偽りの夢
僕が二度目に山崎さんのアパートへと足を運んだ日。オシロイバナを手に入れるためにバス停に寄ると、この前と同じおばあさんに出会った。
「ああ、こんにちは。今日はバス、乗り過ごしていませんか?」
僕が話し掛けると、彼女は怪訝そうに僕を見て言った。
「んん? あんた、どなただったかねえ? 私はバスを待ってるけど、あんたもか?」
話が噛み合わないのを奇妙に思いながらも、話を続ける。
「いえ、僕はバスには乗りません。あの花、オシロイバナを見にきました」
先日より明らかに開花の数が増えている一角を指差して言った。
「おばあさん、今日はバスに乗り遅れないようにしないといけませんね」
すると、おばあさんは途端にそわそわし始めた。
「そうそう。私がここで待ってるってのに、バスは停まらずにいつも行ってしまう。ひどい運転手なんだよ。バス会社に電話したらにゃいけん」
僕はもしかしてと思った。
それを裏付けるかのような、おばあさんのポシェットにぶら下がっている札。彼女の名前や電話番号が書いてあることに気がついた。
どうやら認知症のようだ。
僕はスマホを持っていないので、通り過ぎた女性に声を掛けてその番号に電話してもらい、そのおばあさんの娘とやらが迎えに来るのを待った。
恐縮しながら迎えに来た娘さんにおばあさんを預ける。
それから、僕は山崎さんのアパートへと向かった。夏が始まり、肌がちりちりと日差しを感じて薄っすらと汗をかく、そんな日だった。
✳︎✳︎✳︎
俺は彼女を見ていた。
金を巻き上げられる彼女の様は、羽をむしり取られるような鳥のようで痛々しい。そのうちにみるみる弱っていってしまうようにも見えた。
もともと暗かった表情も、今では闇の底を這いずり回っているようなものに変わっていった。
最初はどうしてはっきりと断れないのかと、俺は相当イライラしていた。
そして、心から可哀想にと憐れんでいた。
それなのにどうしてか。彼女を助けたいと思うようになっていた。
自販機の前で目を細めて缶コーヒーを美味しそうに味わっている横顔を、いつの間にか、綺麗だと思うようになっていた。
「どういうつもりですか? これ、お返しします」
バスの中で僕が渡したものを、彼女は可愛らしいネコのついた封筒で返してきた。
強い口調でそう言われた時、なんだこんなにもはっきりと物を言えるんじゃないか、そう思ってしまった。
「お返しします」
声は小さいけれど、ちゃんと意思を持って発した言葉に、俺は小さな感動を覚えたくらいだった。
けれど、俺は何も言えなかった。いつものように、口は鉛のように重く開かない。
そして、沈黙が続いた。
彼女の横に座っているというのに。
バスの窓は気持ちよく開け放たれて、彼女の髪をさらさらと巻き上げているというのに。
俺はこんなにも重苦しい気持ちで彼女の隣に座っている。
俺はそれをなかなか受け取らなかった。拳を握って、受け取らなかった。
そうしている内に、いつもの橋に差し掛かり、俺は右手を胸ポケットに入れた。そして、中のものを取り出すと、彼女が持つネコの封筒の上に重ねるようにして、ぐいっとねじ込んだ。
「あ、ちょっと!」
そして、バスを飛び降りるようにして出る。
背中には、待って! と、彼女の慌てた声を感じていた。
✳︎✳︎✳︎
「お金を、紙幣を渡しているように見えました」
僕が見た夢の内容をそう結んで終えると、山崎さんがようやく口を開いてくれた。
「夢の内容は、だ、大体その通りです。それで、起きたら……財布から、ほんとに金が無くなってて」
「実際にも、無くなっているわけですね。財布を開けたりという記憶は無いのですか?」
「全く、身に覚えが……」
「なるほど、と」
僕は手帳を閉じて、慎重に言った。
「では、もう一度夢へと入らせてください。次で終わりにしましょう」
すると、途端に山崎さんの様子がおかしくなってしまった。
「え、終わり? って? もう、夢を見なくなるんですか? そ、そ、それは困ります。い、嫌です、止めてください」
彼女への恋慕の情が溢れていた。夢でもいい彼女に逢いたい、そんな山崎さんの気持ちを知り、僕は苦く笑った。
金を無心される彼女を放っておけなく、無意識のうちに自分のお金を渡してしまうまでに、その愛情を昇華してしまっていたのだ。
「す、好きなんです。横に座りたいんです。夢でも、夢だけでも。金のことはもう良い、です」
涙が零れ落ちる。僕ははっとした。邪なものがなに一つ含まれない、透明な涙だ。
応えたいと思った。この純粋な心に。
「大丈夫です。彼女には逢えますから」
僕がにこっと笑うと、彼は拳でぐいっと涙を拭って、僕を見た。
✳︎✳︎✳︎
「これは単なる悪戯でしょうか、それとも、」
僕の問い掛けを途中で塞ぐように、言葉は投げられた。
『オイラたちは女を助けたいだけだ! 邪魔するな! 邪魔すると、痛い目を見るぞ』
『そうだっ、邪魔するなっ!』
山崎さんの夢へと入ること、三度目のこの日。この不思議な夢のカラクリを明らかにしようと、そういう決意で臨んでいた。
そうではないかと踏んでいた通りだった。「夢魔」の仕業だ。
「夢魔」とは、人の夢に巣食う存在で、人間の夢から夢へと渡り歩いて、その夢を食い散らかしては糧としている妖魔だ。
その中には良い性質のものもいれば、悪いのもいる。性格も違うし、容姿外見などもそれぞれ違って、個性的だ。
職業柄、僕はこの夢魔という存在に遭遇する率が極めて高い。仕事で懇意にしている夢魔もいる。その姿形は、黒豹だ。
今回、山崎さんの夢に巣食っているのは、僕のイメージから言うところの、「小鬼」であった。それも、「双子の小鬼」だ。
『なんだおまえ、早く出て行けっ!』
『出て行けよっ!』
頭頂部の角のようなものをこちらに向かって突きつける。刺さったら痛そうだ。これは僕の方が不利と見て、僕は両手を上げて、降参のポーズを取った。
「待ってください。君たち、彼を使って彼女にお金を届けさせるのは止めてもえませんかねえ? そんなことをしても、彼女が受けているイジメの件は解決しないと思いますよ」
小鬼たちはお互いを見合った。それから、僕を怪訝そうな目で見る。
『なんのことだ。なにを言っている……』
『な、なんのことだ』
「柏木さんが職場でイジメに遭っている件です。彼女、お金を巻き上げられていますよね。それを君たちが助けようとしている。けれど、山崎さんのお金をあげても、彼女は受け取らないし、イジメも無くなりませんよ」
『受け取ったぞ』
『そうだ、受け取っていた』
僕は上げていた両手を腰に当てた。
「それは無理矢理、山崎さんが押しつけているだけだからですよ。現に彼女、封筒に入れて返そうとしていたでしょ。覚えていませんか? ネコの封筒に入っていたものです。あれ、山崎さんがあげたお金ですよ」
小鬼たちは、さらにお互いを見て、何かヒソヒソと話し始めた。
構わず、僕は話を続けた。
「夢を見せながら、現実でも人間を操れる夢魔なんて、初めて出くわしましたよ。凄いですね、どうやっているのか知りませんが、山崎さんは全て夢だと思っていますよ」
『オイラが男に夢を見せている』
『オイラが女に夢を見せている』
思いも寄らぬ手法が判明し、僕は感嘆の声を上げた。
「うわあ、同時にですか! では、山崎さんだけではなく、柏木さんにも同じ夢を見せているってことですね?」
小鬼がふんっと鼻から息を吹いた。
『簡単だ』
『そうだ、簡単だっ』
「さすが双子ですねえ。君たちは柏木さんがイジメに遭ってることを、夢で山崎さんに知らせようとした。それで、お金を渡すよう、山崎さんを操っているわけですか」
『男は時々、女のところへとやって来る。女のことも知っている』
『二人は同じバスに乗って帰る。その時に夢を見せている』
「へえ、凄いですねえ」
僕はさらに感嘆の声を上げた。今までにない事例に、興奮すら覚えた。
『オイラたちは金を渡すように仕向けているだけだ』
『あとはあの男の心だ』
「夢でお金を渡しているように思わせて、実際にもやり取りをさせるなんて、本当にスゴ技ですねえ。けれど、ご両人が夢だと思っていても実際問題、山崎さんは手元のお金を失い、柏木さんの手元には、現実には正体不明のお金が握られている。その矛盾にお二人が気づいて困惑混乱してしまうことなんて、少し考えれば分かるじゃないですか?」
『金を渡せば、喜ぶと思って』
『喜ぶと思って』
僕は大仰に溜め息を吐いた。
「そんな単純ではないところが、人間の心の複雑な部分なんですが。まあ、良いでしょう。でもどうして君たちは、お金を与える人に、山崎さんを選んだんですか?」
『男は、女をよく見ている。間違いだったか?』
『間違いだったか?』
小鬼たちが揃ってこちらを見る。僕はふすっと笑って、「いえ、間違ってはいないと思いますよ」と言った。
『金を渡すのはもうやめる。それで良いか?』
『それで良いか?』
「そうですね。その方が良いです。それにこの問題を解決する良い方法があります。心配しないでください。君たち、手伝ってもらえますか?」
僕は詳細を説明した。僕のお願いを聞いた小鬼たちは、やはりその表情を変えずに問うた。
『どうして、そんなことをするのだ?』
『どうしてだ?』
僕は小鬼たちが満足して帰っていくだろう言葉を伝える。
「彼女が幸せになる方法です。是非ともご協力ください」