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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
眠り姫のゆくえ −イルカのキーホルダー
59/63

sparkling




「美夕さん、水族館へはお父さんに会いにいったんですね。6歳で別れたとお聞きしていましたので、そこまでの記憶はないと思っていましたが、美夕さんの記憶の中にちゃんとあったようです」


「そうですか、そうですか。み、美夕……みゆぅうああぁあ」


男泣きとはこういうことを言うのだろう。


その男性は肩を震わせながら、嗚咽を抑えようともせず、涙を我慢しようともせず、慟哭どうこくした。


眠り姫の夢の中へと入ってから、一ヶ月近くが過ぎようとしていた。


それこそ、美夕さんの夢ではなく、現実にも夏のことだった。



僕はその日、二度目の仕事をこなすこととなる。






美夕さんが夕暮れ時、薄日の中をぼんやりと歩く学校帰り、点滅信号を無視して走ってきた車にかれて眠りについてから、丸ニ年。


眠り姫は、いまだ深い眠りの中でさまよう。


こうして眠っている顔を見ていると、どんな夢を見ているのだろうかと、確かに知りたくなるのかもしれない。



僕は結局、美夕さんのお母さんの依頼を受けた。



そしてそんな中、今度は美夕さんの父親に出会ったのだ。


離婚をした後、水野さん母娘とは疎遠であったそうだが、美夕さんが事故に遭ったことを遠い親戚からようやく知らされた父親は、ここ最近はずっと美夕さんの見舞いにきているという。


そしてある日。


彼は、イルカのキーホルダーを握り締めて、僕の目の前に立っていた。それは事務所の玄関の前のことだった。


僕は、彼から預かったこのキーホルダーを、眠り姫の夢へと届けることにした。


「美夕との思い出は……これしかないんです。ペアなんですよ。その時にはもう、離婚が決まっていたんでね。だからどうしても、美夕との思い出が欲しかった。でもね、父親とペアだなんて美夕が嫌がるかもしれないと思って。まずは美夕に買って渡してから、後でこっそり自分用に買いに行ったんですよ」


父親は唇を噛み、その痛みに耐えようとしている。


「こ、これを美夕と思って、……ずっと大切にしてきました。でも、あんな事故に遭うなんて、……まさか美夕がこんな目に遭うなんて。矢島さん、こんなひどい話、あっていいんでしょうか……」


聞き取れない程の弱々しさだった。声を震わせながらも一生懸命、言葉を絞り出そうとしていた。





そして、ゆっくりと眠り姫の顔に、視線を移しながら僕は、夢の続きを話した。


美夕さんの夢。そこで見た話をそのままに。


「キーホルダーを手にした美夕さんはすぐに決心して、水族館まであなたに逢いに行きました。あなたの姿や声を思い出すために、懸命に記憶から引っ張り出そうとしている、そんな印象を受けたのです」


いつもなら、知り合いの『夢魔』に頼んで、夢のキャストを演じてもらったりするのだが、今回はその危険性をかんがみ、そこにイルカのキーホルダーを置いただけにとどまった。



けれども美夕さんは、記憶の底を探っていき、そしてお父さんという存在に見事、ゆき当たったのだ。



「水族館の水槽。それはそれは、たとえようのない美しさでした。きっと、美夕さんが幼い頃に見たお父さんとの思い出を、心の中に大切にしまっているからなんでしょうね。夢とは、人の想いの結晶ですから」


僕の言葉を聞き終わるやいなや、彼は大柄な背中を小さく丸めて、声を殺すことなく泣いた。


イルカのキーホルダーを痛いほどに握り締めて。


その姿を見て、僕は自問自答する。


なぜ僕は、こんな仕事をしているのだろうか?


それは本当に、悩み抜いて相談に来る依頼者の、助けになっているのだろうか? ともすれば、悲しみや苦しみの淵へ、追いやる仕事ではないのか?


これだけ依頼者を疲弊させ、また慟哭させ、それになんの意味や意義があるのだろう、と。




僕は、時々。こうして、泥土でいどを噛みしめながらでも、地面を這いつくばって生きようとすることに、果たして意味があるのだろうかと、


思うことがある。




✳︎✳︎✳︎




長い間、私は寝ていたようだった。冷んやりとした床が体温でぬるくなっている。


「お父さ、ん?」


はっとして飛び起き、辺りを見回す。


大きな水槽は相変わらずそこにあったが、父の姿はなかった。


「夢、でも見ていたのかな……」


まだ少しふわふわとするようだ。両手を床について支えながら起き上がる。


きょろきょろと辺りを見回してみたものの、父の姿だけではなく、そう、イルカのキーホルダーも見当たらない。


なぜか、涙が溢れてきて止まらなくなった。


「お父さん、」


言葉に出してみる。もうずっと長い間、封印してきた言葉だ。


「……いかないで」


父も失った。

キーホルダーも失った。


途端に悲しみが満ちてくる。ヘドロの中にでも沈んでいくような感覚。身体が、重くて重くて、本当に重い。


「……お父さん、おとう、さん、」


私は、そこで座り込んだまま、泣き続けた。身体の中にある悪いものやおりのようなものまで、全てを吐き出すようにして。


お父さん、お父さんと何度も何度も繰り返し言葉にして精一杯、泣いた。



そして、いい加減に泣いた頃に、ようやく。



唐突に思いついたのだ。



そうだ、家に帰ろう、と。

お母さんが待っている。


辺りを見回してカバンを探した。手に取ろうと近づくと、カバンのチャックは半開きになっていて、中からカニ缶や鯖缶が転がりだしていた。


私はそれを拾って、ぐいっとカバンに押し込んだ。


「帰ろう、お母さんが待ってる」


鉛でも抱えたように、重くて辛い苦しみがあった。けれど、その苦しみに。力強く羽根が生える。


「帰ろう、帰ろう、家に帰ろう……‼︎」


カニ缶は、お母さんの大好物。

サラダにして、マヨネーズと和えると、お母さんは最高‼︎ って笑いながら食べてくれる。


「お母さん、今から帰るよ‼︎」


大声で叫ぶ。足にぐっと力を入れて、一歩を蹴り出した。


大ホールを出て、トンネル水槽の廊下を抜け、エントランスを横切り、出口へと向かって。


心がいて急ぎ足になり、そしていつしか走り出していた。


全力で。

全力で。


開けっ放しにしていたドアが見えてくる。


外から入り込む光が、私が行くべき道を照らしてくれている。


眩しかった。


そこがゴールであるかのように、私はありったけの力を両足に込めて、光の中へと飛び込んだ。




✳︎✳︎✳︎




「お疲れ様でした」


病院を出てから、事務所になんとか辿り着き、今までにない大きな疲労感に襲われながらドアを開けると、温かな光をまといながら、京子さんが出迎えてくれた。


「頑張りましたね」


柔らかい笑顔で、京子さんがそう労ってくれた次の瞬間、僕の全身からあっという間に力が奪われていってしまい、僕はその場にへたへたと座り込んでしまった。


京子さんの労いで、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。


僕はなんとか、声を絞り出して言った。


「あ、ありがとうございます」


ほっとした。


心底。


この手に余るほどの、今回の依頼。その重みと苦悩で、押し潰されそうになっていた。


それが京子さんの顔を見た途端、安心してしまったのだ。


京子さんは少しだけ、眉尻をハの字に傾けながら、言った。


「先生がお帰りになる少し前に、依頼者の方からお電話があって、」


僕はそう言葉を始めた京子さんを、床にへたったまま見上げ、眼鏡越しにぼんやりと見つめる。


「美夕さんのお母さんから、……」


言葉を待った。


「先生が、病院を後にしてすぐのことです。美夕さんがね、あ、もちろん眠ったままではありますが、『お父さん』と何度も仰ったそうです。そしてね、」


はかない微笑を浮かべながら。


「『お母さん、今から帰るよ』って」


京子さんが、白く滑らかな手を差し伸べてくれる。


「その言葉を聞けただけでも嬉しかった、そう矢島さんに伝えてくださいと。ご主人からもお礼の言葉を預かっています。ありがとうと、何度も」


僕はそのまま目を伏せた。


目をつぶると脳裏に浮かぶのは、眠る美夕さんの傍らで寄り添い励まし合う、ご両親の姿。


そんなご両親からもらった言葉を噛みしめる。


けれど。


その言葉を聞いてもなお、僕は素直に喜ぶことができなかった。そして、これで良かったという確固たる自信も、もちろん持てずにいる。


それは、彼らの苦悩を和らげるのではなく、ただ表面上、掘り下げただけにとどまったのではないかと思うからだ。



けれど、僕には。


ひとつだけ確信があった。




イルカのキーホルダーが、これからも美夕さんのご両親の支えになるのだと、そう信じて疑わないということ。




伏せた目の、まぶたの裏側には、一縷いちるの光。


僕は、夢から覚めたように目を開けると、差し出してくれた京子さんの手を取って、よっこらしょと立ち上がった。


「ありがとうございます、京子さん」


京子さんの手は、水仕事をしていたのか、ひんやりとして冷たかった。


僕はその手を引き寄せるようにして、京子さんを抱きしめると、その肩に顔を埋めた。



ふわりと。


花の香りが、した。



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