、どれだけ後悔の念に深く深く沈められても、空腹を感じ、喉の渇きを感じ、眠気を感じて、僕の命だけは続いていった。


そして、愚かにも今も生き続けている。


あれだけ、愛していたのに。

全身全霊を傾けて、愛したのに。


どうして?

なぜ?

なぜ僕は、リエコさんとそして僕とリエコさんの赤ん坊の後を、追いかけていけないのだろう?

追いかけても追いつけないことを、知ってしまっているからだろうか。


僕は視線をずらして、フロランタンを見る。四切れのうち、一切れにフォークを刺し、口へと運んだ。


甘い。

生きている。

美味い。

生きている。

香る。

生きている。

涙。

生きて、いる。


席を立ち、僕は冷蔵庫へとフロランタンの食べかけを大切に仕舞い込んだ。


✳︎✳︎✳︎


「先生、大変ですよっっ!まさかの出来事が起こりましたっっ! 先生のファンの方が……痛てっ」


バタンと勢いよく開けすぎて、壁にバウンドして戻ってきたドアにおでこをぶつけた七緒くんが、額に手を当て痛ててててなどと言いながら、バタバタと入ってくる。


その片手には、白いカラーの束。


「七緒くんこんにちは。どうしたんです? そんなに慌てて、」


七緒くんは、僕が話しかけようとするのをお構いなしに遮って、弾丸のごとくに喋り始めた。


「ビルのエントランスの前に女の人が立っててですね。眠り屋さんですか? って訊くもんですから、僕は矢島先生の助手ですって胸を張って言ったら、先生に渡してくださいって、これをっ!」


七緒くんが、ずばばばばっと花束を差し出してくる。


真っ白なカラーが数本。品のよい水色のリボンで束ねられている。

それは清楚でシンプルな花束だった。

余計な飾りは何もなく、もちろんお店のロゴの入ったシールなどもついていない。


「カラー……ですか」


受け取ると、なぜかずっしりと重みを感じたような気がした。


実のところ。

七緒くんがそれを持って入ってきた瞬間から、僕の内には暗い雲が広がり始めていた。

そう、これも。このカラーの花も、リエコさん好きだったもの。


リエコさんは生前、よく花屋でこんな純白のカラーを買ってきては、花瓶に挿し窓辺に飾って楽しんでいた。

僕がまだ、この事務所を手に入れてなく、二人で小さなアパートを借りて一緒に住んでいた頃のことだ。


「……いただいた方のお名前は伺ってありますか?」


「あっっ! ……いやえっとそれがすぐに帰ってしまって。名前、訊けなくて……すみません」


七緒くんが、しょぼんとうなだれる。


「助手失格です……」


そんな怒られた仔犬のように、と僕は苦笑し、「良いです、良いんですよ。気にしないでくださいね」と言った。


けれど、気にしないでと言ってはみたものの。

漠然とした違和感のようなものを感じていて、それが小さく口をついて出てしまった。


「最近、なにかおかしいですね……」


けれど、そこで言葉を切る。

こんなに彼女について思い出させられることは、ここ最近、なかったのに。

黙り込んでしまった僕に向かって、七緒くんがおずおずと話し掛けてくる。


「こんな先生にもファンの方がいるんですね。普段はぼおぉっとしているわりに、すみに置けないなあ」


七緒くんはにこりと笑いキッチンに入ると、ガチャガチャとヤカンを鳴らしながら、お茶を淹れる準備をし始めた。


そして僕はもう一度、花束に目を移す。

また僕は、リエコさんを思い出すのだろうか? またフロランタンを冷蔵庫から引っ張り出して、リエコさんとの思い出に浸るのだろうか?


僕は何も考えないようにしばらく目を閉じ、キッチンへと耳をすます。ヤカンはいつまで経っても、蒸気笛を吹かない。


時間が滞っているような印象はいつまで経っても解消されない。冷蔵庫の中のフロランタンは、もしかしたらまだ四切あるのではなかろうか?


疑問の念を抱えつつ、もう一度、カラーの花束を見る。花束のリボンを解いて、机の上に置いた。

そして、この事務所にある唯一の花瓶を、棚から取り出して洗面所に向かい、蛇口をひねって水を流し入れた。


そうしている間も、ヤカンの蒸気笛の音は、聞こえてこなかった。



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