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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
眠り姫のゆくえ −イルカのキーホルダー
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crying



かなりの長い時間を費やして、歩いていたに違いない。


「はああ、もう疲れたよう」


腕時計はもうお昼を指している。ぐうぐうと鳴り続けるおなか。やはり腹時計は正確らしい。


カバンからラップに包んだいびつな形のおにぎりを手にとる。水筒のお茶を飲みながら、私はおにぎりを食べ始めた。


「レトルトの白米だけど、美味しーー」


目的地、それは水族館。自宅と同じ市内にあるのだから、もうすぐ到着するはずだ。


「お父さんに逢いにいく、わけじゃないからね」


言い訳しながら、おにぎりを頬張る。


「お父さんかあ。……逢えるかなあっていうより、そこに居たらどうしようって感じなんだけど、ははは」


そう言って、苦笑する。


「……いるわけ、ないか」


言葉が。アメ玉のようにころんと転がり落ちた。


けれど、水族館は父親との唯一、思い出の場所。

地図は頭に入っている。道は比較的、単純だ。


空を仰ぐ。夏の空。


入道雲が、下界のことわりなど気にすることもなく、モクモクと泡のようになって、夏の青空を白く占領している。


暑い。けれど、蝉の鳴き声すら聞こえないのだから、隕石が落ちる前の夏の猛暑よりは、多少マシのような気がする。


ハンドタオルで汗を拭った。





「あ、あった」


黙々と歩き続けていると、そのうち見覚えのある水族館の看板が見えてきた。


水族館の入り口は閉まっている。水族館の建物自体は崩れることも壊れることもなく、その外観を保っている。


関係者以外立ち入り禁止のドアに手をかけると、すんなりとそれは開いて私を中へと入れてくれた。


父親が居るはずもないことは分かっていた。隕石が落ちたのだ。生きていられるはずがない。



けれど、このイルカのキーホルダーが、どうしてスーパーのレジなんかに置いてあったのか。



その理由をどうしても知りたかった。


ゆっくりと館内を進む。


水族館の水槽は壊れていないが、その生死にかかわらず、魚が一匹も存在していないのが不思議だ。水がただ、その水面みなもをゆらゆらと揺らしているだけだった。


「よいしょ」


私は、水族館の中央に位置する大きなホールに続く廊下を慎重に歩きながら、重みのあるカバンを抱え直した。

掛け声が、小さなこだまとなって静寂の中へと消えていく。


「重いぃ」


実はここに来る途中、いくつかのコンビニに立ち寄っていた。


「でもコンビニに色々と残ってて良かったあ」


カバンにはそのコンビニでゲットした鯖の缶詰や、高級そうなカニ缶、数種のレトルトがパンパンに詰め込まれている。


重いけれど、その重みが幸せだ。


「カニ缶、嬉しい。お母さんが喜ぶわ。大好きだもんね」




重い荷物を何度か抱え直しながら、大ホールへのトンネル型のエントランスに入る。


この先には確か。大きな水槽があったっけ。


一度だけ、ギネスに載った大きさ。でもすぐにシンガポールだか、どこかの国に抜かされてしまったって、お父さんが言ってたっけ。


その大きな水槽の前で、父親と並んで写真を撮ってもらったことを思い出す。


「あの写真、どっかにしまってあるのかな……ううん、もう捨てちゃってるよね」


その時。


そのギネス並みの水槽がある大ホールに足を踏み入れた時だ。



私は動けなくなった。



本来ならジンベイザメが、その巨体を揺らしながら、悠々と泳いでいるはずだった水槽の前に。


男性が立っている。


私は後ずさった。両足が意思とは関係なく、後ろへ、後ろへと。



『……美夕』



よく響く、太い声。


名前を呼ばれ、私は金縛りにあったように、そのままその場にへたり込んでしまった。太ももにひやりとした床の冷感。倒れたカバンから、ガランガランと音を立てて、カニ缶や鯖缶が転がり出た。


『美夕』


父親だった。


私は、座り込んだまま少しの間、混乱していたのだと思う。けれど次には、今さらなんで? と思ってしまった。

思ってしまったのだ。


湧き上がってくる思いが悲しみや恨みまで連れてきて、回遊魚のように私の中をぐるぐると回り始める。


そして、私をこれでもかというほどに、その尾ひれでバチンバチンと平手打ちをしていくのだ。


私は今まで一度だって、待っていれば父がいつかは戻ってきてくれるだなんて思ったこともなかったし、父はきっと今でも私を愛しているはずだなんて、笑っちゃうようなことを考えたこともない。


何度も何度も。自分には父親はいないのだと、言い聞かせてきたのだから。


そうだ。


言い聞かせなければ、イルカのキーホルダーをゴミ箱に捨てた意味がなくなってしまう。


父との縁を断ち切るようにして、投げ捨てたのだというのに。



水槽の前の父がおいで、というようにして両手を広げている。


『美夕、美夕、美夕……』


忘れ去りたかった。けれど本当にそうならば、なぜ私はここへ来たのだろう?


『……美夕、』


憶えている声より、少し高いキー。私の名前を何度も呼んでいる。


へたり込んだその場で手を握りしめると、私は父の顔を真っ直ぐに見た。


出ていったのは私がまだ幼いころ。顔はあまりはっきりとは覚えていない。こんな輪郭の顔だったかな。


父のくしゃりと歪んだ表情が、私の記憶を妨げているような気もしている。


「お父さん……」


言葉にしてみる。するっと口から出て驚いた。けれどやはり、しっくりくるものではないようだ。


結局、湧き上がってくるものは。


「なんなの……い、今さら、なによっ」


叫んでみると、私の中でなにかがぷつりと音を立てて切れた。


手の中に握り締めていたイルカのキーホルダー。


「そうだよ。今さら……なによ、こんなものっ‼︎」


叫びながら父に投げつけた。


けれどキーホルダーは父には届かず、その手前で落ちて転がった。


それでも父の顔が、ひどく歪んだ。


その顔を見ただけで。


「う、うぅぅ」


感情が高ぶってきて、抑えられない。私は、その姿勢のまま、水族館の床をバシバシと両手で叩いた。その拍子に、目に溜まっていた涙が四方八方に飛び散っていく。


「あああ、ううぅ」


父は少し歩を進めてその大きな手を伸ばし、イルカのキーホルダーを拾い上げた。


そして、父は無理にでもにこっと笑顔を作ると。


『美夕、これはお父さんの大切な物なんだ。だから、もらっていくね』


そう言うと、それから父は。


「お、お父さん、?」


父の姿が緩やかにぼやけていく。輪郭がぼやっとしてきて曖昧になる。


そして父は、背にしていた大きな水槽の海に抱かれるようにして、そのまま。


『とても大切なんだ……』


言葉を残したまま、父は溶けていった。


「お、お父さんっ」


消えていく。溶けていく。時季外れの幽霊のように。夏のかき氷のように。砂浜に打ち上げられ、干上がっていく、透明な海月クラゲのように。


「待って‼︎ 待ってよ、お父さんってばっっ‼︎」


幻でも見たのだろうか、幻影を創り上げたのだろうか、逢いたいという気持ちが少しでも、私の中にあったのだろうか。


「お父さんっっ‼︎ い、行かないで、お願い。行かないで、行かないでええぇぇ」


ありったけの声で、叫んだ。


そして。


大声を出して酸欠にでもなったのか、頭がぐるぐると回り始め、その場で気を失ってしまった。



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