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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
たゆたう時間 −リンドウ
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記憶の奥底



君が照れながら作る料理はどんな味だろう、君がすやすやと僕の横で丸くなって眠る寝顔はどんなだろう、君から産まれる赤ちゃんはどれだけ可愛いだろう、僕にとってどれだけ愛しい存在になるだろう。


孤独な時間だけが、虚しくも過ぎてゆく。




『たゆたう時間』




眠気からくるあくび。何度も噛み殺す。

僕はその日「平穏」と表しても過言ではないぬるい時間を、過ごしていた。


ここ数日、依頼もなく、よって仕事もない。


「何だろうね、このヒマな季節は」


秋の初めは特に「眠り屋」の仕事の依頼が、極端に少なくなる。


もともと、築百年以上は経っているだろう古ぼけたビルの一室に事務所を構えてから、宣伝という宣伝は通りに面した窓の外側に「眠り屋」の看板をひっそりと掲げているだけ。


そんなわけで、その看板に書かれた「眠り屋」という職業を、不審に思う人からの問い合わせの電話は何件かは入るのだけど、僕が上手に説明できずにいるとだいたいの人は不審がって電話を切ってしまう。


アポなしでここへ来るのはおおむね飛び入りの客だがそれもまばらで、ここ半年ほどは、顧客の数はそう伸びてはいなかった。


「秋の夜長とか何とか言ってですね。皆んなここぞとばかりにこぞって本を読むんですよ。あぁ、ヒマですふあぁ」


僕が言いながらまたあくびをすると、部屋の奥からバタンと冷蔵庫の扉を乱暴に閉める音が響いた。


「ちょっと先生……いいでしょうか? そんな風にぼけええぇっしてるから、お客さんが来ないんですよ? 先月の収入、いくらだったか知ってますよね? しっかりしてくださいよ! こんなんじゃ、いつになったら新しいヤカンを買ってもらえるんだか。もうすぐ穴開きますよこれ」


そう容赦なく僕をやっつけてくるのは、七緒くんという小学生の男の子。

僕の助手だ。


僕はボサボサのままにしているくせ毛の頭をぐるぐるとかき混ぜると、はいはい、と生返事を返した。


「七緒くんは何かにつけて、お金お金って、語ってきますよねえ」


「当たり前じゃないですか! 助手としての在るべき姿ですよ!」


一息ついて続ける。


「……先生が言ったんですよ、弟子は無理だけど、助手ならいいって。その時点で僕は先生の助手という立派な地位を得ているわけです。けれど、僕が来てからは仕事らしい仕事は1件もないし、そうなると僕の出番もないって訳ですよ。やっているのは、こんな……こんな雑用ばかりで……」


古ぼけたヤカンの柄をぐぎぎと握りしめる。


「分った分った、分ったってば」


そう、このどこからどう見ても小学生の七緒くんは、見かけと変わらず、11歳(自己申告)の生意気盛りの男の子だった。とにかく口が達者で、僕はいつも、やれ仕事がないだのお金がないだの、小言を聞かされている。


ここに至った経緯をお話ししよう。


二週間ほど前のどんよりと曇った薄暗い日の昼、彼は突然、僕の事務所に現れた。その紅潮した顔。そして、彼は言った。


「僕を先生の弟子にしてくださいっっ!」


魔法使いの弟子とか、仙人の弟子とか、そりゃ格好良いけれども。ね。


もちろん、最初は優しくだが断りを入れ、ドアを閉めようとした。けれど、ころころとした顔つきの幼い表情がくしゃりと歪み、大粒の涙がこぼれ落ちそうになるのを見て、そう。

不覚にも、僕は可哀想と思ってしまったのだ。


1分後、良心の呵責に耐えかねた僕はドアを開けた、と。まあ、そういうことである。


学校帰りの二時間。

来客のお茶出し、コピー取りや帳簿つけ、買い物、料理……て、あれ? 結構働いてくれてるな?


頭が上がらなーい。


ご両親に了解をもらうことと、非情だけれど無給という約束で、助手にすることを了承した手前。こうるさいから、生意気だからなどの理由で、いまさら追い出すことはできない。


しかし、だ。小学生が、見知らぬ怪しげな場所に入り浸っていて、親は心配しないんだろうか?


そう言うとすぐに、七緒くんの母親だという女性が、挨拶に来た。


わがままな子で言ってもきかなくて。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

と、困り果てた様子で手渡された洋菓子。


丸い形の濃紺の箱にふんわりと詰められたフロランタン。


それを見た時。

ぎくりとした。


実はこのフロランタン。僕の妻となるはずだった女性の好物だった。


珈琲によく合う甘い甘いお菓子。アーモンドの香ばしい香りがたまらない! と、本当に美味しそうに、頬張っていたっけ。


僕は、ここ最近は埋もれて忘れていた記憶を、突然に掘り起こされ多少驚きはしたが、ありがたくちょうだいします、と受け取った。


フロランタンに気を取られていたためか、七緒くんのお母さんの印象は薄い。顔も薄らぼんやりとしか覚えていない。


はっきりと覚えているのは、まあ七緒くんのお母さんなら美人に違いない、そう思っていたのが当たっていた、ということだけだった。


「七緒くんのお母さんもお仕事していらっしゃるのですか?」


七緒くんは、くるりと背を向けると、キッチンへと入っていった。


「さあ。僕はよく知りません」


七緒くんは時々、こういった歯切れの悪い返事をすることがある。そんな態度を怪しむこともあるけれど、大抵は七緒くんの口撃で看破される。


七緒くんはキッチンへと取りにいったランドセルを背負うと、それではまた明日来ます、と言って帰っていった。


「ふう、」


息を吐いて、リビングに戻り、ソファに座る。

何となく、身体のそこかしこにいつもより疲れを感じている。子どもの相手は確かに疲れるのだが、これ程までだろうか?


「お金、ねえ」


七緒くんに言われるまでもなく、僕の手元の生活費は、枯渇している。けれど、実はありがたいことに蓄えは十分過ぎるほど、銀行の貸金庫に眠っていた。


それは、この事務所が入っている古ぼけたビルの持ち主でもあった、亡くなった祖父の遺産でもあり、以前夢によって苦しめられていた名のある政治家を助け、謝礼だと差し出された大金でもあり、とにかくありがたいことに僕はお金に困窮するということがなかった。


「けれど、男たるもの生活費くらいはねえ。貯金を崩すことなく、仕事の報酬だけでやり繰りしたいものです。そうですよね、リエコさん」


久しぶりに口にしたその名前。言ってから僕ははっとした。キッチンに向かい冷蔵庫を開ける。するとそこにはフロランタンの箱。まだ残っていたっけ?


「一切れずつ食べてるはずなんだけどな……」


七緒くんが来るようになってからだろうか。時間の流れが正常に流れていないような気がするのはなぜだろうか。

手元にあるフロランタンの蓋を開けた。

四切れ、残っている。


「おかしいな。食べても食べても無くならないような気がしますよ」


永遠に。

僕はフロランタンを食べ続けるのではないか? という錯覚すら。


彼女に愛されたこの洋菓子を前にし、僕は探るように記憶だけを呼び覚ましているに違いない。



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