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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
母 −クリスマスローズ
6/63

胸に刻む

「ごめんなさいね」


京子さんが、そっと顔を寄せてくる。


玄関を抜け、部屋に入るやいなや、黒電話が声高らかにリンリンと鳴り、矢島さんが電話口に出ている隙のことだった。


「いえ、大丈夫ですけど……。でも、矢島さんがあんなに怒ることもあるんですね。もっと、穏やかな人だと思っていました」


すると、京子さんが薄く笑う。


「ふふ、まあ穏やかな人ですよ」


笑うと目尻に皺ができて、京子さんがそれほど若くないということがわかる。


「でも、私のことになると、ね」

「?」

「私、持病があってね。レイノー症っていって、膠原病の一種でね。寒いと指先に血が回らなくなっちゃうの」

「あ、さっきの……」

「そうそう、ごめんなさいね。気持ち悪かったでしょう。指が真っ白になってしまうのよ。死んだ人みたいにね」


京子さんは自分の手を握ったり開いたりしながら、左の人差し指で、右手の手のひらを指した。


「ここ、この指の付け根から、指先まで全部」


人差し指で、すっとスライドさせる。そこはすでに血行の良い、普通の指先だ。


「もう今は大丈夫なんだけど、寒いなあって脳が思うだけで真っ白になっちゃうから、冬は相当に苦労していてね」

「血が回らなくなるって、それじゃ、」

「そうなのよー。そうなると、すぐに温めないと指が壊死しちゃうから。だから、冬はホッカイロが欠かせないの。ああ、大丈夫大丈夫。そうすぐにどうこうなるって訳じゃないから」


「それで、矢島さん、」

「そうそう。あの人、心配性だから……」


事務所の真ん中に置いてある、客用の大きなソファに座っている私の横で、京子さんは先ほどまで手にしていた花束を、机の上でガサガサと広げ始めた。


「クリスマスローズ」

「当たり。綺麗でしょー」


京子さんの口元が緩んだ。花が好きなんだな、そう思える横顔。花屋のオーナーでもあると、言っていたっけ。


「クリスマスローズって、アンティークっぽいものが有名ですよね」


私が言うと、茎の切り口に縛りつけてあった濡れティッシュを取り、包装紙の上に横たえた。


「そうそう、でもこの白のクリスマスローズもいいでしょう?」


その言葉に、心のまま素直に頷く。

真っ白な大ぶりの花が、それぞれに首をもたげているのは、とても見応えがあって豪華だ。


矢島さんが、電話口で「はいはい、わかりましたって‼︎ だから、その件に関しては、何度も言ってますけどっっ」を、繰り返しているのを横目に、矢島さんの声を頭のどこか遠くで聞いていた。


そこに。

京子さんの声だけが。するり、と。入ってきた。


「先生ね、いつもニコニコしてるけれど、昔に奥さまと奥さまのお腹にいたあかちゃんを、同時に亡くされているんですよ」


「え、」


クリスマスローズの花びらに、手を伸ばしている時だった。驚きの言葉に、私の指先は、花びらに届く数センチ前で止まった。


「だから、私のことも、心配しすぎるくらいに、心配になっちゃうのね」


そろ、と京子さんを見る。視線が合う。


「本当に、さっきはごめんなさいね。みっともないとこ見せちゃって」


申し訳なさそうに、ふふと笑う。緩む口元。弓なりになるその目。目尻の皺。

その皺が、苦しみや悲しみでできていることを、今、初めて知ったというのに。


(……ままならない)


ぽつっと思う。


人生とは、こんなにもままならない———


京子さんが続ける。


「いつもね。こんな病気まみれの私でいいのかなってね、思うんですよー」


京子さんの穏やかな言葉。けれど、二の句が告げられない。どう返事を返していいのかわからないでいるとまた、ふふと笑って、クリスマスローズを一本、私の前に差し出してきた。


「……家族って、色々な形がありますよね」


話してない。話してない。あかちゃんのことも。私のなにもかも。

ただ。眠れないと、話しただけ。

泣いただけ。

眠れないと、泣いただけなのに。

私は無言で、差し出されたクリスマスローズをそっと受け取った。


花言葉は、


———私の不安を取り除いてください


誰に聞いたのだったか、いつか教えてもらったことがあった。


そんな花言葉を思い出すと、ふわっと、優しい花の香りが漂ってきた。


✳︎✳︎✳︎


電話をようやく終えて、戻ってきた矢島さんに、京子さんが笑いながら言った。


「翁は、相も変わらずですね」

「全くですよ、あの頑固じじい」

「先生が粘り強くお相手をなさるもんですから、正蔵さんも嬉しくてつい、ここに電話してしまうんですよ」

「何度も何度も同じことを言ってくるんですよ。まあ、だいたいは人の悪口ですけどね。それを繰り返し聞かされるこっちの身にもなって欲しいです。たまったもんじゃありませんよ、営業妨害も甚だしい。そんなに僕がヒマを持て余しているように見えるんでしょうかね」

「うーん、まあ、ぶっちゃけその通りですもんね。返す言葉はないと思いますよ」


京子さんの穏やかな毒舌に私がふっと吹き出す。ああ、いつもの光景に戻ったなどと、少しの懐かしさまで芽生えた。


まだ、ここへ来るのは二度目だというのに。


「すみません、美香さん。お待たせしてしまって」


矢島さんが丸眼鏡をくいっと上げながら、電話台から手帳を取り上げる。


「では、始めましょうか」


ニコッと笑った矢島さんの顔を見る。

その丸眼鏡の奥にある、深く、そしてさらに深い部分を知った。


私も微笑んで、改めてクリスマスローズを、まじまじと見つめた。


✳︎✳︎✳︎


クリスマスローズの白い花びらを、一枚ちぎる。

それを手の中に入れると、潰さないようにと軽く握った。

矢島さんの指が、一本一本、開かれていく。

全ての指が開かれた時、花びらがはらはらと落ちていった。

その花びらの行方を見ているうちに、全てが無になった。

無になって、そして真っ白になっていった。


✳︎✳︎✳︎


「どうだった?」


圭吾が、キッチンからエプロン姿で出てきた。私は、肩にかけていた鞄をリビングのソファに放ると、そこへどさっと座った。腰が沈むと、途端にどっと疲れが出て、そのまま深く背をもたせかける。


ふと。

リビングの机の上には、基礎体温計とその手帳。妊娠のために毎朝、体温を測ってグラフにしたりしている。


それがすでに二冊目を回っている。あと少しで、それも満タンになるところだった。三冊目を買いに行かなきゃって、買いに行かなくちゃって、思ってた。


「んー……なんていうか、眠れたんだなあ」

「えっっ、マジでっっ、すごいな‼︎」


圭吾の声が弾む。けれど、すぐに落胆させるのだと思うと、申し訳ない気持ちになった。


「ん、でも、これからも眠れないだろうっ……て」


途端に、声が険しくなる。


「それ、どういうことだよ」

「うん、夢は見たんだよ。自分が眠って起きたっていう覚えもあって。でも、」

「なんだよ、」

「不眠症を治すことはできないって言われた」

「……やっぱそうか。イカサマだな。小林に文句言わなくちゃ」


「……やめて」


私は、机の上にあった体温計と手帳を手に取った。この手帳には、私の希望と絶望とが、縦糸横糸で織った絨毯のように、織り交ぜられている。その絨毯を、私はいったいどうしたらいいのだろう。床に敷いて、その上で寝そべってみるのか、それともぐるぐる巻きにして、倉庫に仕舞って置けばいいものか。


手帳を、そっと指でなぞった。


「でも、文句のひとつも言わねえと、」

「いいの。私は満足した」

「美香……」

「満足だった」


手帳を机の上に戻す。私はありったけの明るい声で、圭吾に向かって言った。


「ねえ、この前言ってたやつ、もう一度言って」


「ん、なんで?」

「もう一度、聞きたいの」


立ち上がって、エプロン姿の圭吾に近寄っていく。よく見たら、エプロン姿だというだけでなく、右手におたまを持っている。


ぷっと吹き出しそうになったけど、それは後で笑うとして。


それでも、私が薄っすらと笑うもんだから、さっきまでの圭吾の怒りの顔は、もうどこかへと去っていったようだ。


照れ隠しの笑み。眉毛はハの字に下がり、唇は結んではいるが波を打っている。


「あーーー、真面目に言おうと思うと、なんか恥ずかしいな」

「言ってよ」

「うん、まあ、……なあっっ‼︎」

「なあっって、なによ」

「あーー、わかったよ‼︎ えーーーっと、ごほんごほん。じゃあ、言うぞ」


圭吾は咳き込むパフォーマンスをしていた手を解く。


おたまを持っていない左手で、私の手を握り、ぐいっと引き上げ、右手も添えておたまごと、両手で包み込んだ。


ふわっと、玉ねぎの匂いが鼻に届いた。その匂いで、何を作っていたんだろうと、少し気になったけれど、圭吾の一世一代の告白を聞き逃すまいと、私は意識を強くした。


それを、この胸に刻むんだ。


「美香」

「ん」

「美香、子どもが居なくても、俺らこれからもずっと、夫婦だからな。同じ飯を食って、同じ空気を吸って、これからもずっとずっと一緒に笑おうな」

うん。

うん。

うん。

私も圭吾を守るよ。

今、隣にいる人が、大切で大事。


何度も何度も、頷いて、言葉を胸に刻み込んだ。


✳︎✳︎✳︎


「あかちゃんかあ。美香さん、幸せそうでした?」

「そうですねえ。あかちゃんを抱っこした姿は、『母』そのものでした」

「原因はそれだったんですか?」

「そうですね。まあ、こればかりはどうしようもありません。僕にできることは何もありませんねえ。もちろん、夢魔に頼んでこれからも偽物のあかちゃんを抱っこさせることは容易にできますが……」

「それはもう、現実ではなく夢ですものね」

「そうなんです」

「美香さんは、夢の内容を?」

「はい。最初は様子見のつもりでしたがこれはと思い、途中で方針を変更したんです。僕がゆっくりと覚醒を促しましたので、起き抜けは覚えていると思いますよ。けれど、夢というものは、時間の経過とともに忘れていくものなんです。矛盾のように聞こえるかもしれませんが、夢の記憶というものは、すぐに脳によって奪われてしまうんですよね」

「…………」

「……美香さんの夢から、とても強い願望を感じました。たとえ現実で『母』になったとしても、不眠症が解消するかと言えば、そうではないと思います。解決は難しいかもしれないです」

「……美香さんなら大丈夫ですよ」

「? なにかあったのですか?」

「はい、まあ先生には秘密ですけど」

「なんですか、それー。京子さんはいつも僕に冷たいんだから」

「うそうそ、教えてあげますよ。ほら、耳を貸してください」

「わわわ、こそばゆい」

「旦那さんのノロケ話、たくさん聞いたんですよ。ご飯を作ってくださるそうです」

「えええー、いつの間に⁇」

「先生が、正蔵さんと永遠に続くお話をされていた時ですよ。ふふふ」



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