疑うべくもない
「な、なんですか、いったいどこに、」
「良いから、良いから」
小鬼がもたらしていた夢から醒めた、夕方。まだしっかりとは覚醒しない山崎さんを連れて、僕が二度、寄り道をしたあのバス停へと向かう。
まだまだ咲き誇っているオシロイバナ。その花壇を横目で見ながら、僕はバス停へと進む。
今日もおばあさんが……いた。
「おばあさん、こんにちは。今日も良い天気ですね」
声を掛ける。するとおばあさんは振り返り、そして笑った。
「こんにちは。良い天気だねえ。バスに乗るのかい? さっき、行ったばかりだよ」
そして不機嫌な口調で、話し始める。
「あのバスの運転手、また私を乗せずに通り過ぎちまったよ。本当に不親切な運転手だ。電話して文句の一つでも言わにゃならん」
そこで山崎さんが、あの……と声を掛けてきた。そのがっしりとした体躯には不釣り合いな、不安に揺れる瞳。
僕はなにをも説明せずに、山崎さんをここへと連れ出しているのだから、不安になるのも仕方がないことだろう。
「すみません。もう少し、ここで待っててもらえますか」
「ああ、ええよ」
山崎さんに言ったつもりが、おばあさんから返事が返ってくる。僕と山崎さんは顔を見合わせ、苦笑した。
さあ。本番はここからだ。
オシロイバナの花言葉は、疑いの恋。
僕は確かめなければいけない。それが本当に、疑うべき恋なのかを。
✳︎✳︎✳︎
見慣れたバスが、このバス停から道路のはるか向こうにその姿を見せる。あれはいつも通勤に使っている市営のバスではない。会社のロゴが車体にプリントされているのが見える。工場の送迎バスだ。
俺は、「眠り屋」の矢島さんに言われた通り、仕方なくバス停のベンチに腰を下ろした。隣にはおばあさんが座っている。
俺は月に二度、本社から工場へと職員の勤務状況の確認に行かされているから、その時にはこのバスに乗り込んでいる。
帰りは直帰で家に帰れるため、このバス停で降りさせてもらっていた。
そしていつも。
このバスの一番後ろには、彼女が乗っているはずだ。
目の前にバスが停まり、俺は恐る恐る、後ろの方の窓に目をやった。
居ない。
休んだのだろうか。
後ろの窓には、見たことのない年配の女性の顔がある。
もうこうなると、彼女の存在を含めて全てが夢だったのでは? と思えてくる。辺りを見回してみても、矢島さんの姿はどこにもない。
停車したバスのドアが、ガコッと開いた。ここで降りるのは、俺以外にはいないはずだ。停車はしたものの直ぐに発車すると思っていた俺は、驚いてしまった。
人が降りてきたからだ。
それは、グレーの作業服に包まれている、とても美しい人だった。
俺は驚きのあまり、固まってしまった。
女性は柏木さんだった。
俺の前に立ち尽くしている。いや、立ち尽くしているというよりは、対峙していると言った方がいい。キツイ視線に、むっとした唇。柏木さんは怒っているようだった。
バスはドアを閉め、いつの間にか走り去っていた。
「これ、お返しします」
ネコの封筒をずいっと差し出す。その封筒の膨らみを見て、今まで渡していた金額の全てが、入っていると思われた。
俺はそれを見て驚き、何が起こっているのか分からず、混乱していた。
あれは夢だったのではないのか?
夢だったはずだ。
いや、実際これが夢なのだろうか?
説明を乞おうと、眠り屋の矢島さんを探す。けれど、矢島さんの姿はどこにもない。
ベンチでは依然、おばあさんが座っているのみ。
俺はどうして良いのか分からずに、もっと混乱した。
「あの、これ」
さらに封筒を突きつけてくる。
俺がその封筒を受け取ると同時に、彼女は固まっていた表情を崩していった。
見惚れてしまう。その唇。その鼻、鼻梁。その伏せられた睫毛。さらさらと風になびく絹のような黒髪。その瞳。
瞳、美しい瞳。
くっきりとした二重の瞳。
本物だ。本物の柏木さんだ。こんなにも美人だったのだ。こうして近くで見て、驚きもあったし、動揺もあった。
俺の内側からせり上がってくるものは恋心。美しさは言葉を奪う。俺はやはり何一つ、言うことができなかった。
「どういうつもりですか」
思いも寄らぬ強い言葉に、俺は動揺して揺れた。
「可哀想なやつだと思って……んっ」
柏木さんの唇が言葉に詰まると、今度はみるみる目に涙が溜まった。
さっきまで澄んでいた瞳が、ぐにゃりと歪んでいく。
「ど、同情でっ……んっ、うぅっ」
俺は焦って、違う、と言いたかった。同情なんかじゃないと、伝えたかった。けれど、やはり俺は小心者で、口下手で。どうしようもないやつだと自分をなじった。
「お金、なんて、酷いっ、んっうう」
しゃくりあげるのを我慢するように、けれど涙は次々に流れていく。手の甲を押しつけて、必死で拭っていた。
遠くで大型の車が近づいてくる音がした。
それがバスなら、それに乗って君は去ってしまうだろう。焦りがせり上がってくる。けれど、恐る恐る顔を上げると、ガガガッと音を上げてトラックが凄いスピードを出して横切っていった。
俺は、ホッと息を吐いた。
けれど、その後からトラックを追いかけるようにして走ってくる、市営のバスの姿が目に入る。
彼女も同じように振り返って、道路の向こうを見る。泣かせたまま。行ってしまう。
バスに乗って去ってしまう。
消えてしまう、夢でも夢じゃなくても。
こんなにも彼女を愛してしまっているのに。
バスが横づけされる。スローモーションのように、ドアが開く。
彼女が一歩、ドアへ向かって踏み出そうとした瞬間。
隣で声がした。
「行ってしまうよ」
言霊に突き動かされて、俺は後ろから彼女を抱きしめた。目をぎゅっと瞑ったまま、一生懸命抱きしめた。
苦しくないだろうか、そう思って腕の力を少し緩める。
けれど、離さなかった。
ネコの封筒は、俺の手で握り締められて、ぐちゃりと潰れている。
「あ〜あ、また行っちゃったわい! 私を置いてけぼりにしおって!」
おばあさんが怒鳴っている。
俺は声を絞り出して言った。
あなたが好きなんです、と。
✳︎✳︎✳︎
おばあさんの娘さんが、おばあさんを迎えに来たのを確認すると、僕はそっとその場をそっと離れた。
オシロイバナの茂みの後ろ。おばあさんを早く迎えに来て欲しいと切に願って隠れていたけれど、実は僕は山崎さんの恋が叶えられる瞬間には立ち会えなかった。
スマホを持つ人を、うろうろと探し回っていたからだ。
もう直ぐ日が暮れる。もちろん依頼者である山崎さんの件の方が、気になってはいた。けれど、おばあさんが家に帰れなくなると困ると思い、その場に居ても立っても居られなくなった。
僕がスマホを持つサラリーマンに頼んでおばあさんの娘さんに電話してもらい、バス停へと戻る頃には、山崎さんと柏木さんはベンチで二人、寄り添っていた。
大きな身体の山崎さんと並ぶ女性。僕が夢へと入った時に見た柏木さんだ。
きっと、これで心無い者たちの彼女への金の無心も収まるだろう。あんな大男が彼女の恋人では、誰も手を出すことはできないからだ。
「今度工場へ行った時には、無言で睨みを効かせながら、工場中を歩いてください」
有効なアドバイスもしてある。
僕は、ほっと一息ついて宵闇の空を見上げた。まだ星は少なく、けれどその色は、次第に濃い藍色で染められていく。
「さあ、もう君たちの出番はないですよ。柏木さんをバス停まで連れてきてくれて、ありがとうございました」
そして、苦く笑う。
「まあなんとか上手くいきましたが、僕も今回は本当に役立たずでした。それにオシロイバナの花言葉。意に沿わない花を使ってしまいましたね……」
いつも依頼者を眠りに誘う花は、その依頼者の心に寄り添う花言葉の花を選んで使っている。
けれど、今回は全くの見当はずれ。僕は苦々しく笑った。
疑いの恋?
疑う余地などない。
山崎さんの恋心は、正真正銘、真実だ。
宵闇の空を、風が吹いていった。
あのバス停で、恋人たちはまだ、肩を寄せ合っているのだろうか?
いや、きっと抱き合っているだろう。