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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
眠り姫のゆくえ −イルカのキーホルダー
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wandering




「美夕、今日は図書館に行くの?」


お母さんの声かけに、私は振り返ってカバンを肩にかけると、用意していた嘘を告げた。


「そう。今日は学校休みだから。図書館の方が静かで落ち着いて勉強できるし、結衣ゆいにも勉強教える約束、してるしね」


私が創り上げた『友達』の名を挙げる。クラスの席が近く、話が合うという設定になっている。

友達がいないとなると、お母さんはほとほと困ったような顔をする。


「勉強の進み具合によっては、遅くなるかもだから、先ご飯食べてていいからね」


まあ、今日もレトルトだろうけど。


「なるべく早く帰るけど、あんまり外をうろうろしないでよ。お母さん、すぐ道に迷っちゃうんだから」


「わかってるわよ。ご近所さんだけにする」


「うん、そうして。遠くにいったらだめだからね。気をつけてよ」


「わかってる」


この世界に。


二人きりしかいないのに。


それなのに、もしお母さんまでいなくなったらと考えると、ぞっとして身がすくむ。 


私はスニーカーの先を、玄関の床にトントンと打ちつけて履き直すと、じゃあねとだけ言って、玄関を出た。


駅の近くまで歩く。けれどそこから、図書館とは正反対の道を選んで進んだ。


手の中にはひとつのキーホルダー。


その手にぐっと力を含むと、ゴツゴツとした部分が手にめり込んで鈍い痛みを感じた。





二日前。誰もいないスーパーで買い物をした時のことだった。


いつものように形だけではあるけどレジを通ろうとした時。


ぎょっとしてしまった。


レジのカウンターに、キーホルダーが置いてある。


私はビクリとして、動きを止めた。


この世界には、お母さんと私しか存在しないはず。私かお母さんが、なにかを動かさない限り、商品などの移動もあり得ない。


今までそこになかったもの。なかったはずのものがそこにある・・・・・という事実。


「うそ、なに……これ」


私はちょっとしたパニックに陥った。きょろきょろと辺りを見回すが、誰もいない。


改めて見ると、それはイルカのキーホルダー。少し色褪せてはいるが、確かに見覚えがある。


「誰が……ここに置いたの?」


ぞわっと背中に冷たいものが這い上がってきた。


「もう捨てたはずなのに……」


生きた心地がしなかった。キーホルダーを奪うように握りしめると、直ぐに家に帰り、お母さんに確認する。


「スーパー? 行ってないわよ、今日はどこにも。それにしても慌てちゃって、どうしたの?」


じゃあ、誰が?


「美夕?」


なんでもない、なんでもないと、母にも自分にも言い聞かせるようにして二階の自室に入り、もう一度、手の中のイルカのキーホルダーを見た。


これは、父親に買ってもらったキーホルダーだ。


お母さんと離婚する前、初めて父とふたりで水族館に行った。


その時、駄々をこねて、このイルカのキーホルダーを買ってもらった。それが。それだけが。父親との唯一の思い出。


父がいなくなった日。


待っても待っても、父は帰ってこなかった。お父さんに捨てられたのかと、子供心に悟った日。とうとう私は、イルカのキーホルダーをゴミ箱に捨てた。


それがどうして、スーパーのレジなんかに?




そして、私は図書館で勉強するなどと嘘をつき、カバンにおにぎりとお茶を放り込んで、家を出たのだ。


あの水族館へ行くために。


キーホルダーを握る手に、力がこもる。いつしか。その手に痛みが伴っていた。


けれど、私は歩いた。歩き続けた。


父を恨んだ、痛みとともに。




✳︎✳︎✳︎




「水野さん、……お母さん、それは……僕にはできかねます」


雨脚あまあしが、一層強くなった。『眠り屋』の事務所の窓をバチバチと叩く、大粒の雨。その雨が、激しさを増していく。


トイレの小窓が開いているかもしれない。

けれど、それに構う余裕はなかった。


今までに。


これほどの危機感を感じた依頼はない。


僕の中で、ビービーと警告音。大きな音をさせて鳴り響いている。


受けられない、受けるべきではない。


キッチンで聞き耳を立てている京子さんも、この件は断るようにと進言してくるだろう。


けれど、水野さんはとてつもなく強い意志と決意で、僕に面と向かって言った。


「眠っている娘を目覚めさせて欲しいとか、治して欲しいと言っているわけではないのです」


ハンカチを握っている手に力がこもる。


「万に一つのチャンスとか、そういった類の奇跡を期待している訳でもないのです。ただただ、美夕がどんな夢を見ながら眠っているのか。夢の中で美夕は幸せに過ごしているのか。それが知りたいだけなんです」


わっと、涙が頬を流れていく。


「……い、今までも気が遠くなるほど、長い月日。美夕が眠っているのを、見つめ続けてきました。でも私は無力で、」


く、と喉を鳴らす。それでも無理やりに喋ろうとして、水野さんは小さくコホコホと咳をした。


「わ、私は無力で、なにもしてやることができないんです。それに……美夕のこと、なにも分かってやれなくて。苦しくて苦しくて……」


そこまで一気に話すと、ぐぅと喉を詰まらせて、言葉をのんだ。


ハンカチで口元を押さえる。


そのハンカチに、嗚咽おえつを吸い取らせるようにして、水野さんはいっとき、慟哭どうこくした。





水野さんが落ち着きを取り戻す頃に、僕は折を見て話を始めようと思っていた。


「水野さん、今回はどうかお断りさせてください。この依頼は、深く眠る美夕さんの眠りを、さらに深くしてしまう恐れがあるんです。また、なにかのきっかけで美夕さんの琴線きんせんに触れてしまって、美夕さんの心を壊してしまうことも考えられます」


自分が導いた可能性にぞくりとし、全身がみるみる冷えていく。


「……そうなると今度は美夕さんから、目覚める可能性の中の1%ですら、奪うことになってしまうかもしれません。これにはかなりの危険性を伴います。僕にはできません」


背中を流れる一筋の汗。


だが、水野さんは縋るような瞳で僕を見た。


「矢島さん、お願いです。少しだけで良いんです。どんな夢を見ているのか、美夕は幸せでいるのか。もしも、その一端だけでも知ることができたら、私は……」


これ以上、水野さんの言葉を聞くのはまずいと、僕の頭でさらに鳴り響くアラート。


「私は……これからも美夕を……慈しみながら、見守ることができるんです」


声が。

彼女の震える涙声が。


僕が、僕の耳を塞ごうとしている手を、ぐっと握って引き止めてしまう。


「夢の中で美夕が幸せだと知ることができたなら、……これからもずっとずっと、見守ることができると思いま、す……どうか、」


僕は、震える思いで雨の音に耳をすませてみた。



どうやら雨は止んでいた。



ぴたん。

ぴたん。


雨樋からだろうか、雨粒が落ちる音が遠くで聞こえる。



その曇天の雲の切れ間から今、太陽の光は射しているのだろうか?






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